ネパールの旅
                  1998年8月22日〜30日
 
第1日目 8月22日(土)
 岡山発7:06(ひかり351)博多着9:26 座席9-18-D
 博多駅から地下鉄で福岡国際空港へ
 国際線第3ターミナル1階の団体受付カウンターで「バジェットツアー」の係員より航空券を受け取る。
 2番カウンターで搭乗手続き。丁度、グアム、済州島、シンガポール、大連行の便と重なったため、出国カウンターには長い列。
 10:40〜11:35待合室。
 11:35、0番ゲートより搭乗開始。
 福岡発12:10(TG649便、バンコク行。A300型機。)定刻に離陸。座席48-A(禁煙席)。飲み物(ビール)とランチのサービス。所要時間4時間45分、14:55(日本 時間16:55)バンコク(ドンムアン)国際空港に着く。
 出口でホテル「コンフォート・スイート」の出迎えの係員をさがすが姿見えず。 「インフォーメーション」カウンターから呼び出しをしてもらう。
 マイクロバスで空港の敷地の南に隣接するホテルに。
 14:00、チェックイン。
 16:00〜22:30、バンコク市内に。シーフードレストランで夕食。プラタナムで買 い物。
 
第2日目 8月23日(日)
 5:45、起床。曇天。
 8:00、空港行きのマイクロバス発車。国内線数人、国際線3人の客。
 搭乗手続きに、500バーツの空港利用税。
 8:40〜10:30、国際線待合室。予定の27番ゲートから1番ゲートに変更。1番から 7番は港内バスにて飛行機まで。
 11:00、30分遅れで、TG319便、カトマンドゥ行、A300型機、離陸。座席36-D。ビールとランチ。
 12:34(タイ時間13:49)予定より4分遅れ、ほぼ定刻にカトマンドゥ(トリブバン)国際空港着。雨季のネパール、着陸直前に雲の切れ目からカトマンドゥ盆地の緑が。簡素な空港。ヘリコプターの多さに山岳国の厳しさを。
 「Without Visa」の窓口で、15日までのビザの発行を受け入国。手数料15$。あらかじめ写真を貼付し、必要事項を記入していたため、スムースに手続き終了。
 出口で「Kaze」の看板を持った男が駆け寄り、荷物を奪う。その後ろに黄土色のキャップをかぶった小柄な青年が。彼がこの旅のガイド、テビィさんであった。
空港からホテル「マナン」まではタクシーで10数分。
 14:20、ホテル着。チェックイン。3階の208号室。カーテンを開けると隣家の屋上が数メートル。テビィさんと明日のポカラ行の打ち合わせをし、15:00過ぎ、カトマンドゥ市内の散策に。ホテルのあるタメル地区からチェトラバイの六叉路を通り、ダルバール広場に。旧王宮を中心にナラヤン寺院、シヴァ寺院、シヴァバールヴァティ寺院などのヒンドゥ教の寺院が並び、聖なる生き神クマリの館があるカトマンドゥの核になる場所。
 土産物を売る露店の並ぶバサンタブルで日本語の達者な露天商の若者に出会う。また、ペンダントを売りつけようとしつこくつきまとう若者にも。この若者、結局、その後1時間余り、私を案内してくれた。チップを要求することもなく。別れるときには物売りの姿から、素朴なネパール人の若者に変わっていた。名前はシャム・ネパール君と言った。
 彼の案内で、カトマンドゥの繁華街、インドラチョーク、マチェンドラナード寺院などを回った。ニューロードで彼と別れ、I.S.D.の看板のあるビデオ店で日本に国際電話。カンティ・パスのマハンカル・バイラーヴ寺院の前を通り、軍病院の北から裏通りに入り、再び、インドラチョークに出、アンナプルナ寺院のある交差点を北に進み、タヒティのストゥーパを見、タメル地区に戻る。
 タメル地区に入って間もなく、停電。土産物屋の並ぶ通りは、急に薄暗くなる。
18:30、ホテルに戻り、19:00過ぎ、1階のレストランでネパール風チキンカレーとチャパティ、野菜サラダを頼み、ビールを飲む。
 21:30には床につく。
 
第3日目 8月24日(月)
 5:45、起床。6:30、朝食のルームサービス。7:15、テビィさんから電話。1階ロビーに迎えに。「Kaze」のワゴン車で空港へ。国内線ターミナルはやけに狭い。それでも元は国際線ターミナルだったとか。3Z103便、ポカラ行は44人乗り双発プロペラ機。ほぼ満席。バスにて滑走路脇の飛行機まで移動するが、空港内の取り付け道路はガタガタ、未舗装部分さえある。一国を代表する空港とは思えない。8:05、搭乗し、8:10には離陸。30分で、ポカラに着く。黄濁したカトマンドゥとポカラを結ぶ幹線道路が眼下に見える。
