インド・キンノール巡礼の旅
1997年8月20日(水) マナリで入院


 2時間ほどは寝ていたのか、5時には目が覚めてしまった。

マナリの病院の一日(ベッドに横になった私の体験は主観的で、一般化するのは間違いであることを承知の上)

 看護婦は昼夜二交代制になっている。朝夕病室で患者の症状の引継を行っている。カルテは病室の隅の机上に置かれていて、患者や付き添いも見ることができる。一日3回、脈をとり体温(体温は口で計る)を計りに来る。点滴なども看護婦の仕事。シーツの交換などは別の病室係りの女性が一人やっている。

 ドクターは9時出勤らしい。右足の内出血・腫れが気になるので看護婦にドクターへのコンタクトをとるよう頼んでも「9時に回診がある。」の一言で済まされる。しかし、実際に回診は11時頃になってあった。縫合手術等を施した二人については夜中に当直のドクターが様子を見に来たが。

 私たちの担当のドクターは40歳前後の男性(医長?)と3人の女性(内二人はヨーロッパ系のインターン?)。

 それぞれの仕事分担ははっきりしているようだが、患者の世話の大半は付き添いが行っている。食事の世話(給食はない)、下の世話、看護婦やドクターとの連絡、時には治療の手伝いまでやる。

 私たちの入院していた病室には洗面台やトイレがついていたが、隣室にはないらしく、隣室に入院している人や付き添いの人が常時入って来る。階下はどのようになっているのか分からないが何時も金属製の食器のようなものを落とす音がする。それもうとうとしているときに限ってガッチャンガラガラとやらかす。

 私は昼前まで両足の痛みは、捻挫か打撲、または筋を痛めたものと思っていた。手足に擦り傷はあるがそれはとくに痛むこともなかった。

 トイレも洗顔も、今野さん、有川さんの手助けも少しはできた。

 しかし、朝から右足踝の周辺が黒くなりしだいに腫れてきていた。どうも内出血しているらしい。看護婦に症状を訴えても、「9時にドクターが回診に来るから。」の一言。「湿布はないか。」と聞いても、「ない。」との返事(湿布は結局翌21日、森田さんより頂いた)。11時頃になってやって来たドクター、一目見るなり「レントゲンを撮りましょう。」と。結果は骨折。ただし、この結果も森田さんよりの情報。正式には17時頃、ドクター(医長?)がインターンと看護婦を連れてやって来て、「レントゲンの結果、踝の骨が折れている。」とまず踝の周りに脱脂綿を巻き、その上を石膏に浸した包帯でぐるぐる巻き付け、あっという間に石膏ギブスで固定してしまった。そして曰わく、「5日間は歩いてはいけない。足をついてはいけない。」。この時なんと事故発生より26時間、病院に収容されて18時間以上経過していた。 

事故発生以来、日本への連絡は森田さんに一任していた。病院内に電話(国際電話のできる)がない上身体が不自由な私たちはできる状態でなかった。しかし、「旅行社」(今回の旅の主催)からのみの連絡で本人の声を聞かなければ本当に大丈夫なのか家族が心配するのは必定。どうしても一度家に電話をかけておきたい。今野さんも同じ気持ちなのか、譫言のように「家に電話をかけたい。」と何度も言われていた。

 14時頃、介護のため付き添ってくれていたドライバーのプレムさんに頼み、「電話屋」まで連れていってもらう。彼の車に乗り、病院から2300メートルの商店街まで。パスポートやTC、現金など入れたウェストポーチは事故直後ガイドのネギさんに預けたため、私は手元に1円もなかった。幸い、今野さんのパスポート入れに日本円と米ドルが残っており、米ドルを60ドルばかりお借りして出た。

 まず家にかける。妻の元気そうな声にホッとする。「旅行社」から早朝に電話があり、「崖崩れに遭われ、下肢を怪我された。歩行に支障はないそうです。」「詳しい状況が分かったらまた電話します。」というような内容であったとのこと。心配で電話の側に居たらしい。状況を説明し、「怪我は足だけで、ほかはまったく問題なく大丈夫だから。」と話す。旅行社も随時連絡をとって下さるようなので取りあえず安心。

 今野さんのお宅に電話するが、繋がらず。ファックスのせいかと思っていたが、後日今野さんからお聞きした電話番号が間違っていたこと判明。

 240ルピーの電話代。ドルしかないのでというと「また後でサンペルさんに払ってくれればいい。」と。

 せっかく街に出てきたのだから、せめてガイドブックだけでも買っておきたいと無理をお願いする。マナリには本屋らしい本屋はないそうで薬屋の一角に並べられた、ヒマーチャル・プラデッシュとスピティ、シムラのマップ付きのガイドブックを買う。荷物のすべてを失ってしまったのは今野さんも、有川さんも同じ。二人のためにも同じものを買う。プレムさんに1000ルピーお借りする。これも後でサンペルさんに返してくれれば結構とのこと。

 ゆっくり買い物でもしたい気持ちはあったが、病院を抜け出してきている手前、プレムさんに迷惑をおかけしてもいけず、ガイドブックのみ買って戻る。

16時頃、河守さん、ガイドのネギさん、ドライバーのセリシンさんがサンペルさんやソハンさん、森田さんたちと病室に入ってくる。「本当に無事だったのですね。」「よかった。」あとは言葉にならない。

