岡山県立西大寺高等学校フェンシング部20年主な大会の記録と部活動の課題
                              山 川 靖 仁
1.はじめに
 昭和56年1月18日(日)、岡山市下石井のまきび会館において、岡山県フェンシング協会および岡山県高体連フェンシング部創立20周年を祝う記念の会が催された。しかし、それは同時に西大寺高校フェンシング部が20周年を迎えたことも意味していた。本校フェンシングの歴史は岡山県のフェンシングの歴史をそのまま反映したものだと言っても過言ではない。当日、それらの会に先だって開かれたフェンシング部20周年記念OB会には東京、岐阜、大阪など県外に出ている者も含めて50数名の卒業生が集まり、いまさらながら部活動を通して培われた縦と横の絆の強さに驚嘆したのであった。筆者は、昭和42年4月、本校に赴任してまもなく,当時の顧問、野方世輝雄先生に頼まれ、補佐役としてなんとなく顧問を引き受けて以来、いつの間にか14年間この部に関わってきた。それだけに、近視眼的で判官贔屓になる恐れはあるが、創立20年という節目にあたり、これまでの部の歴史を振りかえることにした。
 
2.部の創立
 岡山県で初めてフェンシング競技が導入されたのは、第17回岡山国体(昭和37年)を控えた34年秋のことである。この時、普及活動にあたったのが、本校卒業生で関西学院大フェンシング部OBの三宅修一氏であった。氏は普及にあたって、まず地元の知人を勧誘、西大寺武徳殿を練習場として活動をはじめた。その中に本校生徒、藤原 弘も高校生として唯一人加わっていた。
 翌35年4月、三宅氏をはじめ関西の大学でフェンシングをした経験のある県内在住者を中心に岡山県フェンシング協会(会長 網巻 忠,顧問 牧 真一、副会長 河合晋介・野上 修,理事長 三宅修一,副理事長 中務尊久)が設立された。同年、本校においても前記藤原を中心に、絹巻会長(元旧制西大寺中学校長)の学校に対する働きかけもあり、男子生徒数名が集まり同好会を結成、顧問には英語科の長森 茂(志茂栄良)先生が就任した。そして翌36年4月に、体育系では、13番目の部として同好会からの昇格が認められたのである。同じ年、岡山国体のフェンシング競技開催地新見市でもしだいにフェンシングに対して関心がたかまり、市立新見商業高校(現県立新見北高校)に部がつくられた。この2校の活動を母体に、弱小ながらもその年5月、フェンシング部は正式に岡山県高体連に加盟(部長 金谷正男、理事長 長森 茂)、名実共に高校スポーツとしてフェンシング競技が認められるところとなった。
 さらに、同年7月、山口県和木町で開かれた第7回全国高等学校フェンシング選手権大会に、本校は、岡山県代表として初参加した。成績は、団体戦・個人戦共に1・2回戦で敗退という無惨なものであった。しかし、この大会は、翌37年の第8回新見大会と岡山国体へ向けて第一歩を踏み出すためには、それなりの成果が得られ、本校フェンシング部にとっても、岡山県のフェンシング関係者にとっても重要、かつ記念すべき大会として記録されている(岡山県体育協会史,1968)。
その頃、本校に新体育館はなく、現在の格技場が体育館として、バスケットをはじめ柔道、剣道など多くの部の練習場に使用されていた。新参のフェンシング部がここに割り込む余地はまずなく、現在ダンス部が部室として使っている格技場2階部分(補修前で老朽化し、床には至る所に穴があいていたという)で細々と練習していた。幸いにも、岡山国体を契機に、38年10月、新体育館が落成、剣道部の好意もあり、週3日は新体育館舞台、残りの3日は現在の練習場(格技場北半面)を使用できるようになった。また、42年頃からは剣道部が部の事情で毎日武徳殿で練習するようになり、フェンシング部単独で格技場北半面が利用できるようになったのである。
 しかし、協会の援助や岡山国体で使用した設備・備品類の提供があったとはいえ、用具は常に不足気味で、ブレード(剣)すら十分とはいえず、プロテクターは継ぎ接ぎだらけ、折れた練習用ブレードはピアノ線でつないで使うという、今思えば、冷や汗の出るような危険なことさえしていた(現在では安全性を重視し、このようなことは厳禁である)。協会が電気審判器をはじめて購入したのは昭和44年頃のことで、それまでは、県内大会は全てノーマル剣を使い、サーブル同様審判員が5名ついて競技していた。
 
  表1.生徒会予算とフェンシング部予算の推移

年度

生徒会予算A
 体育部関係  フェンシング部
予算B B/A×100 予算C C/B×100
昭和37
  38
  39
  40
  41
  42
  43
  44
  45
  46
  47
  48
  49
  50
  51
  52
  53
  54
  55
  867,520

  不明

 2,295,621
 2,377,922
 2,327,460
 2,312,691
 2,472,565
 2,570,438
 2,663,538
 2,797,000
 4,279,381
 5,005,744
 5,174,625
 5,229,696
 4,733,020
 6,607,198
 7,752,333
 553,90

 不明

 724,82
 696,49
 700,27
 782,84
 797,08
 853,39
 855,70
 940,83
1,354,430
1,484,640
1,600,070
1,600,070
1,702,370
1,997,240
2,209,990
 63.8

 

 31.6
 29.3
 30.1
 33.8
 32.2
 33.2
 32.1
 33.6
 31.7
 29.7
 30.9
 30.6
 36.0
 30.2
 28.5
  8,000

