パキスタン・アフガニスタン紀行            
                               
 私は1971年7月23日から8月25日まで約1ケ月、夏休みを利用して、同僚の書道担当教諭の片山智土氏と2人、タイ、パキスタン、アフガニスタン、インドの旅をした。私にとっては2回目の海外旅行(前回1969年8月、ヨーロッパ旅行、巡検記第6輯で、一部報告)であったが、個人旅行という意味では初めて経験したことも多かった。出発間際まで飛行機の切符手配、旅券申請、予防注射、外貨の両替と駆け回り、気がついてみると肝心の旅行計画も立たぬままで出発を迎えていた。勿論、細かい計画を立てようにも、現地、特にパキスタン、アフガニスタンについては交通事情も宿泊施設も全くわからなかった。ここ1、2年シルクロードが注目され、最近では多くの関係書籍が出版されている。しかし、当時はそうしたものは少なく、かなり無鉄砲ではあったが、往復の航空券を持っただけの頼りない旅行となった。ここに紹介するのは、その旅のうち、パキスタンとアフガニスタンでの体験の一部をまとめたものである。何しろ、ろくに勉強もせず、しかも、わずか3週間余りの滞在で得た瞥見的体験をもとに書いたものであるから、間違いも多く、かなり独善的な解釈をしている部分もあると思う。文明の十字路として、なんとなくロマンチックな響きをもつシルクロードの国、アフガニスタン。世には「シルクロード熱病患者」と称される人がいるそうだが、私自身も、子供の頃から地図を見る度に、ユーラシア大陸のど真ん中、茶褐色にぬられたパミール高原とその西にのびるヒンズークシ山脈と砂漠の世界に、神秘的な幻想を抱いてきた。旅から帰って、もう2度目の夏を迎えようとしている。しかし、今でも時々夢を見る。荒涼とした砂漠、砂嵐の中をトボトボ歩くロバの列。鏡のように澄み切ったバーミヤンの渓谷。喧噪に満ちたバザールの光景。 
 
1.カンダハルからヘラートに向かうバスで
 ギラギラと皮膚を刺すような光線を放ちつづけた太陽が、やっと地平線に没し、残光が西の空を赤く染め、やがてそれも南北から拡大してきた藍色の天空に占領されてしまった。それもつかの間、東の空が黄色に染り、淡茶の二重・三重の傘をかぶった真っ赤な満月が昇ってきた。砂埃で霞んでいた砂漠の大気も除々に澄みはじめた。しかし、まだ車内の気温は40℃を超えているようだ。硬くて、前との間隔がいやに狭いシートの上で身動きもできず、時々腰を持ち上げ、汗でべとつくズボンの尻を乾燥させるのがやっと。8月6日、午後4時40分にカンダハルを出発して、もうそろそろ5時間になろうとする。定員40名ほどの旧式小型バスに50人ばかりの乗客。両側に並んだ3人掛けと2人掛けのシートは勿論、通路に積みあげられだ荷物の上まで満席である。カンダハル以来、前後の男と持ち込んだ大さな水煙草のキセルを回し飲みしていた隣席の老人が、先程から両手を耳もとにもっていき、何かしきりに話しかけてくる。パシュトウ語らしく、意味を理解しかねていると、それに気付いた青年が老人に何か耳うちをする。老人は納得したらしく、やがて通路の荷物の上に白い布切れを敷き、裸足になってその上に正座する。どうやら日没直後、4回目の礼拝のことだったらしい。パキスタン以来、何度も見てきた礼拝(ナマーズ)であるが、時速100キロ以上で走るバスの中でのナマーズには驚いてしまった。日常生活の中に深く浸透し、生活の糧として、規範として、あらゆる面でそのよりどころとなっているイスラーム。その厳しい戒律も日常生活の中に埋没し、あまりにも自然に表現される。 まだ夜も明け染まらぬ日の出前の礼拝から就寝前の礼拝まで一日5回の礼拝を、時には焼つく砂漠の中で、また時には目もあけられぬ砂嵐の中で、一回と欠かすことなく行う彼らを見るにつけ、ただ驚嘆するばかりであった。長い老人のナマーズが終ると、今まで大声でしゃベりまくっていた前席の男が代わって座った。水瓶のわずかな水でロを漱ぎ、洗浄し、メッカに向ってコーランの一節を口ずさむ。それまでの彼と、全く異った敬虔な表情にイスラームのもつ神秘性を改めて感じ、生活に密着した宗教のすごさと、その絶対性を感じざるを得なかった。間もなく、乗客全体の中からナマーズの声がかかり、運転手は、ワジが道路を横切る手前、道沿いに5,6軒の茶屋(チャイハナ)の並ぶ小さな集落にバスを止めた。ありあわせの水や砂で洗浄し身を清めた乗客は、一塊となって、砂礫におおわれた砂漠にターバンや持参の布切れを広げ、一斉に整然と礼拝をはじめた。非イスラームの乗客は少し離れ、物珍らしげに、しかし多分に気恥かしさを感じながら、また、その自然に発散する宗教的威圧感に圧倒されながら様子を眺めていた。
 月もかなり高くなつてきた。砂漠の中にとり残されたような岩山と日干し煉瓦造りの廃墟が満月に照らし出され、黒い、そのシルエットが美しい。アフガニスタンでは道路沿いなど至るところに廃墟が残されている。乾燥地域では、水は死活問題にかかわる。地下水に頼る村では、その水源が涸れた時、全てが放棄されてきた。かつて、征服者たちは、まずカレーズを破壊することから攻撃をはじめたという。日干し煉瓦の廃墟は、こうして過去に放棄された集落の一部であろうか。中には隊商宿(キャラバン=サライ)の跡らしく、周囲を城壁のように高く巡らし、四隅に望楼を備えた堅固な建物も残っている。今では用をなさなくなったこれらの廃墟は荒れるにまかされ、時たま通過する遊牧民の子供たちの恰好の遊び場になっているようだった。ガズニからカンダハルの間、道路と平行して中央山塊の水を集めて、内陸塩湖のヘルマンド湖に注ぐ、ヘルマンド川の支流タルナック川が流れている。中央山塊とタルナック川の間は、ゆるやかに傾斜した乾燥地帯で、赤茶けた砂礫に覆われている。植生と言えば、点々と、乾燥に強く堅い棘のあるラクダ草が生えているだけである。歩行者にとっては厄介者のこの草も、名前の通り、遊牧民には大切な牧草であり、農耕民には貴重な燃料となっている。丁度、遊牧民の放牧時期にあたっていたため、あちこちにテントが張られ、時にはラクダの背に家財道具一式を載せ移動する姿を見ることができた。遊牧民のキャンプの密度は、集落に近い所ほど高く、乾季で休閑中の集落周辺の耕地にテントを張り、ラクダ、羊の放牧を行っている。遊牧民と定着農耕民との結びつきを見ると、その歴史的な関わり合いはともかく、休閑中の除草と家畜の排泄物による土地回復をはかる農牧の合理的な連鎖の上からも、案外友好的な関係が生じているようだ。また、カブール、カンダハル等の都市近郊にもテントが集中しており、たんに家畜市場と言うことだけでなく、都市化の波が遊牧民に与えている影響も無視できないように思えた。