 ポカラの空港は、3日前にアンナプルナの北麓ジョムソンからポカラに向かったまま行方不明の18人乗り小型機の捜索にかり出された人やヘリコプターで何か重苦しい雰囲気。雲の切れ目に僅かにマチャプチャレの尖峰。
 レークサイドのホテル街まで車でわずか5、6分。今日の宿、「ベースキャンプリゾート」にチェックイン。
 庭には、バナナ、パパイヤ、レモンなどが実をつけている。海抜高度が800メートル余りのポカラは亜熱帯気候。
テビィさんと今日の日程の打ち合わせ。変わりやすい天気を考え、車をチャーターし、ポカラの見所を一回りすることに。彼のネパールに対する思いや考えの一端を知る。整理すると、「貧富の差が激しい。その原因は、一部のネパール人が私利私欲に走っているからである。」「日本政府の援助の7割は、ネパール政府の役人の懐に入っている。役人の多くが所有しているパジェロはその一部。日本政府はしばらく援助をやめるべきだ。」「ネパールの最大の資源はヒマラヤの観光資源、不必要に手を加えることは止めた方がよい。」「森林破壊とゴミの山は憂々しき問題。」「インフラの整備、外国の援助任せ。」等々。
 一般のネパール人の給料は月3000円〜6000円。ホテルの案内によればこの部屋一泊72$。外国人観光客をターゲットにしたホテルの宿泊料金は50$以上に設定されている場合が多い。その差益は一体いずこに。オフシーズンの8月、多くのホテル、レストラン、土産物屋に観光客の姿は見えない。それでも店開きし、営業できるところに問題あり。
 10時前、ホテルを出て、まずパタレ・チャンゴ(デビッズ・フォール)へ。入場料5ルピー。ペワ湖から流れ出す川が礫岩の岩肌を削り、洞穴に吸い込まれるなど複雑な流れを見せる滝(フォール)。滝壺を覗いているのは10人余りの日本人ツアー一行様のみ。
 チベット難民は商売上手とか。マニ車やナイフなど並べた露店数軒。
道路を挟んで南側、タシリン・チベット村の中にすり鉢状の窪地があり、その奥に奥行き10メートルほどの洞窟。ヒンドゥの神を祀っている。拝観料5ルピー。写真撮影禁止。
 ニューバザール、オールドバザールを抜け、ヒンドゥバシニ寺院へ。石段を上った高台にクリシュナ、ヴィシュヌ、ドゥルガーを祀る祠が3つ。その中心は殺戮神ドゥルガーとか。鶏の首をはね生け贄にする女性。旧式のヤシカをさげた写真屋、2人。カメラ好きの日本人では商売にならない。境内の一番奥にまだ新しい拝殿。12、3歳の少年バラモンが鐘をならしながら読経中。
 参道のしつこい土産物屋を避け、裏道を下りる。
 11:30、ニューバザールの運転手が行きつけのネパール料理の食堂で昼食。カレー、ダル、豆スープ等が小さな器に入ったセット料理。ネパール料理は見た目ほど辛くない。
 午後はベグナス湖へ。ポカラの東、10数キロの山あいにある湖。高さ約10メートル、長さ数百メートルのまだ新しい堰堤が造られているところから、人造湖と思ったが、テビィさんの話ではもともとあった湖に、5年ほど前、新たに堰堤を造り、貯水量を増やした由。
 堰堤の下に日本の援助(?)によって造られたという養魚場あり。
湖岸に貸しボート。漕ぎ手がついて1時間、200ルピー。シーズンオフの今はお客も少ないらしく、私の頼んだ漕ぎ手の青年には、今日始めての仕事になったようだ。雨が上がり、雲間からは日差しも。テビィさんは折り畳み傘を広げ日差しを避ける。水温はさほど低くはないが、湖面をさわやかな風がぬける。小舟で網を入れる漁夫が一人。濃い緑が湖面に影を落とす。気持ちが和らぎ、日常の混沌とした思いの全てが消えていく。櫂のきしみと舟辺にあたる水音が心地よい。
 ボートを下りる頃からまた小雨が。堰堤の下、茶店の葦簾の下でビールを飲みながらテビィさんと歓談。ドライバーはホテルのオーナー所有の45,000$のサニーを洗車(聞くところによると関税のせいか自動車は無茶苦茶高い)。
 14:30頃、湖から一度ポカラ市街地に戻り、ポカラの北郊にある鍾乳洞、マヘンドラグッファへ。途中、建設中の医科大学あり。
