ネパールの旅
2003年8月22日(金)〜30日(土)
[日 程]
8月22日(土)
7:24岡山発 ひかり144号自由席 新大阪着8:31
8:44新大阪発 はるか11号 関西空港着9:44(6分遅れ)
11:45関西空港発 TG623便 B777-300 38-D バンコク着15:00(35分早着)
宿泊…Comfort Suites Airport Bangkok 609号室
8月23日(土)
10:45(15分遅れ、離陸は11:05)TG319便 A300-200 47-J カトマンズ着 12:30
タメル、ダルバール広場
宿泊…Hotel Moon Light 307号室
8月24日(日)
8:00 ホテル発 車 ジリに向かう。途中、落石による通行止め。ドゥリケルで昼食をとり、引き返す。 13:05 ホテル着
14:00〜17:00 パタン
宿泊…Hotel Moon Light 409号室
8月25日(月)
午前中 カトマンズ
13:00カトマンズ発 SK821便(SKYLIN AIRWAYS)15人乗り小型機 バイラワ着13:40 空港から車で、ルンビニへ。17:00過ぎまで、ルンビニ散策
ミニバス、バスを乗り継ぎ、バイラワへ。リキシャでホテル探し。
宿泊…Hotel YETY 108号室
8月26日(火)
8:30バイラワ発 車 ポカラ着14:45
ペワ湖のレイクサイドから雲の切れ目にアンナプルナ、マチャプチャレ、マナスル、ヒマルチュリの峰峰がのぞく。ラッキーな夕刻。
宿泊…HOTEL THE KANTIPUR 216号室
8月27日(水)
9:30ホテル発 車 ノーダラ、カーレ、ルムレ 車 ポカラ空港14:20
15:30ポカラ発 SK802便 カトマンズ着16:00
宿泊…Hotel Moon Light 409号室
8月28日(木)
一日カトマンズ(スワヤンブナート、テジさん宅訪問等)
宿泊…Hotel Moon Light 409号室
8月29日(金)
14:15カトマンズ離陸(約30分遅れ)TG320便 A300-200 14-E バンコク着18:10
24:25バンコク離陸(約25分遅れ)TG622便 B777-300 64A 関西空港着7:30
8月30日(土)
8:44関西空港発 はるか8号 新大阪着9:38
9:58新大阪発 ひかりレールスター367号 岡山着10:45
10数年来、夏の恒例行事となってしまった海外旅行。昨年は、フェンシングの試合や研修のため3度も海外に出かけ、私的な旅をする余裕がなく、1年ブランクとなり、2年振りの旅となった今夏。当初、家内の反対もあり、迷っていたが、8月中旬になって、実行をかため、格安キップの有無をネットで検索。18日(月)、いつも無理をお願いする東京のW社のAさんに頼み、カトマンズ往復のチケットとバンコク乗り継ぎのためのホテルの予約を取り付け、22日の出発に漕ぎつけることに。
22日朝の新幹線指定席は盆明けにもかかわらず満席、関空特急「はるか」に合わせ、「ひかり」の自由席に。自由席も新大阪に着く前に満席になり、立ち席の者も。関空で2万、ドルに両替。少しはキャッシュを持っていないと不便。搭乗まで1時間余り、いつものことながら、暇つぶしに免税店をぶらぶらと。土産用にカステラと小さなこけしを1個買い求める。
確かカウンターでは窓側と言っていたはずが、搭乗し確認すると通路側。機内は空席が目立ち、3人がけの真ん中も空席だった。離陸して間もなく、飲物のサービス。シンガービールに、1年振りのなつかしさ。アルコールのおかげで、昨夜の寝不足解消。
バンコク到着、午後3時。バック1つの気軽さから、市内に直行。サービスカウンターで650バーツ払い、サイエムスクエアーに。
東急5Fの「のれん街」(?)に上がり、シーフードヌードルと果物(マンゴスチン、ランブータン)で腹ごしらえ。Tシャツやら果物やら仕入れ、8時過ぎ、タクシーでホテルに。タクシー代210バーツ。空港のカウンターはボッタクリ。
ちなみに買ったものの値段は次のとおり。
Tシャツ1枚99バーツ、マンゴスチン1kg45バーツ、ロンガン1kg29バーツ。
コンフォート・スイート・ホテルに泊まるのも3度目。空港に近く、便利がいいのだが、隣室あたりから断続的に聞こえるコンプレッサーの稼働するような音に、一晩悩まされる。
23日は5時起床、6時頃、やっと薄明るくなる。曇天。