−末尾至行氏の「アフガニスタンの遊牧民」世界地誌ゼミナールによると、東アフガニスタンの遊牧民には、局地遊牧民、麦刈手伝い半遊牧民(derawagar)、純粋の遊牧民(maldar)、隊商的遊牧民(tejar)の4形態があるという。また南、西アフガニスタンでも同様に、いくつかのタイプが存在しているらしい。最近、このように、遊牧内容の多様化が見られ、その原因として降水量・埴生等自然条件、貨幣・商行為の加味、定着化現象に照応する。特に、プロセスにおける多様化があるとしている。大野盛雄氏は、「イスラムの世界」の中で、イランの遊牧民の例をあげ、彼らの生活空間の広さと、その広い空間の中での接触を通し、遊牧民は多様状況に対して、定着民より順応性があり、考え方にも融通性があるという。また大野氏は「アフガニスタンの農村から」の中で、遊牧民は宿命的に畜産の民であり、演繹的に家畜を飼うのだと思い込んでいることが多いようだが、実際には遊牧民は家畜を飼うことが絶対的なものだとは思つていないのではないかとの問題提起をしている。即ち、大野氏の言う遊牧民の生活・行動様式の特性が、一方で、遊牧の内容の多様化に影響を与えていることも考えられる。前掲末尾氏によると、図2(略)で示されるようにタルナック川流域、ガズニ付近はmaldarの夏営地(yaylaq)になっている。カンダハル、ジャララバードあるいはパキスタン領内を冬営地(kishlaq)とする彼らは、春になると小集団をつくり、移動をはじめ、6,7月頃夏営地に到着する。しかし、夏営地といえども−ケ所に定住するものではなく、草を求めて一定の範囲の中で移動を繰り返している。maldarは財産持ちの意で、用獣として羊、山羊、駄獣としてラクダを保有し、純粋に遊牧によって生計をたてていると言う。しかし、その純粋性も、家畜依存度が高いということで、移動を通して多かれ少なかれ定着民や他の遊牧民との間に畜産物と農産物の交換や売買、家畜の飼料を得るための労働等、商的・労働的行為が生まれてくる。即ち、maldarの中にも多様な形態が存在していることが考えられる。tejarやderawgarも視点を変えればmaldarから脱遊牧への一段階として捉えることができる。彼らが、将来、商人や賃金労動者へ指向することも十分考えられる。8月初め、当然夏営地にいるべき遊牧民がカブール、カンダハル等の都市周辺に集中していることは、このような指向的傾向を示すものではなかろうか。彼らの行動様式が順応性、融通性を生みだしたがゆえに、その気質が近年の急激な社会・経済の変化に対応して、逆に、彼らの生活・行動様式を変容させていると言えないだろうか。カブール近郊に林立するテントがderawgarの特色でもあるヨーロッパ製の白い屋根型のものであったこと、また彼らの財産である家畜に牛、ニワトリ等が加わっていることやバザール、バスステーション付近にたむろする人々の中にロープを肩にした遊牧民らしい運搬屋や物乞いが多勢見られだことは、遊牧民の生活様式の変容を示すものとして把握できそうである。−
 遊牧民と定着民との関係は水利の面でも現れているように思えた。乾燥に強いラクダや羊といえども飲料水を必要とするのは当然であり、それ故、彼らのキャンプ地として、水の得やすい集落付近が選ばれるわけである。中央山塊とタルナック川の間のゆるやかな傾斜地には遠くから見ると、モグラの住みかのような土山が地表に点々と並んでいる。たまに、このような土山の近くに遊牧民のテントを見ることもある。近づいて見ると、その土山の1つ1つは井戸。それらは地下で−本の暗渠によって結ばれている。これがイランからアフガニスタンにかけての乾燥地帯に広く分布しているカレーズ。地下水を地表面に導き、流れを利用して広範囲に灌漑を行う独特の方式である。土山の列が消えるところにポプラの繁るオアシスが形成されている。カレーズから噴出する水は、予想以上に水量が多く、流速もある。草木一本もない乾ききった大地に湧き出す水は、自然景観を一変させる。流れに沿う緑の帯、一抱えもあるメロンやスイカのころがっている畑。青々と葉をつけたブドウ畑。土塀に囲まれた堅固な集落。そして路地で無心に遊ぶ子供たち。木陰や塀の陰に身をよせ日中の強い日差しを避け、羊と一緒にうずくまっている牧童。生命の水の尊さを真に知らされる思いがした。
−カレーズについては数多くの文献があるが手軽に読めるものとして、飯沼二郎「風土と歴史」岩波新書1970、大野盛雄「アフガニスタンの農村から」岩波新書1971、同「イス ラムの世界」講談社現代新書1971等がある。特にアフガニスタンのカレーズについては、東京大学西南ヒンドゥークシユ調査隊編「アフガニスタンの水と社会」東大出版会1969 が詳しい。参考にアフガニスタンのカレーズの分布を示すと図3(略)のように、ヘルマンド川とその支流アルカンダーブ川やタルナック川流域およびカブール川上流のロガル地方に多く、中央山塊の南側に見られる。カレーズの発祥地はイランと考えられており、アフガニスタンでもイランとの国境近くにかなり分布している。世界で最も深いカレーズの井戸は300m以上、長いものは90キロに達すると言われているが、普通、深さ10〜20m、長さ数キロのものが多い。−
ナマーズ=ストップを終えたバスは再たび砂漠の道を時速100キロ以上のスピードで突走る。散在する岩山とゆるやかな起伏を除いて、何一つ視界を遮るものはない。地面は月の光に照され、地平線は黒い線となって見える。その地平線から対向車のヘッドライトが黄色の光の点をみせ、ゆっくり接近してくる。やがて忘れかけた頃に、その光は、左側を猛スピードですれ違って行く。日中、焼かれ、熱せられた砂漠の空気は、日没2時間たってもまだ暑く、窓からは砂埃混りの生暖かい風が入つてくる。顔はカサカサとなり、鼻は乾燥してムズムズしてくる。高温地域でも湿度の低いところは、不快指数が低くなるはずだが、湿度の高い気候に慣らされた者には、意外に乾燥を不快に感じる。       
 思えば、7月22日にバンコクからカラチに入って以来、ラホール、ペシャワル、カブールと乾燥地帯を2週間以上旅行してきた。パキスタン南部の砂漠地帯、雨季といえども高乾なパンジャブ地方、そしてカイバー峠を越えて以来は、乾季のアフガニスタンの高原を。
 最初、乾繰地帯として同一の地域概念をもっていたこれらの地域も、何日か歩いているうちに、かなり地域差があるのに気付いた。
 
2.カラチとパンジャブ地方の気侯
 カラチは年降水量200o余りの乾操した砂漠気侯の地域であるが、気温の日較差が小さく、きわめて不快指数が高い。乾燥気候の地域は、一般的には、高温になっても乾燥しているため不快指数が低いはずであるが、アラビア海に画したカラチでは湿度が高く、日中 35℃位に上昇する気温は、夜もあまり下がらず、不快指数は著しく高くなる。理科年表によると年平均湿度は76%で、これは高知、名古屋、仙台など表日本の平均値と一致する。特に、7,8月は年降水量の3/4に相当する約150oの降水があり、しかも、アラビア海から湿った空気が流れこみ、湿度は83〜85%になる。しかし、年間降水量の大半が7,8月に集中していると言っても、2ケ月で150o余り。我々が滞在しに7月下旬の5日間、毎日どんよりとした空模様が続いたが、それでいて雨が降るわけでもなく、蒸し暑さを助長するばかりであった。                        カラチから乗った、パキスタン国際航空(PIA)のボーイング707型機は砂埃に霞む砂漠地帯をインダス川に沿って北上していたが、砂埃はいつの間にか雲に変っていた。約1時間余りの飛行の後、着陸態勢に入った飛行機が雲中から抜け出したとき、眼前に展開された地表は、整然と地割が行き届き灌漑水路が縦横にはしる緑の田園と濃緑の木立に囲まれた集落の姿であった。パンジャブ地方の中心都市ラホールは「グリーン・シティ」とも呼ばれている。街路、庭園、公園は緑の木々が溢れ、ムガール時代のモスクやレンガ造りの古い建物とよく調和している。インダス川の支流ラビ川の河岸に立地する古都ラホールはその豊富な水を利用して、ステップの土地を緑の都市に変えた。インダス川とその支流サトレジ川の間に広がる低平な三角地帯、パンジャブ平野は、その中を流れるジェラブ、チェナブ、ラビなどヒマラヤ山脈、カラコルム山脈から流れ出す、水量豊かな諸河川に恵まれている(パンジャブとは5つの川の意)。パキスタンの人々は古くからこの水を利用し農牧業を営んできた。モヘンジョダロ、ハラッパなどの古代文明の発祥も、インダス川の豊かな水の賜物であつた。その努力は今日なお継続され、人々はダムを造り、運河を掘り、灌漑用水路を造り続けている。しかし、パンジャブ地方がパキスタンの穀倉地として発展したのはそれだけではない。肥沃な土壌と短期間ながらもモンスーンの恩恵をうけることも忘れてはならない。