 ガイドの青年、「鍾乳洞」「鍾乳石」「石筍」など日本語の専門用語、ご存じ。
日本人観光客より教わったとか。洞内は、所々に電灯はあるものの、薄暗く持参の懐中電灯役立つ。鍾乳石などはほとんど持ち去られ、鍾乳洞としては規模も小さく見るべきものはない。最深部にヒンドゥの神の祠あり。
 雨が大降りになり、入口向かいの店の軒下でコーラを一本飲み帰途に。
セティ川まで戻ったところで虹。ニューバザールの角の郵便局に寄り切手を購入。お茶の時間か、局員、窓口に現れず、しばらく待たされる。
17時頃ホテルに帰る。
 シャワーを浴び、18:30頃から食事に出る。ペワ湖に近いチベットレストラン(ラサ・チベッタン)にて鍋料理を注文。調理に1時間かかるとのこと。その間湖岸を散策。曼陀羅を描いている一軒の店に入る。
 ヤクの肉や肉団子、野菜のたっぷり入った鍋料理。店員は「チベッタン・しゃぶしゃぶ」と称していたが、銅の鍋はまるでしゃぶしゃぶ鍋。ただし、味は寄せ鍋風。待望のモモ(チベット餃子)は皮が厚く、冷凍食品の餃子を食べているようであった。メニューに、鍋は「3〜4人前」と書いてあった通り、量が多く、半分ほどでギブアップ。
 21時、早々に寝る。
 
第4日 8月25日(火)
 夜中、土砂降りの雨音。5時過ぎには小降りに。
 8時、ホテルのレストランにて朝食。コンチネンタル・ブレックファースト(トースト、紅茶、ジュース、バナナ、リンゴ)。
 9時、昨日のサニーでダンプスに向かって出発。
セティ川の支流、ヤムディ川に沿って走ること約30分。ポカラ市内から20q足らずで、ダンプスの登り口、フェディに着く。茶店が数軒集まっている。
ここからダンプスまでは急坂を2時間余り登らなくてはならない。しかし、スレート状の鉄平石を敷き詰め、石段をつくった道は歩きやすく、時間さえかければ、苦にならない。
 セティ川とヤムディ川の合流するあたりで雲の切れ目からマチャプチャレ(6993m)の尖鋒がちらりと見え、期待するが、空はほとんど雲に覆われたまま。
雲の中を飛ぶヘリコプターの音は遭難した飛行機の捜索・救援に向かっているものか。30分ほど林の中を歩くと急に視界が開け、石造りの民家と棚田の美しい小さな村に入る。赤トンボが飛び交い、道沿いに流れる用水は清く、澄んでいる(ネパールの大きな川の水はほとんど黄土色の濁流)。水田は稲からヒエに。
 デジタルビデオが珍しいのか、庭先に集まっていた村人が寄ってくる。何度か撮影しては再生してみせる。そのうち一人の男に家族の写真をとってほしいと頼まれ引き受ける。40歳位の夫婦に乳児を含めて子どもが6人、それにおばあさんまで加わり総勢9人の大家族であった。シーズンになれば毎日何十人、何百人ものトレッカーで賑わう幅1メートルほどのメインストリート。観光客慣れしているはずの村人であるが、実に素朴だ。
 村を抜けると、また、道は急になり、林に入る。しかし、若木が多く、草地が目立つ。近年急速に森や林が減少しているらしい。言うまでもなく、人口増加に伴う木材や燃料用の薪の需要が急増したことや牛や水牛、山羊など家畜の増加による飼料の必要性からの草地化によるものだ。
 林が途切れ見晴らしが良くなっているのも考えようによれば問題だ。
 途中から一緒になった老人とテヴィさんが何かしきりに話し込んでいる。後で聞くと、4か月前にダンプスまで電気がついたそうだが、家に引くためには4000ルピー負担しなければならないそうだ。しかも毎月電気代が1ドルはかかるので、とても自分の家では引けないという話をしていたらしい。
 現金収入が乏しく、町で働いてもせいぜい月に1500ルピーほどにしかならない村人に4000ルピーの負担はあまりに重い。
 12時前、やっと尾根に出た。尾根に沿ってダンプスの村は発達していた。見た目普通の民家だが、どの家にも「レストハウス」とか「ロッジ」の看板が掛かっている。晴れていれば右手180度、アンナプルナの山群が並ぶというが、残念ながら厚い雲に覆われ、谷の向こうのこちらと同じような尾根筋までしか望めない。
 尾根筋に出て10分ほど歩くとアンナプルナ国立公園入域料徴収所に着く。たった1泊のトレッキングでも1000ルピー取られる。
 徴収所からわずか100メートルほど緩やかな坂を登ったところが目的地のロッジ「月の家」であった。