 不明

 38,350
 33,700
 31,740
 36,800
 37,940
 59,500
 65,250
 70,190
110,400
160,000
189,900
203,310
203,700
230,630
265,810
  1.4



  5.3
  4.8
  4.5
  4.7
  4.8
  7.0
  7.6
  7.5
  8.2
 10.8
 11.9
 12.7
 12.0
 11.5
 12.0
 
 表1は昭和37年度以降の本校の生徒会予算とフェンシング部予算の堆移を表わしたものである。これでみると、37年度のフェンシング部予算は8,000円で、体育部関係予算の1.4%、1部平均約4万2,600円であるから、物価の違いがあるとはいえ、草創期の部の台所はかなり厳しかったと想像される。ちなみに、50年度以降は体育部関係予算の10%以上,最高12.7%を占めるようになった。これはフェンシング用具の値上げや電気武器使用頻度の増加、ルール改正にともなう必要用具の増加などにもよるが、本校におけるフェンシング部成長の歴史を示しているとも言える。
 
3.主な大会の記録
全国高等学校フェンシング選手権大会、中国高等学校フェンシング選手権大会、国民体育大会など主な大会の成績は表2の通りである。部の創立から20年、年により浮沈はあるものの、着実に成長した部活動の成果を十分読みとることができる。
 
     表2.主な大会の参加選手監督と成績
(全国高等学校フェンシング選手権大会)
年度・期日・会場    選   手 (監 督)   成     績
昭和36年(第7回)
  7.27〜30
山口県和木町
村島完治、松田章秀、山根克英、
森 和彦、小柳靖子、大土井宏子
    (長森 茂)
男女団体・個人とも1.2回戦で敗退
 
  37年(第8回)
  8.11〜14
岡山県新見市
村島完治、松田章秀、山根克英、
森 和彦、小柳靖子、大土井宏子、
坂井みどり、  (長森 茂)
男子団体2回戦
女子団体ベスト8
男個フルーレ松田7位
  38年(第9回)
  7.30〜8.2
徳島県徳島市
村島完治、松田章秀、山根克英、
森 和彦、神浦京子、宮崎幸子
    (長森 茂)
男女団体・個人とも1.2回戦で敗退
 
  39年(第10回)
  8.1〜4
愛知県名古屋市
田村悦夫、実金 胖、永田嘉章、
神浦京子、宮崎幸子、三宅紀子、
近藤美也子、  (長森 茂)
男子団体2回戦
女子団体1回戦
 
  40年(第11回)
  8.1〜4
大分県別府市
田村悦夫、実金 胖、永田嘉章、
三宅紀子、近藤美也子、光本節子
    (長森 茂)
男子団体2回戦
女子団体1回戦
男個フルーレ田村6位
  41年(第12回)
  8.9〜12
秋田県秋田市
橋本 清、串田健郎、近藤俊憲、
光本節子、常国とも子、石井恵利子
    (野方世輝雄)
男子団体2回戦
女子団体1回戦
 
  42年(第13回)
  8.8〜11
福井県福井市
光岡知明、三浦直行、寺尾富行、
根岸 博、石井恵利子、中山良枝、
太田峰子、   (野方世輝雄)
男子団体3回戦
女子団体1回戦
 
  43年(第14回)
  7.29〜8.1
広島県福山市
田渕啓一、日下静雄、三宅 誠、石原孝、石井恵利子、中山良枝、太田峰子、大森竜子 (野方世輝雄、山川靖仁) 男子団体1回戦
女子団体2回戦
 
  44年(第15回)
  8.1〜5
群馬県高崎市
石原 孝、中嶋和郎、川口 均、
高岡邦雄、大森竜子
     (野方世輝雄)
男子団体2回戦

 
  45年(第16回)
  8.2〜5
京都府京都市
 
近藤一孝、嶋岡民雄、岸本収市、
平 聖二、野村俊二、羽納愛子、
楠本峰子、尾野マリ子、尾野明美、
太田恭子、(山川靖仁)
男子団体3回戦
女子団体1回戦

 
  46年(第17回)
  8.3〜7
香川県高松市
岸本収市、新里正志、平 聖二、
尾野マリ子
     (小川尊一)
男個エペ平3位

 
  47年(第18回)
  8.1〜4
宮城県仙台市
 
新里正志、森本伸治、森本 豊、石田和清、吉田茂夫、近藤恵子、藤原あつ子、田渕万希子、本上美也子、和田佳子 (山川靖仁、小川尊一) 男子団体2回戦
女子団体1回戦
男個エペ新里ベスト16
 
  48年(第19回)
  8.2〜5
愛知県名古屋市
 
森本伸治、森本 豊、石田和清、小林律夫、吉田茂夫、藤原あつ子、田渕万希子、本上美也子、和田佳子、杉野晃子 (山川靖仁、奥西健次郎) 男子団体1回戦
女子団体2回戦
男個サーブル森本伸ベスト
 
  49年(第20回)
  8.2〜5
福岡県篠栗町
石田和清、小林律夫、吉田茂夫、
草加道也、高木義正、田渕万希子、
本上美也子 (山川靖仁、波多野研爾)
男子団体2回戦

 
  50年(第21回)
  8.2〜5
東京都
   青山学院
高木義正、井料田健一、光本幾勇、小林寿雄、久戸瀬勝己、平 智恵美、次田料子、西川賀津子、近藤美恵子、次田葉子 (森口 章、※山川靖仁) 男子団体準優勝
女子団体ベスト8
男個フルーレ高木ベスト12
男個エペ高木ベスト12
  51年(第22回)
  8.1〜5
長野県箕輪町
 