7時に1Fレストランに。お客は私一人。バスケットの試合でもあるのか、ホテル前に集まる若者と話しに夢中のウェーターたち。バイキングの果物とコーヒーで腹を満たし、8時発のシャトルバスに乗り込む。国内線に乗る中国人と2人。
500バーツの空港税を払い搭乗手続き。搭乗券には9時50分21番ゲートと記されていたが、4番ゲートに変更。2時間以上の待ち時間。1時間余りは、ベンチで黙想。30分余りは、カフェバーでエスプレッソのダブル。
10時30分発のTG319便は予定より30分遅れ、11時5分、離陸。飛行時間2時間半余り、定刻の現地時間12時30分にカトマンドゥ着。雨季のこの時期、眼下に広がるのは厚い雲ばかり。ワゴンサービスのカボチャの種をつまみにワインを飲んでいる内にネパール。
勝手知ったる入国の技。あらかじめビザ申請書は記入済み。現金30ドルを握りしめ、急ぎ足で、「Without VSA」のイミグレーションに。すでに10人ばかりの行列ができていたが、記入に手間取っている人は後回しになり、2番目にVSAを手に入れる。すぐ後戻りし、銀行窓口で両替。T/C300$が21750ルピー。
機内持ち込み手荷物のX線検査を受け、預け荷物を受け取り出口に向かう。厳重警備の空港出口、10メートルほどの無人地帯の向こうに、出迎えの者や客引きのドライバーが押し合いながら待ちかまえている。あちこちから声のかかる中、荷物を引っ張って、ゆっくりとその人混みに向かって歩く。すると人混みをかき分け、小柄な男が飛び出してきた。3年振りのTさんだ。抱き合って再会を喜ぶ。
早速、彼が準備した車で、カトマンドゥの宿、タメルのホテル=ムーンライトに。
白雲がかかってはいるが、澄み切った青空も。ここしばらくは晴れの日が続いているとか。市街地にはいると相変わらずの悪路と雑踏。仕事がなく、ただぶらぶらとしている若者が多く、深刻な問題。
チェックイン。307号室。部屋に荷物を置くや、しばらく振りのTさんと会話が弾む。特に、2001年春から2002年秋まで日本にいたTさんの話しに引きつけられる。2001年春、彼はネパールのエージェント(?)の紹介で、来日。もちろん観光ビザで。しかし、目的は出稼ぎ。浜松の自動車の部品工場で6ヶ月余り働いたそうだ。昼夜2交代制で、12時間労働。最初、日本人が仕事の手順を教えてくれ、あとは外国人労働者のみで作業したそうだ。空調設備のない工場内はサウナのように暑く、劣悪な環境であったことが想像できた。しかし、不法就労の外国人の働く工場に、警察の手が伸びることは一度もなかったという。時々、社長(?)から、「今日は、外に出ないほうがよい。」とか「窓を閉めておくように。」と言われていたそうだ。警察の巡回か、手入れの情報が流れていたのかも知れない。裏の日本を、ネパール人から聞かされた思い。
2001年の10月末、Tさんから私の携帯に電話があり、「ビザが切れるので、帰国しようか、このまま日本で働こうか、迷っている。今の仕事もきついので。」と、相談があった。私は、帰国を勧めたが、その時は「考えてみます。」と言って切れてしまった。
彼は、その後、名古屋に出て、ゴミ回収車に乗ったり、建物の解体業者で働いたりしたらしい。集めたゴミを高速を使って捨てに行ったそうだから、多分、公共のゴミ回収とは違い、産廃処理か、もしかしたら不法投棄の片棒を担いでいたのかも知れない。
4畳半ほどの部屋に4人同居しての自炊生活、毎日、キャンプをしているようだったとか。
2002年の正月に一度電話があり、「これから、友達と長野に行きます。」と言っていたが、後は連絡が途絶え、12月にメールとFAXで、帰国したことを知らせてきた。
仕事がきつい上に、体調を崩し、帰国を決意したとのこと。奥さんはかなり反対したとか。ネパールでは考えられない高収入に、出稼ぎに出ている留守家族の生活が派手になり、帰れなくなっている者も多いそうだ。
自ら入管に出頭し、帰国したそうだが、入国時と違い、厳しいチェックもなく出国できたとか。
1時間あまり、部屋で話していたが、再会を祝し、乾杯しようと、いつもの場所、タメルのカトマンドゥ・ゲストハウスに。シーズンオフとはいえ、人通りの少ないタメル。閉めている店も見られ、治安の悪化から観光客離れが進んでいるネパールの現状を垣間見る思い。
ビール大好きのTさん、日本での無理がたたって、胃腸を壊し、禁酒しているそうで、「今日は、乾杯だけ。」と今ひとつ元気がない。サンミゲルを1本空けただけで、早々にホテルに戻り、Tさんも帰宅。