 4人のスタッフがいると聞いていたが、到着時には女性が一人出迎えてくれた。 展望のよい前庭の囲いの石垣上にクッションを用意してくれる。紅茶をいただきながら、石垣の上に横になったり、汗でぐっしょり濡れたシャツを広げたりで1時間あまり休む。
 1時30分〜2時30、村を散策。棚田はヒエ。畑にはトウモロコシとサトイモが多い。どの家でも水牛を飼っている。簡易水道の蛇口に村の女性が集まりにぎやかに洗濯をしている。「ロッジ」の看板のでている民家にも、「レストラン」と書かれた小さな店にもトレッキング客の姿はない。6月から9月までは村人だけの静かな季節。雨がぱらぱらと降り出し慌てて「月の家」に戻る。
 遅い昼食。ヌードル(インスタントラーメン)を準備してくれる。折角だが卵が混ざっておりほとんど食べれず(私は卵のアレルギー)。
 食後、女性スタッフの義兄(「月の家」の元地主、テヴィさんと私の間ではダンプスのおじさんと呼ぶ)と話が弾む。ネパールの経済状態、環境問題、民族問題、教育問題、その他いろいろ。特に村人の生活については深刻な問題として。
 「村には働く場所がない。」「ポカラやカトマンドゥに出る者が多いが、町に出ても生活は苦しい。」「商品経済の浸透により現金収入が不可欠になってきた。」などなど。
 彼は急に私たちに自分の土地を見てくれと言いだした。「月の家」に隣接する土地の多くは彼の土地だという。「月の家」のすぐ隣に2階建てのロッジが新築されているが、その土地も彼の土地だったらしい。棚田や畑、シーズンにはキャンプ地として貸している草地(水牛が1頭放されていた)など1.5ヘクタールほどの彼の所有地を案内される。
 最近、日本のある観光会社が「是非この土地を譲ってほしい。」と言っているとか。確かに展望もよく、最近ついた電線が縁を通り、すぐ背後には簡易水道のタンクもある。条件はよい。
 しかし、彼はあまり譲りたくないらしい。彼の言い分は、「日本人に譲るのはよいが、結局間に入った町の人間に儲けを持って行かれて、自分にも、村にも何も残らない。」と。そして、「あなたの考え、即ち、村の人々に現金収入の場を与え、恵まれた自然を生かした地域開発することに賛同するので、この土地に一緒にロッジを建てて、テヴィさんと3人で経営しないか。」と言い出した。テヴィさんも大いに乗り気だ。
 物価の違いも大きく、日本人が個人的な利益を求めて投資する環境ではないが、ネパールの利益、村人のためにはいくらかなりと貢献できる話である。定年後の生活に目標もなく、夢を失いかけていた私には、思いがけぬ夢を与えてくれる提案であった。もちろん即答できるわけでもなく、「帰国して家族とも相談しないといけないし、具体的な計画も十分検討して、可能ならやりましょう。」と返事をした。
 
※帰国後、テヴィさんとの手紙のやりとりで、お互いにこの計画を実現するべく努力することを確認している。ホームページをご覧の方で、もし、この計画に興味を持たれた方がおられましたら、ご一報ください。
 
 雨が大降りになり、キャンプ場に使っている草地の側の草葺きの小屋で2時間近く話をしていた。おじさんの甥(?)も話に加わる。小屋の中にはヒエ酒(ロキシー)を造る竈があった。
 ふと、自分の足を見ると、血だらけになっているではないか。素足にサンダル履きで草地を歩いたため、ヒルが何匹も食いついている。むりやり落とすとなかなか出血が止まらないそうで、岩塩をかけて落とす。
 雨のせいもあり、5時頃になると急に薄暗くなってきた。ロッジに戻り、日本からさげてきたウイスキーと用意してくれた地酒のロキシーで乾杯。ポカラから戻ってきた若い男性スタッフと下働きをしている17、8の若い女性スタッフも加わり歓談。飲み口のよいロキシーに杯を重ね、気がつくと8時。7時に入るからと準備してくれていた五右衛門風呂に急いで入る。真っ暗。食堂には電気がついていた(村の家々で一斉に電気を使うため電圧が下がり、豆球のようなほのかな明かりしかつかない)が、風呂場にはない。ローソクを1本つけてくれる。ローソクの薄明かりの中、五右衛門風呂に入ると、聞こえてくるのは虫の声のみ。急に懐かしさがこみ上げてくる。子供の頃、星空を見ながら入った田舎の風呂。風呂から満月をながめて歌った童謡。