光本幾勇、小林寿雄、久戸瀬勝己、本山雅一、宮城有造、次田料子、西川賀津子、近藤美恵子、成本英子、松田和子  (山川靖仁、小川尊一) 男子団体ベスト8
女子団体ベスト8
男個サーブル小林準優勝
男個フルーレ本山ベスト12
  52年(第23回)
  8.2〜5
岡山県新見市
 
宮城有造、湯浅明久、服部信義、上田正樹、伊加秀夫、松田和子、太田和子、歳森雅子、国井美加子、滝岡久子
    (森口 章、小川尊一)
男女団体1回戦
女個フルーレ太田5位
男個フルーレ湯浅ベスト12
 
  53年(第24回)
  8.1〜5
山形県寒河江市
伊加秀夫、国井美加子、滝岡久子、
細川由美子、竹山知里、高平幸恵
    (山川靖仁、森口 章)
女子団体1回戦

 
  54年(第25回)
  8.1〜5
京都府京都市
伊加秀夫、服部芳靖、竹山知里、
高平幸恵、吉永寿子、井上可奈子、
岸本泰子 (山川靖仁、加藤光正)
女子団体ベスト8

 
  55年(第26回)
  8.1〜5
香川県高松市
 
山本 治、石田英敏、正井丈志、近藤利行、木村松太郎、吉永寿子、井上可奈子、岸本泰子、今井紀子、西山裕子
     (山川靖仁、森口 章)
男子団体2回戦
女子団体ベスト8
女個フルーレ吉永4位
 
(全国選抜フェンシング大会)    於:名古屋電気高校
 年 度(監 督)   選    手   成  績
昭和52年 第1回
  (山川靖仁)
 湯 浅 明 久
 松 田 和 子
  3   位
 
昭和53年 第2回
  (山川靖仁)
 国 井 美加子
 

 
昭和54年 第3回
  (山川靖仁)
 竹 山 知 里
 

 
昭和55年 第4回
  (山川靖仁)
 井 上 可奈子
 
  6   位
 
昭和56年 第5回
  (山川靖仁)
 山 本   治
 岡 崎 澄 子

 
 
(中国高等学校フェンシング選手権大会)主な成績のみ
年度・会場     成   績 年度・会場     成   績
49年 第1回

  山口県
  熊毛南高
 
男子団体1位、
女子団体3位、
男個フルーレ吉田茂夫1位、
男個サーブル石田和清2位、
女個フルーレ田渕万希子2位
53年 第5回

  山口県
  岩国工高
女子団体4位、
男個エペ服部芳靖5位、
同 サーブル上田正樹4位
  同  伊加秀夫5位
54年 第6回

  広島県
  福山工高
 
女子団体4位、
男個エペ服部芳靖4位、
  同 森 伸一5位、
男個サーブル伊加秀夫3位、
女個フルーレ井上可奈子6位、
50年 第2回

  広島県
福山葦陽高
 
男子団体2位、
男個フルーレ光本幾勇1位、
同 エペ高木義正1位、
同 サーブル井料田健一3位、
女個フルーレ平智恵美4位
55年 第7回

  岡山県
  日本原高
 
男子団体4位、
女子団体2位、
男個エペ近藤利行4位、
同 サーブル山本 治5位、
女個フルーレ井上可奈子1位
51年 第3回



  岡山県
新見農工高
 
男子団体1位、
女子団体2位、
男個フルーレ小林寿雄2位、
  同  本山雅一3位、
男個エペ久戸瀬勝己4位、
同 サーブル小林寿雄3位、
女個フルーレ次田料子3位








 
52年 第4回


  島根県
  広瀬中
 
男子団体1位、
男個フルーレ宮城有造1位、
  同 湯浅明久4位、
男個サーブル宮城有造3位、
女個フルーレ松田和子2位
  同 太田和子3位
 
 
(国民体育大会フェンシング競技)
 年度・開催県     選     手   (監  督)   成  績
35年 第15回
  熊本県
藤 原   弘、古 泉 洋 子
 

 
36年 第16回
  秋田県
小 柳 靖 子
 

 
37年 第17回
  岡山県
村 島 完 治、
大土井 宏 子、坂 井 みどり
  7 位
 
38年 第18回
  山口県
村 島 完 治、松 田 章 秀(長 森  茂)
神 浦 京 子、宮 崎 幸 子
  8 位
 
40年 第20回
  岐阜県
田 村 悦 夫、実 金   胖
             (長 森  茂)
  5 位
 
41年 第21回
  大分県
橋 本   清、串 田 健 郎、
近 藤 俊 憲

 
46年 第26回
  和歌山県
岸 本 収 市
 
  7 位
 
48年 第28回
  千葉県
森 本 伸 治、小 林 律 夫
              (山 川 靖 仁)