 7月のラホールは雨季であった。5月にカルカッタに上陸した夏のモンスーンは、ガンジス川に沿って、徐々に内陸に及び、やっと7月に入ってパンジャブ地方に達する。それもつかの間、300o余りの雨をもたらしたモンスーンは再び後退をはじめ、9月中旬にはパンジャブを去り、10月末にはベンガル湾に抜ける。この短かい2ケ月余りがパンジャブ地方の雨季である。降水量も少なく短かい雨季ではあるが、大地の生命を息づかせる恵みの季節である。我々が眼下に見ていた雲こそ、その恵みの雨の源であった。しかし、雲量の割に降雨は少ない。滞在中、毎日ほんの短時間、おしめり程度の雨が降った。折角の雨雲も、ヒマラヤ山脈やカラコルム山脈にぶつかって、はじめて多量の雨を降らせる。イスラマバードの北東、カシミールとの境界に近い保養都市ムーリーは、海抜2155mにある。ヒマラヤ山脈南西斜面の、この都市は、最暖月の6月、平均気温21.7℃。イスラマバードより10℃以上低い。年降水量は1600o余り。雨季の7月〜9月に約1000o降る。灼熱のラワールピンジからムーリーに出かけたが、ムーリーは深い霧と小雨に見舞われ、肌寒く、土産物屋の並んだ通りを歩く保養客の多くは、セーターにコートさえ羽織っていた。
 この降雨こそ、雪どけ水とともに大インダスを増水させ、下流の広大なパンジャブ、シンド両平野を潤し、乾燥した砂漠地帯を貫流しアラビア海に注ぐ。ラホール空港周辺のあの田園も、ハラッパへの道中、延々続いた巨木の並木や両側の畑の綿花・オレンジ・マンゴも、ラワールピンジへの鉄道沿線に見られた水田やサトウキビ畑も、全てこの水の恩恵をうけている。
 ラワールピンジでは3日間滞在したが、その1日はホテルから一歩も出ず部屋に閉じこもって、ボーイ相手に静養した。皮膚の弱い私は、以前、カイロで買ったマンゴの果汁で、ロの周囲や指の間をかぶれさせたことがあった。それだけに、今度の旅では、マンゴは絶対ロにしないと内心誓っていたが、つい、その禁を破り、ラホールの農園で運転手兼ガイドのイクバル氏に勧められ、ロにしてしまった。案の定、翌日から口のまわりを中心に出はじめた湿疹は、ラホールを離れる頃には顔面いっぱいに広がり、ラワールピンジでまる一日ホテルに閉じこもるはめになったのである。ラホールより若干海抜高度の高い、ラワールピンジ(海抜508m)は意外と凌ぎやすく、冷房装置のない部屋でも(快適とは言えないまでも)天井から下がっているファンを回して、日中、過ごすことができた。夜は、気温も下がり、毛布なしでは寒い位であった。しかし、バザールの賑やかな通りに面した部屋の環境は悪く、路地を挟んで向いの建物は一階が食堂、その周辺には道ばたに開業した散髪屋や果物売り、飲料水売り。食堂のラジオは一日中、ボリュームを最大にあげ、売り子は大声で客よせをする。通りの交通量は多く、まさに雑踏。人、馬車、警笛を鳴らし続け走る車、自転車、ロバ、羊、その上カラスまで加わる。その騒々しいこと、騒音公害に悩まされた一日でもあった。朝から曇っていたその日、午後になって雨に。しかし、通りの喧噪は変らず、歩行者は別にあわてる様子もなく、 雨宿りをする者もない。傘をさす者もほとんどなく、ゆっくり雨に濡れながち歩いている人を見ると、なんとなく雨を楽しんでいるようにも見える。普通の人々にとって、ここでは、雨具など無用物なのかも知れぬ。そういえばワイパーのついていない車も実に多い。かつて、カイロの近郊で屋根のない土造りの民家を見たことがあるが、これは極端な例としても、雨の少ない土地の人にとって、防雨対策は、寒冷地でクーラーを必要としないのと同じくらい無駄なことかも知れぬ。しかし、飯塚浩二がその著「地理学と歴史」の中で、「砂漠の人々はかわきのために死ぬような失敗はしないが思いがけない洪水のためおぼれ死ぬことがある」と記しているが、 彼らの生活を見ると、確かに、その危険性を感じさせるものあった。
 
3.ラワールピンジからペシャワルへ             
 8月1日、鉄道でラワールピンジから国境に近いペシャワルへ向う。2等車でペシャワルまでの乗車賃は7.28Rs。距離にして200キロが約520円だから実に安い。日本ほど運賃の高い国は世界中探してもないのだろうが、鉄道やバスの運賃が非常に安いのは助かる。15時4分発の急行Tezrao号は約50分遅れて発車、思いの外、パキスタンではダイヤ通り正確に運行されている。2等の車輌は男性専用と女性専用車、それに家族同伴用の混合車に分かれている。イスラムの女性隔離の習慣にもとずくもので、保守的な回教国では今でもこのようなかたちで公然と残っている。パキスタンでは、バスも、一般に前部が女性、後部が男性専用に分かれている。
 ラワールピンジエからバーハン付近まで、向って右手の車窓には山と丘陵がつぎつぎと展開する。ゆるやかな波状地形の丘陵では、ところどころ植生の乏しさからか、かなり浸食を受けている。また中には、明らかに人の手で、掘り起こされらしい跡も見られる。これは日干し煉瓦に使われているらしく、付近一帯の民家から十分推測できる。しかし、山の斜面は結構緑も多く(雨季だっだこともあるが)見られ、平坦地は麦畑として利用されているようだ。農地には常に何か作物が植えられ、例え休耕中と言えども地割りや残されている切株などによってすぐわかる日本の耕地と異なり、畑作中心の、しかも乾燥地域の農地は、景観上、その判別が難しい。特に乾季の休耕地は砂漠とかわらず、表土は石のように硬くなり、植生と言えば、わずかに耐乾性の雑草が生えているにすぎない。これは地中海沿岸の夏の風景も同様である。バーハン付近から鉄道は山中に入る。木も生えているが多くは灌木の疎林で、下草も少ない。岩がこぶのようにむき出しになっており、土地はいかにもやせている感じである。しかし、このような土地にも人は住み、生活がある。日干し煉瓦造りの家が凹地に集まり、牛や羊を放牧する子供たちが山の斜面で手を振っている。サンジャワル付近の山の斜面や山麓線、小さな丘の麓には穴居も見られた。穴居こそ泥造り・日干し煉瓦造りの民家の起源なのかも知れない。考えようによっては、居住性からも、建築・耐久性からも、穴居の方が勝っているとも言える。
 ラワールピンジから約2時間、アトックの駅を出るとすぐ列車は黄土色に染った濁流を渡る。この意外に狭い流れが、インダス川の本流である。川幅を広げゆったり流れてきたインダス川は、この上流で、アフガニスタンを源とし、途中スワート地方の水を集めて大河となったカブール川と合流する。しかし、流量を増したインダスも、アトックの手前で、東西に走る山塊によって流れを遮ぎられ、合流点を中心に対岸が見えぬくらい川幅を広げ、堰止湖を形成する。湖に溢れた水は出口を求め、ついに山塊に割れ目を見つけ、放出する。それがアトックからカラバグにかけての峡谷である。ここでは母なる大河インダスも、激流と化す。                                