5時頃、ホテルの近くで家に電話をかけるが、なかなか繋がらず。
その足で、ダルバール広場まで歩き、バサンタプルの露店で、K君の行方を尋ねる。彼の知り合いという男の話では、家で商売をしているそうだ。後日、案内してもらう約束をする。言い値の1/4の価格で、仏具を2点購入。気に入ったものを自分の価値判断で、購入できると満足感が味わえる。
ニューロード、インドラ・チョーク、アサン・チョークを抜け、タメルに出る。スーパーにより、ミネラルウオーターとビールを買い、7時過ぎ、部屋に戻る。
夕食はホテルの2階にあるレストランで済ます。客は1人。モモとチョウメンを注文。一皿が、2〜3人前。味はいいが、量が多く、残す。
シャワーの湯出ず。洗面台の蛇口、取り付けが悪く、水を出すと、そこら中水浸しに。 9時、ベッドで横になりながらCNNのニュースを見る。
明日から政府とマオバディとの交渉が始まるそうで、その成り行きか注目されている。取りあえず、その間、停戦が行われており、市民は一様に歓迎している。しかし、結果には期待が持てないようだ。
24日(日)、5時起床。水の流れる音、雨? 晴れていた。ホテルと隣家の間の狭い空間に、ヒンドゥの神を祀る小さな祠があり、早朝から鐘の音が聞こえてくる。5時半、やっと、東の空が白んでくる。
騒音、雑踏の中、ただひたすらに礼拝を繰り返す人々の姿に、信仰の深さ、生活と一体化した信仰を知る。
鐘の音は絶えることなく続く。
7時、2階のレストランでフレンチトーストとマサラティーで朝食。
8時、約束通り、Tさん来る。
4年前と同じ道をコダリ(チベット国境の町)に向かう。今日はチャリコット泊まりの予定。天気も良く、順調なすべり出し。
国王がイギリスに外遊されるそうで、兵士と警官が町中に溢れている。マオバディとの対立、それともチベットからの密入国取り締まりのためか、検問所が多い。外貨を落としてくれる外国人にはチェックも甘いそうで、マオバディも同じとか。
バネパで給油。ガソリンは高く、1リットル60Rs。日本とあまり変わらない。
ドラルガート(Dolalghat)のチェックポスト通過して間もなく、茶店で休憩している日本人のグループと出会う。「この先で土砂崩れがおこり、通行止めになっている。」との情報。4年前とまったく同じ状況に。昨日も、今日も、雨は降っていないはず。何故?
取りあえず行けるところまで行ってみようと車を進める。
何と、4年前に引き返したその場所に、延々と立ち往生したバス、トラックが。先頭はわからないが、どうやら大岩が道路上に落下したらしい。車でのコダリ行きは諦めざるをえない。行程の半分以上、国境まで50キロ余りまで来て、また今回も引き返すことに。 朝から腹具合が悪い。Tさんも、同じらしい。ドゥリケル(Dhulikhel)のホテルに飛び込みトイレを借りる。手動式水洗のネパール式トイレ。トイレットペーパーはOKだろうか。使いながら心配に。Tさんに聞くと「問題ない。」とのこと。この話、ホテルの従業員にも伝わり、大笑い。
ガーデンテラスのテーブルで、1時間余り休憩。ヌードルとチャイで昼食も済ます。コダリ行きがご破算になり、午後と明日以降の予定が狂ってしまう。
前々から一度は行っておきたいと思っていた釈迦生誕地ルンビニやインドとの国境の町ネパールガンジーに出かけてみるのも方策とTさんに持ちかける。
それはいいと、早速、Tさんは航空券の手配に。ネパールガンジー便は満席だけど、ルンビニ便はOKとのこと。決めた。明日から2泊3日のルンビニ旅行。
13時過ぎ、ホテル・ムーンライトに。オーナーもびっくり。
409号室へ。Tさんは、航空券の受け取りに。往復2名分、254ドル。物価の安いネパールでは信じられないほど高額。
Tさんが帰ってきて、数年ぶり、パタンに。
ダルバール広場の北東端、沐浴場(マンガ・ヒティ)の横に車を止め、旧王宮の一部を改装した博物館へ。ネパール人は10Rsだが、外国人は250Rs。観光立国ネパールでは、外国人から金をむしり取る制度だけは完備。
16世紀から17世紀頃のヒンドゥー教の神像や仏像中心。
博物館の向かいクリシュナ寺院の前に赤旗を持った群衆が集まり、ヴィシュワナート寺院の階段を雛壇に演説会が始まった。ネパール共産党の集会とのこと。西部のネパールガンジーでマオバディと政府の交渉が行われているそうだが、みんなは、そちらの結果が気になっている様子。
広場の回りのバザールを歩く。貴金属細工や仏像の工房が多い。小さな工房でタラ像を2体購入。別の工房で、仏像制作を拝見。