 
49年 第29回
  茨城県
石 田 和 清、井料田 健 一
              (山 川 靖 仁)
  6 位
 
51年 第31回
  佐賀県
光 本 幾 勇、宮 城 有 造
              (山 川 靖 仁)
  8 位
 
52年 第32回
  青森県
宮 城 有 造、湯 浅 明 久 (山川靖仁)
松 田 和 子
  4 位
  6 位
 
 
(1)全国高等学校フェンシング選手権大会
 昭和55年度の高松大会で第26回を迎えた全国高等学校フェンシング選手権大会は,昭和37年、全国高体連にフェンシング部が加盟したことにより、丁度、第8回の新見大会から全国高体連の主催となった。また、翌38年からは競技別に開催されていた選手権大会を同一地区で開催するようになり、名称も全国高等学校総合体育大会フェンシング競技と併記されるようになった(以下、全国大会と記す。別称としてインターハイ[Inter High School Meetingの略]ともいう)。
本校フェンシング部が、全国大会に、はじめて出場したのは、前述のとおり、第7回大会(36年)からであった。それ以来第26回大会まで、個人戦は20年連続して出場している。団体戦(学校 対抗戦)でも、第17回大会(46年香川)を除き全大会に、男女アベック団体出場も13回を数える。成績も表2の通り、男子団体準優勝1回,ベスト8が1回,女子団体ベスト8が5回、個人戦では第22回大会(51年長野)男子サーブルで、小林寿雄が準優勝したのを筆頭に、第17回大会男子エベで平 聖二が3位、第26回大会(55年香川)女子フルーレで吉永寿子が4位、第23回大会(52年岡山)女子フルーレで太田和子が5位、第11大会(40年大分)男子フルーレで田村悦夫が6位、第18回大会(37年岡山)男子フルーレで松田章秀が7位に入賞するなど準決勝プール進出以上の者は延ベ12名に達している。
 特に46年頃から全国大会での活躍が顕著になり、創部10年を契機に、飛躍的に力をつけてきたことがわかる。これは部創立以来、地元協会関係者など指導者に恵まれていたこともあるが、本校フェンシング部の伝統にもなっている、基本を大切にした地道な練習と卒業生の物心両面にわたる積極的、献身的な援助によるところが大きい。中でも大学進学後もフェンシングを続け技を磨き帰省してきた卒業生の指導と地元の大学に進学したり就職し、毎日のようにやってきて、常に一貫した練習計画のもとで指導にあたってくれる卒業生が現われたことによる。
 岡山県では、全国大会が、昭和37年と52年の2回、どちらも新見市で開催されている。52年の大会は競技責任者の一人として筆者も直接関与したので、選手強化を中心に少し触れておきたい。昭和52年度全国高校総体の主会場、岡山県誘致運動は47年7月、岡山県高体連理事会での決議によって開始された。同年9月の県体協加盟団体長・理事長,高体連専門部長・委員長会議の席でその案が了承されるが、よろこばしいことに(?)フェンシンク競技については、すでに山口県が受けることで高体連フェンシング関係者の間では話がついていた。ところが、専門部の意向に反し(その経緯は明らかでないが)、48年秋になって突然フェンシング競技の岡山開催が知らされ、しかも地元の要望で開催候補地として、新見市まで決定してしまった。当時、岡山県高体連フェンシング部は、永年、委員長を務められた新見商高の藤原一志先生が47年春の定期移動により辞任したあと、不本意ながら筆者が受け継いでいたが、専門委員の中には競技経験者は一人もいなく、しかも施設・備品共貧弱で、とても全国大会を開催できる状態ではなかった(現在では競技歴のある委員が2名いる)。しかし、すでに軌道に載せられてしまったものを引き降ろすわけにもいかず、協会や全国高体連フェンシング部の支援を仰ぎながらやむおえず準備に入ったのである。ここでは、会場・施設・運営などについては触れないが、参考までに筆者の46年以降の出張回数を示すと表3の通りである。この中には特業手当の支給される土・日曜の生徒引率は含まれていないので、51年、52年の出張は100回を超えていた。その大半が全国大会に関係していたことは言うまでもない。後日談であるが、その頃本校に赴任されてきたある先生は、トレーニング・ウェアーで頻繁に出入りする筆者を、運動具
店のセールスマンと勘違いされていたとのこと。    表3.筆者の出張回数
 話が少し逸れたが,選手強化事業は50年4月、
52年度全国大会を担うべき選手の高校入学から
はじまった。小・中学校での競技歴のない選手を
迎えるフェンシングの場合、平生の年でも部員の
獲得が難しいが、最初から全国大会での活躍を期
待できるような部員を求めることはそれこそ至難
の技であった。とにかく、運動能力のあるなしに
かかわらず団体戦が組めるだけの部員を確保す
ることに主眼を置き、2・3年生は、つてを頼り
に部員の勧誘に弄走した。その結果、入部届提
   年    回 数
 昭和46年
   47
   48
   49
   50
   51
   52
   53
   54
   11回
   24
   30
   32
   31
   78
   78
   50
   34
出日までに男子2名、女子10名が入部、その後、男子2名が新しく加わり、どうやら初期の目標は達成された。しかし、安堵したのも束の間、これまた例年のことではあるが、1、2週間もたたぬうちに退部者が出はじめ、5月末には男子3名、女子6名になってしまった。岡山大安寺高、新見商高も同じで、男子部員が集まらないのが悩みの種になった。強化事業の第一段階は3校による合同強化練習であった。本校卒業生を指導者に、彼らの都合のいい日曜、祝日を利用し、50年6月以来大会までの2年間に30回余りの合同練習をした。7月には50年度充実強化費の配分として、専門部に対し19万円が、以後51年度には84万5000円、52年度は42万9500円が配分され、合宿・遠征など多くの事業を実施した。ちなみに,50年4月から52年7月までの主な強化事業(本校フェンシング部参加)をあげると、表4の通りである。
         表4.52年度全国大会のための強化事業
    期    日   事  業  内  容     場   所
50

50年6月15日(他7回)
50年8月10日(他1回)
51年3月22日〜24日
合同強化練習
  同
合同強化合宿
西大寺高
新見商高
玉野青少年スポーツセンター