 風呂上がり、遅い夕食。ダル以外に何が準備されていたか記憶が曖昧。
 食堂から部屋に戻りそのままダウン。
 
第5日 8月26日(水)
 夜中に土砂降りの雨音。4時頃、天井裏を駆け回るネズミの音で目が覚める。
 5時過ぎ起床。部屋の前のテラスに出る。雨は止んでいた。霧の中、雪の残るアンナプルナの裾の部分がわずかに見える。テラスの籐椅子に腰掛けぼんやり雨上がりのダンプスの谷間を眺めていると、コーヒーを用意し、運んでくれる。
 朝食は揚げパン(ナンを揚げた物)に紅茶。
 7時には下山の予定であったが手間取り、8時過ぎ「月の家」を後にする。
 赤い服に供物の皿を持った女性の集団に出会う。8月25日はクリシュナの誕生日にあたりそのための行事があるらしい。
 村はずれまで来ると、突然テヴィさんが大きな声を出した。「アンナプルナが見える。」。今まで厚い雲に覆われていたアンナプルナの山群が雲の切れ目に現れているではないか。夢中でビデオカメラを回し、カメラのシャッターを切る。奇跡に近いことだ。この時期にこれほどはっきりアンナプルナが現れるのは。出発に手間取り、1時間ばかり遅れたのが幸運をもたらした。
 下山は早い。ダンプスの尾根から1時間10分。9時40分、フェディに着く。途中で、ガイドと登ってくる1人の日本人、5人の家族連れのフランス人とすれ違う。
 フェディではドライバーが待っていた。2時間近くも。
 茶店でコーラを1本飲み、9時50分、チトワンに向け出発。一度ポカラまで戻り、カトマンドゥに向かう幹線道路を走る。ダマウリ〜ドゥムレ間は未舗装。パキスタンの援助で舗装工事が行われている。主要道路は中国、インド、パキスタンの援助で整備されているとか。
 ドゥムレ、11時50分通過。ムグリンで右折し、トリスリ川の沿いに走る。険しい谷間の道を抜けると急に開けた平原地帯に入る。そこがチトワン国立公園のあるタライ平原であった。かつては、平原全体が亜熱帯の植物の生い茂るジャングルに覆われていたと言うが、今はほとんど開拓され水田が広がり、大きな町や集落もできている。
 その中でチトワンの森だけは、古くから王室の狩猟保護区として開発を免れ、1973年にはネパール最初の国立公園に指定された。1984年にはユネスコの世界遺産にも登録されている。
 13時10分、国立公園の入り口ソウラハに着く。
 とりあえず腹ごしらえ。昼食はヌードルとビール。食堂の側に大きな大麻が数本。指摘すると、食堂の若者、「私は医者だ。」と笑っている。
 ラプティ川に架かる細い木橋を渡り、ジープに乗り換える。タル族の村を抜け、水田の中を走ること15分あまり、水田の中の道で、溝に後輪を突っ込み動かなくなる。四輪駆動のジープのはずだが、どうも壊れて二輪駆動の状態になっているらしい。しばらく様子を見ていたが、脱出不可能。歩いて数分の民家がゾウ使いの家だった。ジープはゾウに押し上げてもらうとのこと。われわれはそこからエレファント・サファリに出発。14時30分から16時40分までの2時間あまりゾウの背に乗りタル族の村、そしてチトワンの森の中を散策。エレファント・サファリを堪能した。2メートル以上もあるゾウの背中から見る風景は二階から見下ろしているのと同じ、タル族の家の中までよく見える。森の中ではコウノトリ、クジャク、単独の雄のインドサイと沼の中で水浴びをしている子供連れの雌のインドサイを見ることができた。残念ながらベンガルトラには出会わなかった。トラは滅多に見られないらしくゾウ使いの若者の話によると、2週間ほど前に出会ったそうだ。
 森を抜け、川辺に出ると、豚か水牛の餌にするのであろう水草を取っている人や網で魚をすくっている人などを見かけた。森の向こうに、ヒマラヤの峰が輝いている。反対側の空は真っ黒な入道雲。時々稲光も。
 ジャングル・キャンプに向かうのか、2頭のゾウに分乗したフランス人の一行とすれ違う。
 ゾウから降りるときトレッキングで筋肉疲労を起こした足が身体を支えきれず転がり落ちてしまう。
 後ろから夕立が追いかけてくる中、ジープに乗り換えソウラハへ。
 5時丁度、ポカラに向かって車を出す。
 タディー・バザールでバナナとナシ、それに昨日「月の家」塩もみの作り方を教えると約束したナスと大根、ショウガを買う。