17時半、ホテルに戻る。
シャワーを浴びて、19時過ぎ、タメルまで夕食に。カトマンドゥ・ゲストハウスに近いガーデンカフェ、デリマで、チーズをつまみにビールを飲み、スパゲティで済ます。
帰りにミネラルウォーターを1本。
21時、就寝。夜中に激しい雨音。
25日(月)、曇天。5時半起床。
7時20分〜50分、朝食。コンチネンタルブレックファースト。トースト、コーヒー、パインジュース。
9時〜10時20分。カトマンドゥの散策。アンナプルナ寺院まで。
朝の雑踏の中。市街地の道は狭く、舗装はされていないか、崩れ、凸凹、どろどろ、泥濘、水たまり。それを避けながら歩く人、容赦なく泥水をはねながら走るバイク、リキシャ、自転車、荷車。さらには逃げ場のないくらい狭い道に突っ込んでくる車。
両側に並ぶ無数の店は、一間ほどの間口、一坪ほどのスペース。埃まみれの商品はみんな中古品のよう。
買い物客がいるのは決まって生鮮食料品を扱っている店のみ。どの店も、用のない店主が通行人をながめている。
至る所に点在する祠や寺院。登校する子供もその前に来ると立ち止まり、手を合わせ、鐘を鳴らして行く。
ダヒティ・チョーク近くのパコダを一周し、戻る。
約束の10時半が過ぎ、45分にTさん現れる。大きな荷物はホテルに預け、今にも分解しそうなタクシーで空港に。
相変わらずひどい空港。とても一国を代表する国際空港とは言えない。
軍の検問、警察の検問、何度もチェックされながらドミトリーの建物に。
11時25分に空港に着き、12時に搭乗手続き始まり、12時10分、やっと待合室に。壊れたベンチ、天井からぶら下がった大きな扇風機も、回り始めたと思えばすぐ止まる。二階にあったはずのレストランはつぶれており、待合室の売店の高いチャイで昼食代わり。
15人乗りのスカイライン航空(航空会社と言っても1機か2機の小型機を所有するのみらしい。最近、事故で虎の子の機体を失い、営業できなくなった航空会社あり)SK821便は13時丁度動き始める。軍のヘリが頻繁に離着陸。ネパールの政情を反映。
小型のプロペラ機は低空を飛ぶため、気流の影響は受けやすいが、地上の様子はよく分かる。カトマンドゥ盆地を抜けると雲が多く、雲の切れ目にトリスリ川の谷が見えていた。しかし、マハーバーラタ山脈を越えると雲は切れ、タライ平原が眼下に。広々とした水田。整然とした地割り、平地林が切り開かれている様子、水田化の歴史を反映。
13時40分、水田に囲まれたバイラワ(Bhairahawa)空港に着陸。
空港からルンビニまでは20qほどある。出口で客待ちをしている若者と交渉、400Rsで日本山妙法寺前まで。インドの農村を思わせる風景。水牛、牛、道辺の建物の全てにインド臭さを感じる。
14時過ぎ、目的地、ルンビニの北端にある日本山妙法寺の巨大パコダの前に。
世界平和を祈願し建設された白亜のルンビニ平和パコダ、高さ41.5m、基壇の直径59m。三層になったパコダの上層から、ルンビニの遺跡を眺望する。地平線まで平地林と湿原、草原の緑が続く。建物といえば、足下の妙法寺と日本資本のホテル、法華クラブ、平地林の中に見え隠れする博物館、図書館ぐらい。
妙法寺に参拝し、炎天下、仏陀生誕の地、マーヤー聖堂に向かって歩く。
博物館に立ち寄るが、模造品が多く、展示内容が乏しい。ガラーンとした館内を一巡し出る。まだ新しい赤煉瓦造りのモダンな建物だが、手入れの悪さ気になる。
ルンビニは14世紀、イスラムの拡大によって破壊され、19世紀末にドイツ人考古学者によって再発見されるまで廃墟となっていた。その後、発掘が続けられているが、仏陀生誕地として、世界の仏教徒を迎え入れ、ネパール観光の一大拠点とするための開発が始められたのは20世紀末。丹下健三のルンビニ園マスタープランにより、1985年から始まった。
ルンビニ園は、日本山妙法寺や博物館のある北部の新ルンビニ村、そして南北に掘られた運河を挟んで東西に整然と建設が進んでいる各国寺のある中央部の寺院地区、南部のマーヤー聖堂を中心とした聖園地区に分けられる。
取り付けの道は狭くて、まだ無整備のままにもかかわらず、ハラワ川に架かる、「どうなってるの」と思うぐらい立派な煉瓦造りの橋を渡り、運河沿いの直線の道に。