 ジャハンギラ=ロードを過ぎると、鉄道はカブール川の南岸に沿って走る。河岸の沖積地は、結構、灌漑が行き届き、民家もそれまで見てきた泥・日干し煉瓦から石造りのものに変る。ジャル=ジャッバ付近からペシャワル=シティにかけての16キロ程は、鉄道沿いにナシ畑が続く。サトウキビ、トウモロコシ、タバコ等も栽培されている。ポプラの木に囲まれた畑は、それまで見てきた黄色や茶色の地肌を見せたやせ細った土地と異なり、青々と作物が育っている。木の下で休む牧童、黄色く濁った小川や水たまりで水浴びをしている子供たち、牛も日中灼熱の太陽で焼かれた体を首まで沈め癒している。土塀で囲まれた農家の煙突から煙が出はじめた。もうそろそろ夕餉の支度か。その煙突や土塀には、一面茶褐色のまるく平ないものが貼り付けてある。牛の糞だ。木の少ない土地の人々にとって燃料は薪炭以外のものに頼らざるをえない。ラホールで知りあったモハド=ムニル=マリク君(19才、工学系の大学生)に案内されて、ラホール駅に近い新興住宅地(建物は新しいようだが、道はぬかり、蝿が多く、あまり衛生的ではないが)にある彼の兄の家(兄はパンジャブ大学の事務員で月給約250Rs)を訪れたが、その時はじめて目前で牛の糞を干している光景を見た。道ばたで拾ってきたのであろうか。牛糞をまるめで壁に貼り付けている。前日雨が降り、壁が湿っていたためかなり悪臭がしていだが、乾燥しだものは繊維だけになり、意外と清潔で臭くない。乾燥地帯の牛やラクダは、繊維の硬い草を食べているだけに、その干糞は熱量の高い燃料となる。干糞は乾燥地域で広範に燃料として利用されている。もっとも一般的な、庶民の燃料と言ってもよい。薪が使えるのは裕福な人で、粗末な枝木も貴重品である。時々、町かどで薪屋を見かけた。曲りくねった3尺程の、しかも真っ白に埃をかぶった枝木を積みあげている。街路樹の枝などに吊した手造りの大さな天秤と石の分銅を使い計り売りをしていた。買った枝木を小脇に抱えている人の姿を見ると、まさにそれは貴重品であった。
 ペシャワルに近づくにつれ、車内まで土埃が入ってきた。          ・
 
4.ペシャワルの一日
 8月2日は一日ペシャワルで休養。昨夜は疲れていたにもかかわらず蒸し暑くて眠れず。9時半頃、手紙を書いていると急に激しい雨が降り出した。あっという間にホテル前の道路は水びたし。車は車体までつかりながらようやく通り抜けている。しかし、子供たちは大喜び。道路にできた促成プールに飛び込んでははしゃいでいる。雷を交えた激しい雨も2時間ほどであがり、たくさんのツバメが飛び交いはじめた。北パキスタン、特にラワールピンジから、よくツバメを見かける。雨あがりや夕方には黒い線を空いっぱいに交叉させ乱舞する。農薬のため、日本でしだいに失われた光景が、ここでは都市の中心部でも残っている。カラチでは、市街地にある国立博物の庭ばかりか、交通量の多い通りの街路樹にさえリスが住みつき、小鳥は人を恐れず、目の前におりてきた。緑豊かなパンジャブは、また、鳥の楽園だ。種類、数ともに豊富で原色のインコや声の美しいウグイスの仲間が至る所で見られた。
 昼過ぎ、雨あがりの町に出た。昨夜入った中華料理のメニューのあるレストランに行く。パキスタンの主要都市には必らず中華料理の専門店がある。このあたりにも中パ関係の深さを示す。1966〜67年度の貿易を見ると、輸出相手国としてはイギリス、アメリカについで3位、輸入相手国としてはアメリカ、イギリス、西ドイツについで4位。分離独立以来、犬猿の仲であるインドが、1959年のチベット動乱や62年の中印国境紛争を通して中国との関係を冷却化させる中で、パキスタンは反共路線から一転、援助獲得の意図を持って中国・ソ連へ接近した。後に、インドとソ連が接近し、さらに中国のソ連に対する利害もあって中パの関係はより緊密なものになっている。しかし、おかげで私たちは専門店でなくとも、中華メニューにありつけたわけである。ヨーロッパではよく経験することであるが、ここでも食事に時間がかかる。簡単に済ますはずの昼食に、予定以上の時間がかかり、両替を予定していた銀行の閉店時間をオーバー。間に合わなくなってしまった。銀行の閉店時間が午後1時と非常に早いパキスタンでは、うっかりすると両替をしそこなう。銀行に限らず、主なオフィス、商店も1時から4時頃までは昼休み。大陸では一般的な午睡の週間、昼食中心の食事体系がここにも見られる。
 やむおえず、レストランを出て博物館に行くことにする。インド亜大陸の西北部に位置するペシャワルは、紀元45年頃成立したクシャナ朝カニシカ王(140〜170頃)の首府で、当時の地名ブルシアプーラがなまって、その後ペシャワルになったと言う。また、中央アジア、西アジア方面からの入ロとして、古来から重要な役割を果たしてきた。それだけに市域およびその周辺、ペシャワル盆地一帯には歴史的建造物や遺跡が数多く分布している。古いものは、アーリア人がパンジャブに進出した紀元前2000年に遡る。しかし、現在の西北部辺境の歴史的意義から考えれば、紀元前6世紀からイスラムの進出までのものであろう。紀元前6世紀に西北部辺境、即ち、ガンダーラはペルシア帝国の属州となる。それから2世紀後の紀元前327年、征服者アレキサンダーはカイバー峠を越えてガンダーラに入る。彼が去った後、東方領の後継者、セレウコスに引き継がれたガンダーラは、間もなく、ガンジス河畔から身を興したマウリア朝のチャンドラグプタに割譲される。そして、ここにペルシア文化、ギリシア文化、インド文化の融合したガンダーラ特有の文化を生むことになる。ペシャワル博物館には、これらガンダーラの美術品が豊富に展示されている。彫りの深いギリシア的風貌をした仏陀像、仏陀を支えるギリシアの神々。ガンダーラの美術品には、すでにカラチ以来、何度も対面してきた。カラチ、ラホール、タキシラの博物館で。中でも、ラホール博物館に所属されているものは、まさに逸品であった。
 モール通りを博物館に向って歩く。モール通りは軍や官庁の出先機関、それに高級住宅が集っており、道幅も広く、両側の歩道には喬木の街路樹があり、木陰が涼しい。途中で、タクシー(小型のオート三輪を改造したもの。モーター・リキシャという。東南アジアー帯で見られ、普通のタクシーに比べ料金が安い。)を拾い、1時半頃博物館に着く。ところがここも昼休みで休館中。4時半まで開館しないとのこと。仕方なく先にバザールの見物を済ませることにし、鉄道沿いにペシャワル=キャント駅まで引き返す。駅前で馬車を拾いバザールに近いバラ=ヒサール=フォートまで行く。バラ=ヒサール=フォートはデリーのレッド=フォートやラホールのフォートと同様、赤色砂岩を使った城塞である。1519年、ムガール帝国の始祖ババールの治世に建立され、後にシーク教徒によって、1791〜1849年にかけて修復されだもので、現在はパキスタン軍が使用している。パキスタンでは至る所に、この様な城塞が残っているが、多くは、今日なお軍の駐屯や要塞として利用されている。しかし、フォート前の写真撮影厳禁の立札がなんとなく滑稽に感じられるのは何故だろうか。