51


 
51年5月5日(他9回)
51年12月25日〜28日
51年9月12日
52年3月21日〜23日
52年3月30日〜31日
合同強化練習
合同強化合宿
1.2年生大会
合同強化合宿(他種目と合同)
遠征(立命、同志社、名電)
西大寺高
玉野青少年スポーツセンター
新見商高
玉野青少年スポーツセンター
京都、名古屋

52


 
52年4月10日(他4回)
52年4月29日〜5月1日

52年7月24日〜27日
52年6月4日〜5日
合同強化練習
遠征(清風、四天王寺、北陸、武生商等)
遠征(東亜、藤村女子、開成等)
合同強化合宿
西大寺高他
大阪、福井

東京
玉野青少年スポーツセンター
  以上は充実強化費の配分にもとづくもので、その他にも、西大寺高独自の強化練習や3校合同
  の強化練習を実施し、50年8月には国体ブロック予選会、51年5月には中国大会を開催、定例
  の県内大会がこれに加わった。
 
 特に岡山大会を翌年に控えた51年度から52年7月までの事業は,計画をたてた一人としても、全く筆舌に尽くし難い状況であった。毎日、放課後の練習に加えて、ほとんど全ての日曜・祝日も練習や試合に費やされ、無謀なことながら学校教育の一環としての部活動の枠が仮にあるとすれば、それは完全に超越していた。
 だが,強化事業の成果は予想以上に早くでてきた。50年8月,東京の青山学院体育館で開催された第21回大会において、男子団体は準優勝した。これはフェンシング部創立以来の快挙となった。女子団体も13年振りに準々決勝まで進み男子個人戦では高木義正,光本幾勇が、入賞は逃したもめの、エへ゜、フルーレで大活躍した。さらに、翌51年の第22回大会(長野県箕輪町)でも、男女共団体ベスト8、男子個人サーブルで小林寿雄が準優勝、エペでも本山雅一が頑張った。その他にも、50年から52年の前半にかけて、全国選抜大会、中国大会など各種大会で上位入賞し、それこそ非の打ち所のない完壁(
本校としては)の出来であった。かえってあまりに良すぎることに一抹の不安があった。周囲の期待が、精神的な負担になることを恐れたからである。
 結果は、残念ながらまさにその不安があたってしまった。昭和52年、第23回大会(岡山県新見市)、初日と2日日の個人戦では、男女ともフルーレで頑張り、太田和子が5位に入賞、湯浅明久も準決勝プールまで進んだ。しかし、期待の団体戦は相手チームの癖をつかむ間もなく、あえなく1回戦で敗退してしまった。 2年もの間、肉体的、精神的なゆとりを与えず、ただ負担のみを強いたことを思うと、試合後、控室で悔し涙を流す選手達に何を言ってよいのか、言葉に詰まり,ありきたりの慰めの言葉をかけるのがやっとだった。
 念めため、付け加えれば、この時のチームは全国制覇は無理としても、4位以内に入賞できる力が十分あったと今でも確信している。事実,その年10月に開かれた青森国体では男子4位、女子6位 に入賞しているのである。
 53年度の第24回大会(山形県寒河江市)は、岡山大会の反動もあり全般的に低調であった。 その上,せっかく女子個人3回戦まで進んだ滝岡久子が,外気温40℃(室内はそれ以上)という猛暑に棄権するというハプニングまで生んだ。しかし、第25回大会(54年京都)では女子団体ベスト8、 第26回大会(55年香川)でも女子団体が連続してベスト8、前述のように吉永の4位入賞、 いま再び50年、51年の全盛時代復活の気運が芽生えているのである。
(2)全国高等学校選抜フェンシング大会
全国選抜大会はフェンシングの場合、大変新しく,昭和52年4月に第1回大会が開催された。愛知県フェンシング協会の後援により、毎年3月末か4月初めの土・日曜日に、全国高体連フェンシング部事務局のある名古屋電気高校で開催されている。運営費の問題、代表選抜のためのブロック予選の禁止、日程上の問題、未普及県への配慮など種々の理由から、競技種自は各県1名代表による男女フルーレ個人戦のみである。
 岡山県では秋季大会(11月開催)と新人大会(2月開催)の結果をもとに県代表選手を選考し、派遣しているが、本校は第1回大会以来毎年代表選手を出している。今春の第5回大会(56年3月)にも男女共本校選手が選抜されている。
 成績は表2の通り、第1回大会(52年)で湯浅明久があと1勝のところで惜しくも優勝を逃し、3位に入賞したほか、第4回大会(55年)で井上可奈子が6位に入賞するなど好成績を残している。
(3)中国高等学校フェンシング選手権大会
 中国大会は、山口県高体連フェンシング部前委員長倉本一男氏の骨折りで、昭和48年、中国高体連理事会の承認が得られ同年中国高体連フェンシング部を創設、規約を定めると共に、49年から、毎年原則として5月の第2土・日曜日に開催されるようになった。第1回大会(49年)は山口県立熊毛南高校で開催され、その後、広島・岡山・島根の順に回り、55年、2巡目の岡山が終っている。