右手、茅のような禾本科植物の生い茂った湿地の草原の中に、各国の寺院が建てられている。北からドイツ寺、総教日本寺、フランス寺、ベトナム寺、中国寺、韓国寺、カルマ・カギュ寺、マナン寺、一方うんがを挟んだ左手、東側には、北からタイ寺、インド寺、ミャンマー寺、スリランカ寺、ネパール尼僧院が。すでに完成したものもあれば、建設中のものもある。マスタープラン通りに完成するのは当分先になりそう。
草の匂いのムンムンする炎天下、30分余り、やっと運河の南端に。
仏陀の教えを象徴するといわれる「平和の火」の聖火台が設けられた、運河の南端が、聖園地区の北端。牛の放牧地になった草地の彼方に白亜のマーヤー聖堂を望むことができる。白亜の建物は2003年3月、半年ばかり前に、古代の聖堂の中心を覆うように建てられたもの。
遺跡は金網のフェンスで囲まれており、入口はチベット寺やネパール寺のある東側に。金網越しに写真を撮っていると、1人の男がやってきて、入口手前の建物に行けという。遺跡の写真撮影料として1ドル徴収しているそうだ。ビデオは10ドルとのこと。
シーズンオフのルンビニ。観光客の姿は少なく、日本山妙法寺で、ポカラから車をチャーターしてやって来たという日本人の2人連れに出会っただけ。
建てられたばかりの白亜の建物に入る。中は薄暗く、発掘された礎石の周囲に回廊が造られ、遺跡の保存が図られている。釈迦誕生の地を示す「アショカ王の石版」が建物の中心。回廊もそこだけ花道がつけられている。しかし、ガラスのケースで覆われた石版は上からのぞいて見る限り何を彫っているのかも分からない。
聖堂の回りにも緑の芝生の中に赤い焼き煉瓦の礎石があちこちに残っている。
聖堂の南側には周囲が階段状に整備された池がある。マーヤーが釈迦を出産する前に沐浴し、釈迦の産湯に使ったと云われるプスカリニ池だ。ニゴイに似た魚がたくさんいた。池の南には菩提樹の巨木があり、タルチョがくくりつけられている。根本には祠があり、ヒンドゥの神が祀られている。実をつけた菩提樹はリスやインコの住みかにもなっている。
菩提樹の下で、しばらく黙想し、合掌する。無意識に仏教徒である自分を体現している。菩提樹の葉を数枚拾いノートに挟む。
池の側から、聖堂の屋上に上がる。聖園が一望できる。澄み切った空気。青い空。緑の芝生、木々に見とれる。
聖堂の西側に鉄柵で囲まれ、アショカ王の石柱が建っている。1896年、ドイツの考古学者フューラーが発掘したという石柱は、唐の玄奘が「大唐西域記」に記しているとおり、落雷によって折れた状態で見つかっており、柱頭部を飾っていた獅子の部分は摩耗してはいるが石柱の傍らに置かれている。石柱もまた仏教徒にとって信仰の対象。鉄柵には無数の経文を書いた布が巻き付けられている。
チベット寺とネパール寺に挟まれた道を東に。どうやらこれがメインルートらしい。ネパール寺のゲストハウスから出てきた男が声をかける。「空き部屋があるよ。泊まらないか。」と。しかし、まだ日が高い。「バイラワまで戻ろう。」と、断り、ナヤ・ルンビニ・バザールを目指し歩く。途中、駐車場側の土産物屋で沙羅双樹の数珠などを買い、17時、LUMBINI THE FOUNTAIN OF WORLD PEACEと書かれた東のゲートに。バザールの前でミニバス(破壊寸前のひどいジープ)に乗り込み、ルンビニの北西端パルサへ。パルサでバイラワ行きのこれまたひどいバスに乗り換え、18時過ぎ、バイラワに着く。
ルンビニに2泊しても特に見るところもなく、思いつきで、帰りの便をポカラ発に切り替え、明日は車でポカラに向かうことを提案。バス停でリキシャを拾い、スカイライン航空のオフィスに。変更可。これで決まり。
ホテルもオフィスのある建物、ホテル・エティ(Hotel Yety)に。1泊、1600Rsは少々高いが、別のホテルを探すのも面倒なのでここに決める。蒸し暑い通路を2階の108号室へ。シャワーを浴び、19時、家にTEL。スペインのワールドカップで、市川君、福田君がメダルをとったとのうれしい情報。
ホテルとロータリを挟んだ小さな食堂で、モモを肴にビールを飲み、ダルバートで夕食。ビールを飲んでいた先客と会話がはずむ。カトマンドゥの弁護士、カゲンドラさん。インド人相手の仕事で、国境に近いここバイラワに出張中とのこと。明日はカトマンドゥに帰るそうで、帰国前に再度会うことを約束し、21時半、別れる。
22時、就寝。
26日(火)、 6時起床。曇天。7時過ぎ、昨夜の食堂で朝食。レモンティにヌードル。ポカラまでの足探し。タクシー、3500Rsから下げず。8時15分、チェックアウトし、バス停に。再度タクシーの値引き交渉。ドライバー、オーナーに電話で問い合わせ、3000Rsまで下げる。決定。