 堀に沿ってキサ=カバニ=バザールに出る。東西に走る幅10m程の通りを挟んで、両側に大小の店が並び、大変な人混みである。カラチ、ラホール、ラワールピンジ等のバザールと大した違いはないが、国境の町にふさわしく、雑多な人種・民族が入り交り、独特のムードを醸し出している。その中でも、腰に拳銃、身体中に弾帯を巻き付け、ライフルを抱えたパターン族(パシュトゥン)の姿は異様である。ペシャワルを中心とした西北辺境は、パキスタン建立以来、その帰属をめぐって、アフガニスタンとの間で紛争が続き、一時は国交断絶、国境封鎖まで行われた。その原因は、このパターン族にある。パターン族は、アフガニスタンでは人口の過半を占める支配的民族であるが、役らの居住地域は、現パキスタン領の西北辺境に及ぶ。そのため、パキスタンの独立によって2分されたパターン族の居住地(パシユトニスタン)は、今日なおパキスタンヘの所属に抵抗し、アフガニスタンヘの帰属、もしくはパシュトニスタンの自治を求め、紛争が続いている。元来、遊牧民であるパターン族は戦闘的でしかも勇猛な民族である。今日、政府にとっては、カシミール、バングラデシュ問題とともに頭痛の種になっている。どうも西北辺境では政府の力が届かず、治安が乱れているらしい。軍関係の施設は勿論であるが、銀行やちよっとした商社等でも入口の脇に銃をもった守衝が立ち、何となく無気味なペシャワルの町ではある。しかし、人々はいたって明るく、人の好い彼らに接していると、恐怖感などすぐ吹きとんでしま う。薬屋、帽子屋、靴屋がやたら多いキサ=カバニ=バザールを左に曲るとバザール=バターバザンに出る。もともとこの通りの名前は「鳥市」(バード=マーケット)から名付けられたらしいが、現在では1,2軒しか鳥を売る店はなく、20軒余りの真鍮・銅製品を製造・販売する店が並んでいる。特に、木槌で叩き出して造った盆、皿、壷、水差しは、細かい手彫りの模様も入り、見事な出来ばえ。しかも値段が安く土産物としては最適である。2,3軒、ひやかし半分で覗いてみた。その中の1軒は、この通りでも老舗らしく、恰幅のいい、ちょび髭をはやした主人が、製品の善し悪しや店の奥に飾っている賓客の写真、サインの説明を長々とする。いつの間にか主人のペースに巻き込まれ、前の茶店からお茶(緑茶)をとりよせてもらい、絨毯の上にあぐらをかいてしばらく雑談にふける。結局、ここで土産用の銅製品を買い外に出た。時計を見ると、すでに4時半をまわっている。ドルをルピーに変えておかなければならないが、とりあえず道を引き返し、博物館に戻ることにした。来る時には閉っていたバザールの店もほとんどが開き、人通りは、ますます増え、喧噪に満ちた賑わいである。向うから警察官が数人歩いてくるのに出会った。 自動小銃を肩にかけ、大さな鎖のついた手錠をぶらさげた姿には度肝を抜かれる。武器の所持がおおっぴらな当地では警察官もそれ相応の装備が必要なのか。それにしても物々しい。途中、跨線橋の左手に大きなホテルがあり、フロントで両替を頼んでみる。主要ホテルでは両替をやっているが、ここは認可されていないらしい。両替はするが証明書は出せないと言う。パキスタンは外貨事情が悪いらしく、あちこちでヤミのドル買いに会う。大体、公定レートの2割高ぐらいで取引きされている。入国早々、カラチ空港で彼ら一味につかまった。無理矢理、車に連れ込まれ、「ホテルまで送るからドルに替えてくれ」と、なかば脅迫的に交換させられて以来、ドル買いの執拗さにはまいっていたが、今さら仕方なく、20ドル両替してもらう。
 5時半、博物館は開いていた。赤っぽい炊瓦造りの落着いた建物である。中に入る。15
m四方ほどの一階フロアーに、コの字型にケースが並んでいるだけ。思っていたより展示物が少ない。しかし、一見して、ガンダーラの代表的な仏教美術品が展示されているのはわかる。カラチ、バンボール、ハラッパ、タキシラの博物館では、写真撮影は自由であった。しかし、ラホールとここペシャワルは禁止。監視人に聞くと、1Rs出せば内緒にするとのこと。馬鹿らしくなりやめた。今までの博物館に比べ、少し不親切、照明も満足につけてなく、早々に出ることにする。博物館の中で2人の日本人に会う。カラチでは度々日本人を見かけたが、北に来てからは全く会っていない。彼らは、東大探検部の学生で、これからアフガニス タンを経てイランに向うとのこと。             ホテルに戻ると、もう7時をまわっていた。明日は、いよいよカイバー峠越え。早々に床につくことに。今夜は咋夜の蒸し暑さに懲り、20Rs追加し、冷房つきの隣室に移る。年降水量たった363o。7、8月はモンスーンの影響で雨が多いと言っても、2ケ月で平均約80oのペシャワルでまさか蒸し暑くて寝られぬとは夢にも思っていなかった。
 
5.カイバー峠を越えカブールヘ
 8月3日、6時半起床。今日は、いよいよ待望のアフガニスタン入りだ。7時半、レストランでトーストとコーヒーの簡単な朝食を済ます。ここでは気候的にイースト菌の発酵がうまくいかないのか、パンは全て酸味をおびている。いつも食欲旺盛な片山氏が今朝は全く食欲がない。どうも咋晩、30才の誕生日を祝って奮発したアイスクリームがあたったらしい。飲み水には十分注意してきたが、アイスクり−ムで食あたりするとは。ホテルの支払いを済ませ(宿泊科のことで一閃着あったが)、モーター・リキシャを呼び、やっと大荷物を積み込み、キャント駅に近いガーバメント=トランスポート=サービスのバス停に急ぐ。少し湿っぽく、冷ややかな朝の空気が気持よい。バス停は、すでに乗客が群がり、静かな朝の町で、そこだけが騒々しい。一昨日、ペシャワルに着いた夜、GTSでの座席の予約、ホテルの紹介など親切に教えてくれた青年も、その中で手を振っていた。カブールで商売をやっているというその青年は、仕事の関係でパキスタンに時々やってくるらしい。彼と話しをしている間にもつぎつぎなんとなく薄汚れた(土地柄、誰でもは埃っぽくなるが)手が、目の前に突き出きれる。日本では、最近、ほとんど見なくなったが、パキスタンでは、町でも田舎でも、乗物の中さえも、人が集まるところ、どこでも乞食がいる。まず乞食を避けて通ることは不可能といってよい。1955年 以来の5ケ年計面、58年の無血クーデターによって登場しアユブ=カーンによる土地改革も、末端の民衆にはほとんど影響さえ与えなったのか。インドとの対立が、宗教にもとづくものと言え、今だ、ヒンドゥー教の名残り、カスート制度が、特に職業上根強く存在していると聞く。就学率60%、就学期のまだ10才にも満たない子供が大人に混じって働いている。カラチやラホールの街角で、またラワールピンジからペシャワルへの車内で見かけ、靴磨きの少年や飴売りの少年たち、まだ遊びたい年頃の子供が朝から晩まで働いている。一人の客も、逃さまいとする彼らの真剣な目を忘れることはできない。かつて、ある本で、「南アジアの人々は、横着で働かない」との記述を目にしたことがある。優秀(?)なエコノミック・アニマル、日本人の目にはそう映るのかも知れぬが、私の目に映るのは、非常に勤勉な人々であった。朝早くから夜遅くまで働いている彼らの姿を見るにつけ、「働けば食える」という考え方の甘さを実感した。鋸と金槌があれば、彼らは大工になる。わずかでも木の実が手に入れば、彼らはたちまち行商人になる。