 薄暗くなったムグリンでミネラルウォーターを1本買い求め、後はポカラまで突っ走る。ホテル「ベースキャンプリゾート」着、20時30分。
 預けておいた荷物を受け取り、101号室に。一昨日よりいい部屋だ。風呂の湯もふんだんに出る。2度目の客にはいい部屋を提供するとか。
 夕食はホテルのレストランで。
 ペッパー・ステーキにビールを注文する。ステーキは日本の1/4ほどの値段だがネパールの一般の人にとってはとても口にできない高級品。
 食後、部屋に戻り、大根とナスの塩もみの作り方を伝授する。
 さすがに疲れがひどく、風呂に入ってすぐベッドに倒れ込む。
 
第6日 8月27日(木)
 またまた雨。5時半起床。
 6時半、トースト、紅茶の軽い朝食。
 ホテルの社長の車、いすずのビッグホーンで空港近くのグリーン・ライン・ツアーのバス乗り場へ。
 ポカラ〜カトマンドゥ、10ドル。
 7時出発予定のバスは7分ほど遅れて発車。10人あまりの乗客のほとんどが外国人。
 ムグリンまでは昨日の道。1時間ほど走って最初のトイレ休憩。ミネラルウオーターを1本仕入れる。
 それから2時間ほど走り、ムグリンの少し先[Kurintar]で、ティタイム。コーヒーとトーストのサービスあり[River Side Springs Resort]。グリーン・ライン・ツアーとの協定レストランらしく、同じ時刻にカトマンドゥを出発し、ポカラに向かうバスも入ってきた。名前は思い出せなかったが、テレビでよく見るお笑いタレント(多分)が一人でポカラに向かっていた。
 トリスリ川の河岸に建つ、このレストランは、ホテルも兼ねており、プールではいかにも金持ち風の家族が日光浴を楽しんでいた。45分ほど休憩し、11時05分発。トリスリ川は氷河の融水で茶色の濁流になっていた。吊り橋もところどころにあるが、対岸との往来は、一本のロープにぶら下がった一人乗りのゴンドラを使っているところが多い。
 カトマンドゥに近づくにつれ、河原や川の中に入って、砂や砂利を採集している光景を見るようになった。竹の籠を背負って、何人もの男女が川の中に入っている。一方、道ばたでは、丸い礫を叩き割って砕石をつくっている。低賃金故の仕事。
 カトマンドゥの手前、20キロのあたりからバスは断崖のような急斜面を登る。グリーン・ライン・ツアーのバスはエアコンカーであることが売り物になっており、その分、割り高な料金になっているが、肝心のエアコンが故障し、車内は蒸し風呂状態。のろのろ黒煙を吐いて走るトラックを次々追い越して走るが、至る所崩壊の跡の残る急坂では、冷や汗もの。
 バスは予定より1時間近く遅れ、2時前に、王宮に近い、バス会社のターミナルに着く。
 「風の旅行社」に立ち寄り、レモンティをごちそうになる。
 ホテルまでは歩いて15分ほど、4日ぶりにマナン・ホテルに戻る。
 5階の406号室、ここでも2回目だから少しランクの上の部屋にしてくれたそうだ。 1時間ほど休み、16時半にホテルを出て、カトマンドゥの西郊の丘の上にあるスワヤンブナートへ。ネパールのガイドブックやパンフレットには必ず載っている、四方に目を描いた塔のある寺院がスワヤンブナート寺院である。文殊菩薩が大日如来のために建立したという伝説の残るネパール最古の寺院。スワヤンブーとは「万物の創造者」の意とか。
 歩いて3、40分と聞いていたが、実際にはホテルから1時間かかった。
 チェトラパティの交差点から西に向かって歩いたのだが、途中の三叉路で道を間違えてしまい、ヴィシュヌマティ川の左岸に出た。上流の橋までの悪臭は酷いものだった。あまりの酷さに何度も吐き気をもようした。この川もまた、ヒンドゥ教徒にとって聖なる川、ガンジス川の支流の一つ。不浄のものも浄化するのが聖なる川かも知れないが、下流域の生活を考えると背筋が寒くなる。ゴミの処理、カトマンドゥへの人口集中が著しい中、緊急の課題だ。
 トレッキングの後遺症で痛む足を引きずりながらやっと寺院の入り口に、さらに階段の続く参道を一歩一歩登る。50ルピーの拝観料を払い境内に。
 「四方を見渡す仏陀の智慧の目」を戴くストウパを中心に、ラマ教のゴンパやヒンドゥ教の寺院などが建ち並ぶ境内には、猿と犬が群れている。18時前というのに参拝者や観光客が意外に多い。