8時半、タクシーをチャーターし、ポカラに向け出発。まずはガソリンスタンドで、燃料補給。2000Rsの前払い。1リットル52Rs。28リットルで満タン。
タライ平原を、クラクションを鳴らし続け猛スピードで突っ走る。9時過ぎには、平原の端、谷口集落ブトワルに。客待ちのリキシャの群と道ばたのバナナ売り目立つ。
いよいよ渓谷の葛折りに入る。山の斜面には所々崖崩れの跡が残る。雨季のいやな名残。谷に向かって幾筋も滝がある。滝の水を汲んでいる給水車もある。
10時頃、山道の茶店でバナナを買う。1房におまけを4本付けて30Rs。モンキーバナナに似た山のバナナ。低地のバナナに比べ旨いという。確かにスゥィート。
右手、川沿いに開けた盆地を見下ろしながら走る。ピパルダダ(Pipaldada)、ポカラに似ているので日本風に云えば「小ポカラ」と呼ばれているらしい。道沿いの民家の軒先に大根を干している。日本なら沢庵にするところだが、保存食として、スープの具などに使うとか。古都タンセンへの分岐を過ぎてしばらく走り、ランディ(Ramdi)の近くで20分ほど(11:10〜11:30)休憩。ビールで喉を潤す。ドライバーは食事。
茶店の手前、橋の下を流れる川はムスタンからの流れ。氷河の溶けた濁流。橋のたもとで荼毘の煙。
しばらく流れを右手に見ながら山の中腹を走る。ワリング(Waling)の手前で、2度目の軍のチェック。バスの乗客は全員降ろされ、手荷物まで調べられている。このあたりはマオバディが多いそうで、厳しい検問が行われている。ワリングの街を抜けたところでもまた検問が行われていた。
道沿いの川は、ムスタンからの流れと異なり、清流に変わる。
13:00〜13:15、Tさんダルバート、私はチャイ。
マハーバーラタ山脈の山塊を抜け、眼下にポカラの盆地が広がる。シーズンにはアンナプルナなどヒマラヤの山並みを眺望でき、ポカラからのトレッキングルートにもなっているという。
14時45分、バイラワから6時間余り、ポカラのレークサイトに着く。残金の1000Rsを支払うと、ドライバーはとんぼ返りで、バイラワに戻っていった。途中で客が拾えれば、小遣い稼ぎになるのだが。
Tさんはホテル探しに。
レークサイトのカンティプル(Hotel Kantipur)で交渉。1泊33ドルの部屋を朝食付き15ドルに値引き。
部屋に荷物を置き、近くの食堂で、喉を潤す。
湖岸をぶらぶらし、芝生の上に足を伸ばし、2時間余り。雲に覆われていたヒマラヤの一部が姿を現す。アンナプルナT(8091m)、アンナプルナ南峰(7219m)、アンナプルナV(7555m)、マチャプチャリのホーン(6993m)、はるか離れたマナスル(8163m)の白銀やヒマルチュリ(7893m)までも。幸運としか云いようのない出来事。夕陽に染まる雪山の姿を薄暗くなるまで眺めていた。
湖では、泳ぐ人もいれば、ボートを楽しむ人、釣りを楽しむ人様々。釣り人に聞くと、今朝3キロほどの大物が釣れたそうだ。
18時半、ホテルに戻り、シャワー。
19:30〜21:00、喉を潤した近くの食堂(Tさんの行きつけ)で、ベジタブルカリーで夕食。久しぶりのロクシーに酔う。
ホテルの庭で満天の星を眺めながら1時間余り話している内に酔いも醒める。
22時40分、入浴後就寝。夜中に雷。夜明けまで雨。
27日(水)、6時40分、起床。
7時過ぎ、「ダウラギリ(8167m)が見える。」と、Tさんノック。
屋上に上がる。雲の切れ目に切り立った白い壁面の一部がのぞいている。昨夜の激しい雨も上がり、青空も見え始めた。運が良ければ、今日もヒマラヤの山並みを拝むことができるかも知れない。
7:50〜8:50、ホテルのレストランで朝食(トースト、オレンジジュース、紅茶)。昨夜、食堂で地元のガイドとはしゃいでいた女性がツンとすまして、入ってきた。なんとなく危うい。「日本人女性をカモにしたネパール人が多いので。」と、Tさん、心配げ。
9時半、チェックアウト。ホテルの車をチャーター(900Rs)し、バグルン自動車道をチャンドラコットへのトレッキングルート分岐点、海抜1613mのルムラ(Lumla)まで登ることにする。アンナプルナ山群の雄姿を期待しながら。98年に登ったダンプスの南側尾根筋にできた自動車道、将来はムスタンまで延長される予定だが、現在はベニまでしか開通していない。懐かしいダンプスへのトレッキングルートを谷の向かいに見ながら尾根に開けたノーダラ(Naudanda)のバザールを抜け、眼下にポカラのベワ湖を望み、カーレ(Khare)に。2年前に創建されたばかりのゴンパを訪れる。法要が行われていたが、誘われるまま中に入る。お茶をご馳走になり、内部を拝観。20Rs寄進し、車の待つ茶店前に。