しかし、大工になっても、家を建てたい者がいない。行商人になっても買い手がない。−日中、客を求めて歩きまわる。その労働量(時間の消費)に対し、いかに非生産的か。13日間のパキスタン滞在中に、私の乞食に対する考え方はしだいに変ってきた。鋸と金槌を持たない人、わずかな木の実を持たない人にとってできるのは一体何であろうかと。そこにどれだけの違いがあるのかと。      8時10分、バスが入る。荷物を屋根の上に載せ、いざ出発。ところが今日は朝からトラブルつづき。片山氏の予約シートには先客があり(日本でも時々あるが、同一座席の二重発売である)。しかし、後部に空席があったので、これはどうにか収まるが、さらに発車間際になって荷物を屋根の上に載せてくれた男がチップを出せと車内まで乗り込んで大声でわめき出した。ホテルの支払で、パキスタンの通貨を全てはたいてしまった私には、手持ちがない。片山氏も5Rs紙幣がたった1枚。5Rsもチップをやるわけにもいかぬし。といって払わなければバスは出られず、大弱り。片山氏の前の席にいた髭の男が、立て替えてくれ、やっと発車にこぎつけた。
 旧市街地西に広がるキャントンメント=エリア(宿営地域)は、緑地空間も広く、建物も多くが新しく、旧市街とは対称的である。エリアを抜けるとペシャワル空港がある。ペシャワルにはパキスタン空軍の司令部が置かれているだけに、戦闘機が目立つ。迷彩をし、スクランブル(緊急発進)態勢をとった戦闘機。格納庫の代わりに木枝を使ってカムフラージュした戦闘機もある。空港の周囲には塹壕が掘られ、対空陣地が造られ、高射砲が空を睨んでいる。ピーンと張りつめた空気が、戦時体制下のパキスタンの実情を表わしているようだった。空港の側を通り過ぎると、間もなく、大さな礫のゴロゴロした荒地に入る。何もない荒涼とした世界。ペシャワル盆地の豊かな緑も、ここでプッツリ切れてしまう。厳しい砂漠の様相をした世界。それがペシャワルからカイバー峠への道であった。その緑気のない荒地の中に、今までと異なった頑丈な日干し煉瓦造りの建物が点々と現れてきた。高い土塀で囲み、四隅に見張り用の塔を設け、民家と言うより砦と言った方がむしろぴったりするパターン族の家である。見張り塔や壁に点々とあけられた小穴は、間違いなく銃眼である。いざとなれば、一族この中に立てこもって抗戦するのか。この外見から伺える家屋構造一つとりあげても、パシュトニスタンの問題が、いかに複雑な問題かわかる気がする。カイバー=パス=ゲートでバスは一時停車。車掌が通行税だと言って、乗客1人1人から1Rsずつ集めてまわる。ゲート付近にはパターン族の男たちが大勢屯している。肩にライフル、腰に拳銃、西部劇の一場面そのものの光景である。その異様な雰囲気に恐怖感さえ覚え、カメラを持つ手が震え、ついに一枚の写真も撮ることができなかった。ゲートを過ぎると、道はしだいに勾配を増し、スレイマン山脈を登っていく。谷に沿った、アジア=ハイウェーの一部をなすこの道は、思いの外、整備が行さ届き、末舗装区間もあるが、車はあまり揺れない。谷を挟む岩山の上に小さな砦が点々と見られる。今なお使用されているその砦は、カイバー峠の政治的・軍事的・経済的重要性をいやが上でも感じさせる。峠の頂上近くには、最近建てられたらしい大さな要塞がある。兵士の数も多い。この辺りを中心に、道の両側、岩肌に銅板や石板が数多く嵌められている。これは峠を通過した外国軍隊が記念に残したものである。特にアフガン戦争(第1次 1838〜42、第2次1878〜80、第3次1919)のおり通過したイギリス軍のものが多いようだ。峠を少し下ると小さな盆地が開けている。そこに人口約1700人程の小さな町がある。ランディ=コタールという何の変哲もないこの小さな町は、最近、地理月報(二宮書店発行1970年7月号)で高野史男氏が「西パキスタンの一週間」と題して紹介されたが、密輪商品の氾濫する市の立つところとして知られている。ゴミゴミとしたバザールを通り抜けるとき、両側の店先を見ると、確かに英語、独語、露語などが書かれた商品が多い。しかし、平日であったため、多くの店は閉っており、人通りもそれほど多くなかった。ペシャワルからランディ=コタールまでは鉄道が敷かれているが、週に一便しか運行されず(1971年4月現在、パキスタン=ウエスト=レイルウェー発行の時刻表によると、毎週日曜日に一往復運行されている。ペシャワル=キャント発8:00、L.K.着11:20、L.K.発13:55、ペシャワル=キャント着16:45 である。52キロ余りを3時間前後かけゆっくり走ることがわかる。)。列車の出る日曜日は、買い出し客で満員となり、バザールも大変な賑わいと言う。国境に近い地理的条件に加えて、パターン族居住地が両国にまだがると言う特殊性がこのような市をつくり出したのか。後背地を持たぬ市場と交通の集落。中古の日本製小型乗用車が約 200万円もするというパキスタンの輸入関税の高さが、アフガニスタンとの間に価格格差を生み、密輸に発展したとも言う。
 ランディ=コタールの町並みを出ると、谷底平野に立派な例のパターン族の家が散在している。堅固で少し凝ったその構えに、裕福な彼らの生活の一端を見ることができる。かつては峠の山賊(略奪者)として恐れられ、遊牧と隊商に従事してきた彼らも、今は多くの者がバスやトラックを所有し、アフガニスタンとパキスタンの陸上輸送を担っていると言う。特に、カイバー峠越えの輸送は、ほとんど独占しているそうだ。谷間の道を曲りくねり、しばらく坂を下ると前方の岩山の間に狭いながら平坦地が開けてくる。その谷底の真ん中に道を挟んで数軒のチャイハナ(茶店)と白っぽい建物が見えてきた。車が10数台停車し、人影もかなり見える。近づくとこれが国境、カイバー峠の西口、トルカマであった。出国手続きは割と簡単で(パキスタン人、アフガニスタン人は税関でかなり綿密に調べられていたが)、まず税関で通貨の消費申告をし、次に別の棟にある事務所で出国印を受ける。印パの税関はかなり厳しいと聞いていたが、カイバー峠の国境について言えばそれ程でもない。ペシャワルで持ち出し禁止の古銭や仏像も、カイバー越えなら心配ないと言っていたが、ここ西北辺境の国境では中央の統制力があまりないのかも知れない。税関の前では、札束を握った私設両替屋が屯し、手当たり次第、両替を求めてくる。国境は徒歩で越える。パキスタン側では鉄鎖で道をふさいでいる。警備兵に手続きが終ったことを告げると鎖を緩めてくれる。鎖のバーを飛び越え、短い橋を渡り100m程歩くと、再び赤白縞模様のバーが道を遮断している。これを抜けるとそこがアフガニスタンである。道の左側、一段高くなった所に出入国管理事務所がある。ここで入国印をもらい検疫を受ければ手続き終了。バスの乗客は税関の検査もなく、簡単に済む。銀行でアフガニスタンの通貨に両替すると1ドルが86アフガニ(Af)。日本円に換算すると1Afが約4.2円であった。
 手続きは簡単であったが、バス1台分の乗客が全員済ませるには、1時間以上かかり、その上、運転手と乗客の1人が荷物の事で口論をはじめ、国境を出発したのは11時18分。しかし、当地では、運転手か強い。相手の乗客を降ろしてしまった。今まで左側を走っていたバスは、右側通行に変わった。急に右側通行に変わると、運転してなくても感覚が狂い対向車が来ると、「衝突する!」と肝を冷す。旧英領のパキスタンと第1次アフガン戦争以来、常にイギリスに抵抗してきたアフガニスタンでは、交通ルールも違うのかと妙なところで感心する。