 丘の上に位置しているだけに眺望には恵まれ、カトマンドゥ盆地を一望できる。 帰りは、タクシーを使う。70ルピーの言い値を30ルピーにさせ、チェトラパティまで。交差点近くのISDの看板のある店で家に電話をかけ、一度ホテルに戻る。フロントで両替、1万円が4580ルピー。
 夕食はカトマンドゥ・ゲストハウスのレストランに出かける。屋外のテーブルは満席。ステーキ165ルピー、サラダ50ルピー、ビールは割高で110ルピー。ホテルへの帰途、スーパーマーケット、本屋に寄る。タメル地区は観光客目当ての店が多く、商品は全般的に高い。
 
第7日 8月28日(金)
 夜中には雨が降っていた。
 5時半、テヴィさんから電話。約束通り、車で迎えに。
 ヒマラヤの展望台として知られているナガルコットに向かう。カトマンドゥの北東35キロほどの距離。バクタブルまでトロリーバスの走る道を。早朝のため交通量は少ない。
 町をはずれると田園ののどかな風景。朝もやの中の棚田は写真の被写体として絶好。見晴らしのよい山道で何度か車を止めシャッターを切る。
 ナガルコットは海抜2166メートル。2000メートル付近から上には松林が続く。しだいに霧が濃くなり、山頂部の視界はせいぜい50メートル四方。もちろんはじめからヒマラヤが見えることを期待してはいなかったが。ウインドブレーカーを羽織ってきたがそれでも寒い。
 山頂のレストランで紅茶とトーストの朝食。天気が良ければエベレストからアンナプルナまでヒマラヤの峰峰が一望できるという景勝の地。シーズンにはたくさんの観光客で賑わうそうだが。1時間近くのんびりとお茶を飲みながらテヴイさんと談笑。
 車に戻ると、物売りの少年が2人。つきまとって離れない。ナガルコットから写したパノラマ写真を一枚買うことにする。
 8時半、下山の途に。軍の車、数台とすれ違う。駐屯地があるらしい。
 途中霧と晴れ間の境界にある民家を写す。窓が小さく開き戸になっている。ガラス窓はほとんどない。「ガラスは高価だから」というが旅人にはネパールらしさを感じさせる造り。
 朝の光に照らされコントラストのはっきりした棚田の風景に見とれながらバクタブルに。
 バクタブルは15世紀から18世紀にかけて、マッラ王朝三王国の首都の一つとして栄えた古都。煉瓦造りの町並みと旧王宮やヒンドゥ教の寺院が多数残り、「リトル・ブッダ」の一場面はここで撮影された。
 外国人がこの町に入るには文化財保護基金として300ルピー払うことになっている。ネパールを旅行していると至る所にチェックポストがあり通行料や入域料など取られる。ネパール人と外国人では料金に差があるが、ガイドの「有効に利用される金ならいいが」という言葉がひっかかる。
 朝早くまだ観光客もいない。土産物の露店も開店準備中。それでも、めざとく物売りの女性がゾウの彫刻(実際はよく見ると焼き物であった)を売りに来る。1000円から始まるのは世界共通か。しかし、すぐに半値になる。最後は1ドル。
 バクタブルのダルバール広場(ダルバールとは宮廷の意)は、カトマンドゥのダルバール広場に比べごみごみしたところがない。ゴミ一つ落ちていなく清潔な感じ。入り口近くのラメシュワール寺院、旧王宮の向かいのバシュバティー寺院、旧王宮の東のバグバティ寺院などの寺院があるが、1934年の大地震の前にはもっと多くの寺院があったという。丁度、通学時間と重なっていたため広場を横切って学校に向かう女学生が三々五々通り過ぎていく。
 広場から東に少し入ったところの一軒の曼陀羅の店に入り、手描きの曼陀羅を一枚買い求める。曼陀羅はポカラで買うつもりだったが、チトワンからの帰りが遅くなり買いそびれていた。人の良さそうな主人と4、5歳の息子の愛らしさについ財布の紐がゆるむ。
 テヴィさんは、ダンプスの「月の家」の食堂で、そこにあったのと同じ真鍮製の水差しを土産に買って帰りたいと言ったのを覚えており、曼陀羅屋に近い古い銅製品を扱う店に案内し探してくれる。少し傷が付いていたが同じような水差しが一つあり今回の旅行の記念に買う。
 テヴィさんの出勤時間が近づいたため取りあえず一度ホテルに戻ることにする。 テヴィさんの話によると、日本企業は勤務時間が厳重で、時間にルーズなネパール人には苦痛らしい。
 部屋でノートの整理をし、12時過ぎに、再びタクシーでカトマンドゥの北東に隣接したボダナートに出かける。ボダナートにはネパール最大のストゥーパ(仏塔)があり、古来よりラマ教の聖地になっている。