ロッジや茶店の集まったカーレの集落で車を降り、ルムラの集落まで散策。トウモロコシを庭先に干していた老女に話しでは、ここ6年ほど、外国人観光客の姿をほとんど見ないそうだ。
カーレの食堂で昼食。モモとチョウメン。食堂とロッジのオーナー、「ロッジを建てたが、客が来ない。」と嘆く。食堂のメニューも観光客相手から地元客相手に変え、料金も下げているらしい。
13時半、ポカラに向け引き返す。セティー・ガンダキ川とその支流が合流する付近には見事な河岸段丘が見られる。チベット難民のキャンプ、ヒェンザ(Hyangja)の側にはマニ石の積み上げられたゴンパもある。
川沿いの空き地で、刈り取ったばかりの羊毛を谷水で洗い、干している家族に会う。チベット人らしい家族は、写真撮影を快く許してくれる。
オールドバザールに立ち寄り、1枚240Rsのマット2枚購入。それでも14時20分にはポカラ空港に着く。ガランとした空港。ターミナルビルの近くに2機のヘリコプターのみ。日陰のない屋上でぼんやり眺めていたが、暑さにかなわず待合室に。15時30分前後に、ミニ航空会社の飛行機発着が集中しているらしく、15時を過ぎると急に賑やかになり、次々小型機が着陸しては離陸していく。我がスカイライン航空も同様。見慣れた15人乗りのプロペラ機が着陸。そして定刻15時30分離陸した。
残念ながらヒマラヤの山並みは厚い雲に覆われていたが、眼下には尾根筋や急斜面に貼り付いた山村、ゴルカの町、そしてヒマラヤに続く谷筋を見ることができた。30分の飛行時間で、カトマンドゥ着。
タクシーを拾い4時20分にはホテル・ムーンライトに着く。
3日前と同じ409号室に。Tさんは帰宅。
シャワーを浴び、洗濯。ベッドに横になり休む。
19時前から21時頃までタメルを経てアンナプルナ寺院まで歩く。タメルの外国人観光客、確かに少ない。客の居る土産物屋ほとんどなし。反面、アンナプルナ寺院あたりのバザールは地元ネパールの人々で「アメ横」並みの混雑。
民芸品のズタ袋(?)を扱ういつも立ち寄る店で大小5つばかり買う。
酒屋でククリーラムとミネラルウォーターを買い、戻る。夕食はホテルのレストラン。モモとビールで済ます。
22時には寝床に。
28日(木)、6時半、起床。曇天から晴れ。
6:50〜9:35、スワヤンブナートに。ホテルから片道徒歩で50分。傘を持たず出かけたところ、途中でパラパラ雨が降り出す。少々焦ったが、本降りにはならず助かる。
今の日本、市街地では考えられないことだが、至る所に泥濘ができ、バイクや車が泥水をはねていく。
早朝の肉屋には山羊が繋がれている。間もなく解体される運命か。
ヴィシュヌマディ川沿いは相変わらずゴミの山。ひどい悪臭。豚、犬、牛がそのゴミ山を漁っている。
テジさんの話では、今日から3日間は女性の祭り、赤いサリーを着た女性の姿が目立つ。 石段、登り口の両側に並ぶチベット難民の露店もまだ準備中。
何段あるのか数えてないが、多分300段はあるかと思う参道の石段を登り切る手前、左側の小屋で外国人より拝観料を徴収している。1人50Rs。
カトマンドゥ盆地が湖底にあった3万年以上前、当時、小島であったこの丘は、大日如来と文殊菩薩の伝説をもち、丘に建つスワヤンブナート寺院は、ネパールで最も古い寺院とされている。四方に「仏陀の智慧の目」をもつ巨大なストゥーパはカトマンドゥの象徴でもあり、どこからでも、というより、どこも見下ろしている。何をしていてもストゥーパの目に見られていると云った方がいいかも知れない。
ストゥーパの手前、左右に、ヒンドゥ教の寺院に見られるシカラ様式の塔があるが、その一つ、参道から向かって右手の塔は、1ケ月ほど前、火災にあっていた。足場が組まれ、修理工事が行われていた。
境内は、早朝にも関わらず、参拝者で溢れ、特に、ストゥーパの背後にある、ヒンドゥーの神を祀る一角は供物を捧げ、拝礼する人でごった返していた。
しばらく雲の垂れ下がったカトマンドゥの街を眺めていたが、タルチョに飾られた背後の小山が気になり、そちらに向かう。
チベット仏教の寺院や僧院があり、小さなストゥーパの前では、供物を捧げる家族が。マニ車の並ぶ壁にはサルの群。野犬も。参拝者が捧げる供物は、彼らの餌に。