 角礫の転がる岩山の間を谷に沿って下ると、次第に谷幅が広くなり、前方に広大な平地が開けてくる。石造り、日干し煉瓦造りの家が増え、国境から約10分程走ったところに国境と同じ、道路を遮断するバーがある。カーキ色の制服に着剣した銃を持った兵士が1人、その脇に立っている。検問所か。車掌が番所のようなところに飛び込み、間もなく帰って来た。バーは上り、バスは何事もなかったように通り抜けて行く。この先、カブールまでこのような検問所が4ケ所あった(あとで気付いたことだが、検問所と思っていた番所では通行税の徴収をやっていた。まさか幹線道路で通行税をとっているとは考えもしなかった)。
 ここロエ=ダッカで道はカブール川と出合う。しかし、すぐ川は北に離れ、再びジャララバードの手前で姿を見せる。海抜500〜600m、南にサヘド=コー、北にヒンズークシ(4500m級の山脈)の山々に囲まれた東西約120キロ、南北約50キロの回廊状の平坦地は、カブール川とその支流の水に恵まれ、農業国アフガニスタンの一翼を担う沃野になっている。また、遊牧民は、冬でも0℃を下らないこの低地を冬季の宿営地として利用している。ガンジスに沿って入り込んだ雨季のモンスーンは、この低地までやってくる。雨の少ないアフガニスタンの中で、比較的多湿な気候を示すところでもある。何となく蒸し暑さを感じる埃っぽい道を、ロエ=ダッカから1時間余りでジャララバードに着いた。ジャララバードは活気溢れる町であった。町の至る所で建設工事が行われ、市街地整備も着々と進められている。街中を幅広い舗装道路が走り、両側に街路樹が植えられている。まだ弱々しく、木陰を提供するまでには行かぬが、何年か先には憩いの場をつくってくれるであろう。ジャララバードを中心とした低地は、今、カブール川を堰止め、大規嘆な灌漑工事が行われている。ジャララバードの手前、何キロにもわたって延々と続く造成中の耕地と用水路。そして、サフェド=コーの山並を遙かにのぞむ地平線の彼方まで、地割りの白い線が延びていた。一部はすでに耕地と化し、用水には豊かな水が溢れていた。ソ連の援助によるこの大工事は、今や完全に軌道にのっているように見えた。しかし、耕地の造成ができても遊牧民の多いこの国で、定着農耕民を養成することは、次の大きな課題になることであろう。ジャララバードでの20今の休息中、スイカ(カルブザ)で空腹を満たす。1個たった3Afで、喉の渇きと疲れが飛ぶような気がした。ジャララバードからカブールまで145キロ、ここで乗客の一部が入れ替った。バスは市の中心に近いシシカバブの勾いの立ちこめる停留所を15時丁度に発車した。土塀と土壁の続く街並を抜けると、郊外には、水田が広がっていた。まだ、田植えをして間がないらしい。植生の乏しい車窓をながめてきた目には早苗の緑が実に新鮮に、しかも、強烈に映った。亜熱帯性気侯のジャララバード低地は、米の他に、サトウキビや柑橘類などの栽培が見られ、アフガニスタンの中では特殊な農業地帯となっている。水田のところどころに残る赤茶化て崩れかけた塔は、煉瓦を焼いた炉の跡か。集落の中に点在するハトの塔とともに印象的であった。ジャララバードから1時間、しだいに谷が狭くなり、バスは谷の斜面をゆっくり登りにかかる。右手はるか下方、カブール川の谷を見下ろすところに、谷の斜面を利用した植林地があった。ポプラがやっと3、4mに伸びた植林地の側にバスを止め、給水槽の横に布をひろげ、運転手と数人の乗客は午後のナマーズをはじめた。肌を刺すような強い日差しの中、空気はなんとなく冷たく感じる。湿度がかなり下ってきたようだ。
 急勾配を登りつめ、突出した岩塊と岩塊との間を通り抜けると、眼前に、空の色をそのまま映したような、真っ青な湖水が現れた。カブール川を堰き止めたダムが、雨季の水を溜めていた。上流が乾季の8月、貯水量は多いとは言えないが、水気のない世界で、その青さは神秘的な魅力を持っていた。バスは川沿いの礫混じりの山を越え、そして高原上を走る。
 トインビーは同じ道を11年前の4月に走っている(A・トインビー著「アジア高原の旅」1962)。雨季の4月、激流のカブール川を、彼は「ナイアガラ瀑布直下の川幅を仮にその3分の1、または4分の1に狭めて、しかも現在そこに流れている激流と同じ水量の水を流したとすればどうだろう。それを想像すれば、私が見たコーブル(カブール)の奔流の光景がわかるであろう。」と記している。しかし、今その姿はない。道を横切る川には1滴の水もない。しかし、サロビから先は、11年前と大差がないように思えた。切り立った絶壁を、左右に谷底を見ながらジグザグに登って行く。くずれ落ちる山の危険性や激流に道を洗われることはなかったが、谷側のタイヤは今にも道からはみ出し谷底に吸い込まれそうであった。大型バスは喘ぎながち崖をよじ登った。するとどうであろうか。崖の上は広大な平原であった。海抜1800m、アフガニスタンの高原が目の前に広がっていたのだ。右手はるかヒンズークシの山並が見える。植生も密になった。牛が草を食んでいる。川辺のステップに遊牧民の黒いテントが点在する。カブールに近づくにつれ、ステップは耕地に変わる。麦刈りの終わった畑はきれいに耕やされ、一部では風撰した跡のワラ山も残されていた。切り株の残っ畑や用水の堤には屋根型の半遊牧民(derwagar)のテントが集まっている。
 16時、予定通り、バスはカブールの広い通りに入った。王宮の側を抜け、公園横の広場に止った。長いカブールへの道であった。
 
6.アフガニスタンの10日間(まとめにかえて)  
 8月3日、アフガニスタン入国以来、8月13日に、アリアナ=アフガン機でカブール空港を離陸するまで、延べ11日間の滞在であった。その間、カブールのPホテルを拠点にして、ヘラートまでのバス旅行、バーミヤン渓谷へのドライブなどを試み、国内約3000キロを走破した。しかし、日本の1・7倍の面積を持つこの国で、私が接した土地は象の額ほどもなく、微々たる空間にすぎない。その上、それは立派(?)な舗装道路に象徴される、最も開けた部分の点と線にすぎなかった。このような体験の中から一国を語ろうとするのであるから、いかに偏見に満ち、浅い認識であるか卸理解いただけると思う。この一文のまとめにかえて、滞在10日間の雑感を記しておきたい。