 表2のと通り、本校は第1回大会以来、毎回、団体・個人共に出場、第5回(53年)、第6回 (54年)を除いて、いずれかの種目で優勝している。男子団体優勝3回、個人フルーレ優勝3回、 個人エペ優勝1回、女子個人優勝1回、3位以上の入賞は延ベ23回に達し、中国地区一・二位の成績を残している。この中で、今もなお語り草になっている男子団体優勝は、第4回大会(52年島根)である。決勝リーグ5対4で本校に勝った岩国工業高校は、福山工業高校に敗れ、残り試合に勝った本校と互いにリーグ成績2勝1敗で決勝バラージ(優勝決定戦)になった。 本校1番宮城有造と岩国1番松重順二の対決はタイムアップ(流し5分、実動1分)までに、それぞれ突き数1の好勝負。無制限時間1本勝負になっての2人は、互いに相手の出方を待ち、睨み合ったまま10数分、手に汗握る大熱戦になった。攻め入る隙をみせず、時々フットワークを踏みながら相手の焦りを誘う。待つことの苦しみがベンチまでひしひしと伝わってくる。10数分と言えど、当人はもちろんのこと、ベンチの者にも数時間に感じた試合であった。松重のほんの一瞬の迷いが勝負を決めた。宮城の突いた赤いランプが今も脳裏に浮ぶ。この1本が試合の流れを決めた。気力が技を生み、本校に勝利をもたらしたのである。
 岡山では,第3回大会(51年新見農工高校)と第7回大会(55年日本原高校)の2回を開催しているが、両大会共、たんに試合での活躍のみならず、運営面でも本校フェンシング部員は積極的に参加した。代表選手以外の部員全員が大会補助員として献身的に協力、また多くの卒業生が仕事や学校を休んで応援に駆けつけ、審判や技術委員などの役を引き受け大会を支えてくれた。彼らの協力がなければ、中国大会に限らずどのような大会も成り立たない。未普及競技ゆえの悲哀やマイナス面もあるが、この家族的でまとまりのある雰囲気こそ、本校フェンシング部そしてフェンシング界全体の長所であり、最大の武器である。
(4)国民体育大会
 国体のフェンシング競技は昭和29年の第4回東京大会からはじまった。高校生の参加は第6回広島大会に高校男子、第14回東京大会に高校女子の種目が加えられたことによる。しかし、第6回から第10回の間を除いて、第16回秋田大会(36年)まで、男女共個人戦のみであった。そして、第17回岡山大会から全種目(一般男子、一般女子〔含高校生〕、高校男子)団体戦となり、個人戦は廃止、県代表3名のチームによる紅白試合を行うようになった。さらに、有職無職少年を含めるという社会教育の見地から、第30回三重大会(50年)より、高校の文字は消え、年令制限による少年男子、少年女子に改められ現在に至っている。
 国体は本来社会体育の一環として開催されているもので、学校教育活動の枠をはずれるところもあるが、各都道府県とも勢威、盛運をかけ、選手強化や上位人賞に力を入れている。 国体は、都道府県単位でチームをつくっているが、岡山県では、毎年7月末に県予選を行い、個人戦の上位3名(成年男子は5名)を県代表として派遣している。しかし、少年男女、成年女子の3 種目(以前は高校男子、一般女子の2種目)はブロック予選があり、その優勝チームのみが本大会へ出場できるのである。ブロックは筆者が顧問になった頃(37年〜45年)は中国・四国・九州を含む西日本、それから54年までは中国・四国、そして昨年(55年)から中国と、競技人口の増加、未普及県への普及に伴い細分化している。このブロック大会と兼ねて全日本フェンシング選手権大会の予選も行われている。
 本校フェンシング部から国体への出場は、2、3の例外を除き、新見商業高校(新見北高校)との混成チームを組んでである。最近では中国地区全体のレベルが上がり、予選の壁を破るのが大変であるが、第17回岡山大会以来現在まで男子9回、女子3回の出場歴を持つ。主な成績は表2の通りである。本大会での8位以内入賞は男子7回、女子1回。最高は第32回青森大会(52年)の少年男子4位であり、女子も同大会の6位である。種目別天皇杯順位、皇后杯順位への貢献度では、第17回岡山大会における男子7位が天皇杯7位に、また第32回青森大会における女子6位が皇后杯8位に寄与している。
(5)その他の大会
 ブロックまたは全国規模の主な大会は以上のとおりである。しかし、その他にも広範な地域や学校を対象とした由緒ある大会が各地で開かれており、本校が参加したものも幾つかある。
 愛知県フェンシング協会の主催する中日本フェンシング選手権大会は中部から中・四国まで対象とし規模も大きいが、期日が毎年岡山県高校総体と重なるため、過去一度しか出場していない。この時(52年)は男子で湯浅明久が優勝し、その一度かぎりの出場を飾っている。 大阪府フェンシング協会の主催する大阪フェンシング選手権大会は毎年10月初めに開催され、国体直前の大会として盛況を博している。昨年の第10回大会には2年生男子3名、女子4名が本校から はじめて出場したが、女子はそのうち2名がベスト8に進出した。
 京都府フェンシング協会主催の牧杯ジュニアフェンシング大会は、日本フェンシング協会前会長で京都府フェンシング協会会長でもあった故牧 真一氏を記念し、昨年11月第1回大会が開催された。本校からは3年生女子2名が参加したが1・2回戦プールで敗退した。
 県内の大会は、高体連主催が年4回(春季大会兼中国大会予選〔4月〕,県総体兼全国大会予選 〔6月〕,秋季大会〔11月〕,新人大会〔2月〕)、県協会主催の国体予選〔7月〕、市教委主催の市総体〔8月〕・西大寺武道大会〔9月〕がある。
 