 あの土石流をまともに受けて全員助かったとは、奇跡以外のなにものでもない。

 9人が9人、まさに九死に一生を得たというべきであろう。河守さんの「みんな生かされたのですよ。」という言葉が胸にジーンとくる。宿命とか運命とかいう言葉がこれほど現実味を帯びたことはない。

 河守さんとセリシンさんはあの時、上手というより川原の方に向かってごろた石の上を駆け下りたそうである。大きな石が2メートル手前まで転がってきてもう少しで押しつぶされそうになったとか。靴のひもを結んでいなかったため捻挫されたが、幸い大事には至らず、18日に私たちのテントの隣でキャンプされていたフランス人の一行と一夜を明かされたとのことである。

 河守さんには下に逃げたものは「全員無事であった。」という情報しかなく、マナリに着くまで、私たちが土石流に巻き込まれたことも、負傷して入院していることも知らなかったそうだ。病院に来られる前に、森田さんの「風来坊」に立ち寄られたそうだが、私たちが迎えに出てこないので、「みんな冷たいなあ。」と思われたとか。三人とも入院していることを聞き、びっくりされた由。

 今日、口にしたものはミネラルウォーター、マンゴジュース 、チャイ、ビスケット、バナナ。付き添ってくれたサンペルさん、プレムさん、ネギさん(登山学校のインストラクター。ガイドのネギさんとは別人。キンノール地方出身者はほとんどネギ姓。)等がすべて買ってきてくれたもの。食欲がなかったこともあるが、インド式のトイレ(キンカクシのない足置きのついた和式トイレが洋式トイレの高さになったと想像していただきたい。男性小用にはよいが、大用には不安定。まして足の悪い者は使用不可能な代物。)しかない状況を考えると、固形物は極力避けたかったのが本音。

 一体何人の方が私たちのために来て下さったのか分からない。スタッフの5人、森田さん、サンペルさん、サンペルさんのお父さん、プレムさん、ネギさん、名前は分からないがそのほかにも、入れ替わり立ち替わりやって来て、何かと気を使って下さった。20日の夜は、プレムさんとインストラクターのネギさんが夜通し付き添って下さった。彼らが居なければ入院だけでなく、無事日本に帰ってくるのも難しかったと思う。彼らの親切、献身的な手助けに心から感謝している。

 ジープ2台とも土石流に押し流され埋没してしまったため、私たちは持ち物のほとんどを失ってしまった。残ったものは身につけていたものだけ。身につけていたものも土石流でドロドロになり、使えたものは僅か。私の場合は、ウエストポーチとその中に入っていたもの(パスポート、トラベルチェック、現金、アーミーナイフ等)、ズボンやベストのポケットに入っていたもの(現地紙幣とキャッシュカードを入れた財布、メモ帳、ポケットカメラ等)、それに壊れた35_カメラとビデオカメラが手元に残った。有川さんはウェストポーチ、今野さんはパスポート入れのみ残っていた。しかし、幸い、4人とも、パスポートとチケット、所持金の大半は無事だった。もし、パスポートを失っていれば、23日に帰国することはできなかっただろう。

 着衣も、ぼろ雑巾のようになり、残ったのはパンツ一枚。ネギさんにお借りしたTシャツとソックス、レストハウスの少年にお借りしたジャージのズボン(あちこちに穴のあいたかなり使い込んだ)のまま、ベッドに転がっていた。せめて、下着だけでも着替えたいと思い、森田さんにお願いする。早速、紙袋いっぱいの衣類を用意して下さり、私はポロシャツと綿パンそれにパンツを一枚頂いた。下着はその後デリーへ向かう途中、ドライブインで買って着替えたが、綿パンとポロシャツは日本まで着て帰った。頂いたものに着替えるとき、ベッドの上にきらきら光る石英や雲母の含まれた細かい砂が落ちた。髪の毛や身体に付着した土や砂は、帰国後、風呂場で洗髪し、身体を拭くまで残っていた。

 17時頃になって右足に石膏ギブスをされ、「5日間は右足をついてはいけない。歩いてはいけない。」と言われた私。化膿しているのか、発熱と痛みに苦しんでいる有川さん。吐き気、喉の渇き、腹部の痛みを訴え、一日中点滴をしている今野さん。この状況で明朝退院し、日本に向けて出発できるのか不安であった。しかし、今野さんの症状は、頭部打撲によるものかも知れず、一日も早いCT検査の必要性があり、有川さんの症状も重く、治療設備の整った病院に入る必要性がある。とにかく、可能な限り、明日デリーに向かうことで私たちの考えは一致していた。あとは森田さんにドクターとの交渉は一任したかたち。どのような話ができたのか分からなかったが、夜中に付き添いのプレムさんに聞くと、「問題ない。」「明日の朝、7時に出発する。」とのこと。

クル発デリー行きの飛行機は一日一本、10時45分発の18人乗りの小型機のみ。クルの空港まで車で2時間程かかる。