 さて、ペシャワルからカブールに到着したバスは、大勢の男に囲まれた。ロープを肩にした遊牧民らしいかつぎ屋、こざっぱりした身なりのホテルの客引き。荷物を受けとる間に、早くも客引きの値切り合戦がはじまった。40Afが30Afに、とうとう半額の20Afまで下った。「えっ、たった84円!」あまりの値段に換算を間違っているのかと疑いたくなる。それはヒッピー相手の木賃宿(ゲスト=ハウス)ではあったが。宿賃はどこでも安い。拠点にしたPホテルは、シャワー、トイレ付きツインで1泊350Af。ヘラートで泊まったナイアガラ=ホテルとカンダハルで泊まったカイバー=ホテルはともに1人30Af。バーミアンでは、パオを使った、いかにも観光客目当てのホテルで、6ド ルと聞いただけで、早々に引き上げたぐらいだ。日本の宿泊料がいかに馬鹿げた値段であるか今さら言うまでもないが。最近のうなぎ登りの物価指数を見るにつけ、つい愚痴の一つも言いたくなる。ちなみに、いくつか物価を円換算してみると、メロン、スイカ1個15円〜30円、大粒のブドウ1房10〜15円、チャイ(紅茶)1ポット12円〜20円、ナン(無発酵パン)1枚12円、野菜、穀物は特に安く、100円も買えば、両手で持ちきれない程。勿論、逆に高い物もあるが、それらは主に輸入品であり、贅沢品である。例えば、街角で売っている色とりどりの飲料水は5円か10円、ところがパキスタンから入ってくるコカコーラはパキスタンで2、30円のものが、6、70円もする。カンダハルのホテルで缶入りのペプシコーラを注文したら40Afとられた。1人1泊分より高いペプシだ。しかし、もし我欲を満たすような生活を望まないなら、これ程生活しやすいところもない。世界中から流浪の民ヒッピーが集ってくる原因の1つもここにある。昼間から大麻(ハシシュ)やアへンを吸い、ブラブラしている彼らにとって、都合がいいのは、さらにこれらの麻薬が安価に、しかも簡単に手に入ることであろう。麻薬は、アフガンの人の中にもかなり浸透しているらしく、煙草を吸う人以上に目立った。私も、カンダハルの茶店でバスの運転手から吸い方を教わった。道端に出された縁台にあぐらをかいて、チャイを飲みながら、身振り手振りで話しているうち、その初老の運転手はポケットから靴墨缶を取り出した。その中味が緑色で粒状の大麻であった。吸い方は簡単で、指先で少量つまみ、舌の上にのっける。歯の隙間から空気を吸い込むようにして、しばらくロに含み、滓は唾液とともに吐き出す。見物に集った男達に私も勧められたが、運転手はまるで子供を諭すように身振りで止めさせた。
 麻薬とともに驚いたのは飲酒。回教を国教とするアフガニスタンでは、飲酒は御法度である。ところが、私は真夜中に千鳥足で歩く、酔っぱらいを何人か見た。宿泊していたカブールのホテルでは毎週水曜日の夜、2階のレストランで、民族音楽を演奏するパーティーが開かれる。いつもはよれよれのワイシャツに折れ目のとれたズボンのボーイが、この時は、背広にネクタイ姿である。客も正装し、集っでくる。珍しく、婦人はブブカ(チャドリ以上に、全身をすっぽり覆う衣装)をとり、レースのドレスさえ着ている。男女別々のグループに分かれてテーブルについた紳士淑女は、別に食事をとる様子もなく、雑談しながら単調なメロディに耳を傾けている(アフガニスタンの民族音楽については藤井知昭氏による研究報告が、季刊人類学3−2、1972に掲載されているので参照されたい)。午後9時から始まったパーティーは夜中の3時まで続いていた。私たちは、楽器の音に引き寄せられ、マネージャーの了解を得て、1時間程演奏を聴いていた。時がたつにつれリズムは激しくなり、人々はしだいに陶酔しているように見えた。その時、チャイのポットを運んできた、いつもレストランにいるモンゴル系(ハザラ人)のボーイ(日本人とそっくりの顔立ち)が酒気を帯びていることに気付いた。改めて集まっている人々を見ると、かなりの人にアルコールが入っているではないか。イスラームの厳しい戒律を認識し、その日常性を見てきた私の驚きは大変なものだった。イスラーム=禁酒は少しずつ崩れている。イスラム世界にも煙草が入り、麻薬が入り、今また、酒が入っている。私も含めて異教徒は、「目には目を!」「コーランか、剣か!」の厳しい掟、1日5回の礼拝厳守、女性隔離等々、その異質性からイスラムは排他的であるという固定概念を持っている。しかし、かつてギリシア、ローマの文化を継承し、昇華させたイスラムは寛容であり、合理的である。 前述の運転手も含めて、私が接したほとんどの人が親切であった。一見不愛想に見えるイスラムの男たちも愉快で実に友好的である。言葉の通じない私たちにチャイを勧め、身振り手振りで一生懸命意志疎通をはかってくれた多くのアフガンを今も思い出す。日常生活に埋没し、定着化したイスラムの固定観念に幻惑された先入観も、もう訂正しなくてはいけない。カブール川に架かる橋の上で、前を歩く、ブブカ姿の女性の足下を見ると、靴はハイヒール、その上ナイロンストッキングがのぞいているではないか。女性隔離の習慣もしだいだ変容している。ミニスカートの上にブブカ。これこそ現在のイスラムを象教しているのではないだろうか。
 短期間の滞在であったが、第三者から見れば何の変哲もない体験をもとに、いろいろ思索し、新しい知識を少しでも得ようとした。しかし、いざ書き始めてみると、思索どころか、自分の目で見、耳で聞いたことさえ十分表現できず、不十分なままの羅列になってしまった。カブール、カンダハル、ヘラートなどの都市と農村の対比やバーミヤンの歴史・景観など、インド、タイの思い出と合わせ書きたい気持があるが、紙数の関係上、次の機会にまわしたい。
 最後に、帰国後、日本アフガニスタン協会からきた便りによると、1971〜72年にかけでヒンズークシ山脈では雨も雪も降らず、多くの河川やカレーズで水が涸れ、地下水位は約20mも低下しているという。また遊牧民は家畜に飲ませる水も、食べさせる草もなくなり、1日も早く処分しようとカブールの家畜市場へ殺到しているという。最近、西アフリカの大旱魃が新聞紙上でクローズアップされているが、アジアの内陸国アフガニスタンにも目を向けたいものである。                          
              参 考 文 献 一 覧
1.Guide to Pakistan, Ferozsons Limited,Lahore
2.Guide to Lahore,     〃         
                            
3.A geography of Pakistan,Kazi S. Ahmad,1969
4.Pakistan Basic Facts 1967 68,Goverment of Pakistan,1968
5.南アジア旅日記、加藤秀俊著、ベルブックス、1971
6.いんど・西亜、多田文男編、新世界地理5(朝倉書店)、1961
7.西パキスタンの一週間、高野史男、地理月報162号(二宮書店)、1970
8.インダス文明、ウイーラー著、みすず書房、1966
9.アジア高原の旅、A.トインビー、毎日新聞、1962               
10.Afghanistan,Mohammed Ali,Kabul,1969
11.Afghanistan,Masatoshi Konishi,Kodansha,1970
12.アフガニスタン王国、世界各国便覧叢書、1969
13.アフガニスタンの水と社会、東京大学西南ヒンドゥークシュ調査隊、東大出版、1967
14.アフガニスタンの農村から、大野盛雄者、岩波新書、1971
15.南アジア、岩田慶治編、世界地誌ゼミナール(大明堂)、1972
16.探検と冒険3,朝日新聞、1972
17.シルクロード紀行、松田寿男著、毎日新聞、1971
18.シルクロード、深田久弥著、角川書店、1972               
19.ユーラシア大陸思索行、色川大吉著、平凡社、1975
20.アフガニスタンバスの旅、金沢 敬、地理月報179・180号、1972
21.高原の国アフガニスタン、世界の動きNo264、1973  
 
※この一文は、岡山大学教育学部地理教室が刊行した「地理巡検シリーズ」第7輯、1973に掲載したものを一部修正し書き改めたものである。