赤い僧衣を纏ったラマ僧が僧院に向かっている。
再びスワヤンブナートに戻り、正面参道の階段を下り、ショートカットしながらヴィシュヌマディ川 まで出る。途中、河岸に近い寺を覗く。中庭に小さな石の仏塔がたくさんあったので仏教寺院(?)。ネパールの寺院は神仏混淆、ヒンドゥー寺院も、仏教寺院も同居。ネパール人の多数を占めるヒンドゥー教徒は、仏教寺院に、違和感無く参拝している。仏陀も、また、ヒンドゥーの神の生まれ変わりと考えている。
ホテルに戻り、一休み。ティーのルームサービス頼む。10時過ぎ、カゲンドラさんから電話があり、18時にホテルで会うことに。
10時45分、Tさん、部屋に。
Tさんの新居に近い(ボルダナート)シェルパ族の女性が経営している小さな食堂に行く。3年前、ヒレで飲んだトンバ(ヒエ酒)の味が忘れられず、「飲みたい。」と云っていたのを覚えてくれていた。夏場は発酵が早すぎ、すぐ酸っぱくなるそうで、カトマンドゥでは余り造られていないとか。旨いが、湯を注いで飲む酒、暑いこと。やはり夏の真っ昼間に飲む酒ではない。「ロクシーもあるよ。」と云われ、つい一杯。すっかり酔ってしまう。しかし、安い。トンバは35Rsとか。
シェルパの店からTさん宅までは歩いて10分ほど。
13:00〜16:45、新築のTさん宅。
1年半の日本滞在で稼いだ200万は、鉄筋3階建の立派な新居になっていた。
ただ資金不足から一階部分を除いて、内外装、窓ガラスなど未完成ではあったが。
屋上から見ると、ボルダナートのストゥーパやカトマンドゥ盆地を囲む北部の山稜が望める。
スプロール化の進むカトマンドゥ郊外、回りには、まだ水田が残り、農道を利用した道は狭く、曲がりくねり、泥んこ。ゴミ処理ができていないところでは悪臭がひどく、生活環境は必ずしもよくないが。
2階の見晴らしのいい一室は、「私がネパールに来たときのため」と、うれしいことを云ってくれる。
奥さん手作りのジャガイモとカボチャの煮物を出してくれる。土産の醤油が早速使われている。
帰途は、トンバを飲んだ店の先まで戻り、そこからミニバスを2度乗り換え、王宮近くまで。そこから歩いて18時前ホテルに。
カゲンドラさん、すでに、ホテルのカフェテラスで待っていた。
コーヒー、紅茶を頼み、1時間余り、ネパールの政情などについて話す。マオバディとの交渉が決裂して以降、またもやカトマンドゥでも軍や警察を狙った事件が発生しており、20時以降は外出禁止になったとか。19時になるとTさん、カゲンドラさん、揃って失礼すると席を立つ。
部屋に戻るが、悪寒がし、頭も痛い。どうも風邪気味。20時には横になるが、眠られず。夜中に、鎮痛剤を飲む。昼間から飲み過ぎたせいか。
29日(金)、6時過ぎ起床。夜中に、また雨あり。朝には上がっていた。
7時半、コンチネンタル・ブレックファースト。
食後、T/C両替のため、タメルに。ついでにカレンダーなどの土産を。
体調すぐれず。
10時、Tさん部屋に。ガイドの謝礼をし、ホテル代の支払い。1泊朝食付き20ドル。 11時過ぎ、Tさん知り合いの車で空港に。軍、警察の警備が、いつも以上。軽装甲車も出ている。昨日、軍の幹部が狙撃され、殺害されたとのこと。どおりで昨夕、早々に2人が帰ったはず。
空港への途中、ネパール最大のヒンドゥー寺院、パシュパティナートの見える橋の上で、車を止めてもらい、写真を撮る。何度もカトマンドゥに来ておりながら、一度も行ったことのない場所。面白いことに、カトマンドゥでこの周辺だけ大麻が自生している。
Tさんは、空港入り口で検問中の将校から降りるよう指示され、ここで別れる。見送り人も空港内には一切入れない。
搭乗手続きの前に、銀行で空港税1100Rs払う。
カトマンドゥ〜バンコク、エコノミークラス満席になっていたが、そのほとんどが、出稼ぎに出かけるネパール人。今回、初めて、ビジネスクラスを使う。薄暗い待合室。免税店の品揃えも少ない。
13:00発、TG320便、14E席。30分以上遅れる。
ビジネスクラス、さすがにゆったりとした座席。機内サービスも満点。ただし、体調を崩している私は、そのほとんどを断り、バンコクまでうつらうつらしていた。
バンコクでは6時間余りの待ち時間。する事もなく、ベンチにうずくまっていた。
TG622便は機体変更があり、座席は70Aから64Aに。
深夜、日付が変わって離陸。関西空港に7時過ぎ着。
8時44分発のはるか8号にて、新大阪に。11時半頃、帰宅。