4.部員の動向と部活動の課題
 昭和56年1月、OB会が発行した卒業生名簿によると、36年度から54年度までのフェンシング部卒業生は男子56名・女子36名の計92名である。「ベル=バラ」(ベルサイユのバラ)ブームを反映してか、最近では女子の部員が増えているが、以前は「フェンシングをすると足が太くなる」と言う噂が流れ(現在でもあるが)、これが原因かどうか分らぬが、女子部員が少なかった。 卒業生の年度別推移(表5)をみる限り、主な大会で活躍した年と部員数との相関関係は認められないが、入部者の定着率(表6)を求めてみるといくらか関係があるように思われる。表6は、古い資料に欠けるが手元に残る46年以降について、毎年5月に提出する全国高体連フェンシング部の登録名簿から作成したものである。定着率とは1年生部員が2年後の3年生の春、何人残っているかを調べ、その比率を求めたものである。登録後新しく入部した者や3年生で退部した者もいるが、大体の傾向は分る。49年以降、フェンシング部の場合は前述した「ベル=バラ」ブームもその理由の一つであろうが、体育系の部全体の現象としても、毎年女子の入部者が男子を上回っている。しかし、反面、定着率 は53年入部者を除き女子の方が低い。これは女子の場合、友達を誘い合って入部することが多く、その中の一人が退部すると特別理由がなくてもそのグループ全員が後に続く傾向があるからである。53 年春入部の女子は4名と最近7年間では最も少なかったが、1年の1学期に退部した1名を除いて3名全員が3年間部活
     表5.年度別卒業部員数
 年度
卒業数

36

37

38

39

40

41

42

43

44

45

46

47

48

49
 
50

51

52

 53

54

 55

 男 3 1 5 1 3 3 5 3 4 2 5 1 2 3  3 6 2  1 3  0 56
 女 1 2 0 2 2 1 0 2 2 3 2 2 1 4  0 5 2  3 2  3 39
 計 4 3 5 3 5 4 5 5 6 5 7 3 3 7  3 11 4  4 5  3 92
 顧

 問

 
長森


 
長森


 
長森


 
長森

砂口
長森

野方
野方

井口
野方

山川
野方

山川
野方

山川
野方
・山川
山川・小川 山川
・小川



奥西




山森
川口






 




 
山加
川藤






 
山片
川山






 
 
     表6.年度別部員数及び定着率
年度
部員
昭和
46年

47

48

 49

 50

 51

 52

 53

 54

55


6
4
12
4
8
6
13
 5
14
 4
12
 4
14
 4
 6
 2
14
 6
11
 5
2 8 2  8 10  8 10  4  8  6


5
1
3
2
9
3
 3
 3
12
 6
 7
 2
 7
 2
 5
 3
 3
 0
11
 5
4 1 6  0  6  5  5  2  3  6


8
5
3
1
3
2
 7
 3
 3
 3
11
 6
 5
 2
 4
 1
 5
 3
3
 0
3 2 1  4  0  5  3  3  2  3

 

19
10
18
7
20
11
23
11
29
13
30
12
26
 8
15
 6
22
 9
25
10
9 11 9 12 16 18 18  9 13 15


 
 
 
 
0.5
0.5
0.58
0.75
0.38
0.5
0.85
1.2
0.36
0.5
0.33
0.25
0.36
0.75
0.5
0
    0.5 0.5 0 0.63 0.33 0.38 0.2 0.75
 