 チベット動乱以降、亡命チベット人が多く住むようになったとも言われ、ストゥーパの周辺には数多くのゴンパ(僧院)やチベット人の経営する土産物屋などがある。ストゥーパの台座に設けられたマニ車を回しながら歩くラマ僧やチベット人と同じように右回りに一周する。四層になっている台座の最上段に上がると、今朝登ったナンガルコットがよく見える。
 ストゥーパの周囲には仏具店とともにチベットの土産物を売る店が軒を連ねている。その中の一軒で、古い竹製のビール(多分濁酒のようなもの)入れの筒を見つける。バター茶をつくる道具が欲しかったが、あまりに大きく、重いのでやめて、この筒を買った。
 ボダナートからカトマンドゥ市内に戻り、ラーニ・ポカリ寺院前のレストランで昼食。ネパール料理を注文し、ビールで喉を潤す。
 食後、インドラチョークを散策し、テヴィさんと別れる。
 一人、ダルバール広場に向かい、広場に露店を出している若者、ケダール・シャヒ君との約束を果たす。23日に「まだ、これからポカラに行くので土産物は何も買わない。ポカラから戻ってきたらまた来る」と言うと、「また寄ると言って、寄ってくれた人はいない」と疑っていた。それでも「約束は守る」と言って別れていた。 彼は喜び、お茶をごちそうしてくれ、ネパールの観光事情や自分の生活など1時間余りも語り合った。露店は兄のもので、自分はそれをもう10年も手伝っているとか、学校を出てもなかなかいい仕事がないなど自然と厳しい話になってしまう。
写した写真を送ることを約束し別れる(帰国後、写真を送ると直ぐに返事が来た。何度も旅行し、その度に知り合いになった人に写真など送ってきたが、礼状を貰うことはほとんどない。いつもこちらから送るだけで終わる。彼とは現在も手紙のやりとりをしている。)。
 1時間ほどかけてゆっくりと歩いてホテルに戻り、一休みし、昨晩と同じ、カトマンドゥ・ゲストハウスのレストランに。庭のテーブル席が空いており、夜風にあたりながら、のんびりとグラスを傾ける。
 
第8日 8月29日(土
 6時10分、起床。荷物の整理。
 7時、テヴィさんから電話。昨日の車でパタンに。日本の援助によるという信号のある交差点を抜ける。カトマンドゥ唯一の信号とか。ヴィシュヌマティ川に架かる橋も日本の援助によるもの。「この道は中国」、「この建物はインド」と説明するテヴィさんの顔には半分あきらめに近い苦笑が浮かんでいた。せっかくの建造物も、アフターケアーがなくなると廃墟と化し、道は穴だらけになって通行も困難になると言う。政府の腐敗を指摘するビラを配り、官庁の前で大声をあげている集団を見かけたが、国民の不満は大きいようだ。
 9時過ぎまで、パタンのダンバール広場を中心に煉瓦造りの旧市街地を歩く。寺院の沐浴場で顔を洗っている人、自転車に野菜を積んで路上で商いをしている人、水牛を解体している肉屋の店先、銀や真鍮製の仏像やペンダントを造る鋳物屋のふいご等々興味深いものばかり。
 1本50ルピーのネパールで今流行のカセットを買いホテルに戻る。
 ホテルのレストランで紅茶にトーストの朝食。
 10時25分から11時まで、ホテル近くのタメル地区をぶらつく。
 11時15分、ワゴン車で迎えに来たテヴィさんとともに空港に。空港内に入れないテヴィさんと入り口で再会を約し別れる。彼はポケットから白いカタを取り出し肩に掛けてくれる。ラマ教徒が親愛と幸福、そして再会を願って贈るカタである。
 少し早く着きすぎたか、待合室で2時間余り。ジュースを飲みながらノートの整理。頭痛。風邪気味か。
 13時40分、タイ航空TG320便は定刻に離陸。雨季のヒマラヤ周辺は厚い雲に覆われ地上はほとんど見られなかったが、バングラデシュ付近では冠水したガンジス流域の様子を見ることができた。3時間余りの飛行の後、タイ時間18時10分バンコク・ドンムアン国際空港に着く。着陸の直前、12月にアジア大会の開催される競技場の上を通った。
 0時50分発のTG648便、福岡行きを待つこと6時間40分。空港内の待合室をぶらぶらしながら過ごす。福岡には30日8時に着いた。
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