動を続け、定着率0.75と高かった。54年度と55年度の全国大会女子団体でベスト8に進出する原動力となり、また個人でも上位入賞するなど、大いに活躍したのがこの3名である。50年度と51年度に活躍した49年度入部者も同様に男女共定着率が高い。筆者の経験からいえば、1年の1学期に退部した者は残った部員のその後の部活動に影響を与えることはまずないが、夏休み以降、特に、2年になってから退部した者は部員にかなりの精神的動揺を与える。練習に身が入らぬようになり、試合の成績も低下することが多い。一度このような現象がおこると立ち直るために最低2年かかっているから恐ろしい。
 それでは、多少にかかわらず、なぜ毎年このように、中途退部者が出るのか。特別に他の部と異なる原因があるわけではない。退部届や本人の申し出によると、1年の1学期までは部活動に対する不適応、即ち、自分にはフェンシングが向いていないとか練習が厳しく付いていけないなどの理由によるものが多く、それ以降は勉強との両立、部員や卒業生との人間関係、余暇に対するあこがれ、健康上の理由などが多い。          フェンシング部ではもともと自発的に入部してくる者が少ない。現役部員や卒業生の勧誘によって入部する者がほとんどであり、時にはいやいやながら入部する者さえいる。それだけに他の部以上に部活動に対する不適応が起こりやすく、1年の1学期中に退部する者の大部分がこのためである。
 体育関係の部では、練習時間が長く、疲労度も大きいことから、勉強との両立に悩む部員が多い。特に親との関係から、せっかく本人が努力していても、親の強い意志によって退部を余儀なくされる場合もある。親の中には(教師、生徒の中にもあるが)、退部すれば即成績が上がるという安易な考え方がある。もう言い古されたことではあるが、筆者の経験からも、向上した例は少ない。この問題については岡山操山高校保健体育科の研究事例があるので是非参考にしてもらいたい(操山論叢第12号、1977年)。
 今日では勉強との両立に対する悩みもあろが、それより退部した生徒の生活指導上の問題の方がより深刻である。退部によって部に与える影響もさることながら、生活習慣が崩れることから非行に走りやすくなる。生活指導上の問題を起こした生徒でも部入ることによって立ち直るケースが多い。このような時勢だけに、生活指導の立場からも部活動を再認識し、部活動の奨励に取り組むべきと考える。
 今年の2月6日、普通科1年の行った共通テーマによるロングホームルームでは、第4分科会で「部と勉強の両立」が取り上げられている。この資料として、1年生100名(体育部員42名、文化部員36名、部未加入者22名)を対象にアンケート調査をしている。この結果をみると、体育部員の51%が過去に部活動をやめたいと思ったことがあると答えており、文化部員の30%と比較してかなり高い。その理由は、練習の厳しさ、先輩との人間関係、興味関心の低下など、筆者が先にあげたものと大差はない。「勉強との両立」についは、部活動が勉強にさしつかえたことがあると答えた者69%、体育部員の90%は帰宅時間が午後6時以降となっている。たしかに体育部に属することは時間的にも肉体的にもかなり勉強に影響があるように見受けられる。だが、その割に勉強時間や睡眠時間は文化部員や部末加入者とほとんど差がない。かえって限られた時間を効率よく利用しているということであろか。少数側に問題を残しながらも、63%の者が「3年まで部活動を続ける」と答え、75%が「勉強と部活動は両立できる」と答えているところに期待したいと思う。
 3年間、一所懸命部活動した者が、卒業時、高校生活を振り返り、悔いる言葉を口にすることはない。今春もまた3名が「続けてよかった。」と、後輩に励ましの言葉を残し、巣立っていった。この一言に全てが表れているように思う。
 先日、数名の卒業生に、現在の各自の生活を踏まえて、高校時代に部活動をしたことの意義を聞いてみた。
 「毎日部活動に明け暮れ、他のこと(級友との交流、学校行事への参加、勉強、家事、娯楽など)がほとんどできなかった。」、「試合や遠征のための旅費、小遣い、用具の購入費など親に金銭的負担をかけた。」などのマイナス面をあげながらも、「何にも替え難い良き友、良き先輩が得られた。」、「努力しだいで何でも可能性が開けることを身をもって体験できた(実生活に役立つだけでなく、自信にもなっている)。」、「毎日の厳しい練習に耐えることによって自分の体力・精神力に自信がついた。」、「縦の関係を通して、社会性が身についた(職場で生かせている)。指導性が身についた。母校とのつながりを維持できる。」、「試合をと通して数多くの人と接することができ、全国各地へ行けた。」などそれを上回る意義があったと語ってくれた。
できるだけ多くの生徒にこの体験をさせたい。これこそ今後の部活動を指導する上での目標である。
 もちろん、ここに述べたことは、部に入っていない者を批判したり、問題視しようとする性質のものではない。あくまで部活動をしている者、した者の側面から述べたものであることをお断わりしておきたい。
5.お わ り に
 あまり一貫性のない原稿になってしまった。また大会の記録では、華々しさばかり強調した感もある。しかし,20年の間には低迷期もあり、苦しい時も長かった。競技人口の少なさゆえに、全国大会にも、出場するのが当り前とされ、周囲の冷やかな目に悩み、筆者のみならず、部員全員が自暴自棄になることもあった。しかし、このような中で、このような中だからこそ、しだいに部員間の連帯意識が芽生えてきたのである。それのみか、全国大会へ出場するだけでなく、できれば全国制覇をという目的意識まで生まれてきた。今日のフェンシング部の伝統はこうして創り上げられてきたのである。卒業生諸君に感謝と敬意を表わしたい。
 一人の部員が3年間に苦悩し、試行錯誤しながら部活動を続けるのと同様、筆者にも、14年間は苦悩と試行錯誤の連続であった。もともとフェンシングは未知のスポーツであり、選手経験もなく、自ら技術的な指導ができるわけでもなかった。それにもかかわらず、末普及競技ゆえにいつの間にかずぶの素人が部の顧問のみならず、県・中国・全国高体連専門部さらには県協会の役員まで引き受けざるを得なくなっていったのだから、それこそ押して知るべしである。
 それでも現在までどうにか役務を果たせたのは、現役部員の真摯な部活動態度や卒業生のすばらしい人間的つながり、そして相顧問や県協会、高体連フェンシング部の多くの方々の支えがあったからである。一人一人の名をあげることはできないが、この場をかりて心から謝意を表わしたい。
 最後に昭和48年度卒業生森本伸治君(現在,日本原高校教諭)が寄せてくれた一文を
紹介し、終わりとしたい。

  全国大会への近道という単純な動機で始めたフェンシングもちょうど10年に
 なる。今ふり返れば10 年間続けられた源はやはり高校時代の3年間であろう。
 わずか、3年の間とはいえ、私にとって大きく分けて次の3段階あったように
 思われる。
  1.下積期(1年生)−全くゼロからのスタートなのですべてが上級生から学
   ぶことばかり、基礎基本練習の繰り返しで、もうやめてしまいたいという
   気持ちと、やりかけたことを途中で投げ出したくないという気持ちの葛藤
   の続く毎日。
  2.成長期(2年生)−下級生が出来たという喜び、1年間耐えてきたという自
   信、そして先輩に勝とうという意欲から最も練習に楽しみのわいてくる時
   期であった。しかし、反面、結果がかんばしくない時期でもあった。この
   期に、高校生としてのフェンシングのスケールがある程度決まるのではな
   いかと思われる。
  3.充実期(3年生)−最上級生になり、試合には勝たなければならないとい
   う使命感と、1年生の指導、さらに部全体のリードも義務づけられる。そ
   の責任の重さから精神的には非常に苦しい時であった。
   私のフェンシング歴において分岐点は、高校3年の夏であった。インター
  ハイを高校最後の大会と目標を定め、練習を続けたが、その直前の合宿で右
  足大腿部を痛め「ファンデブ」がほとんどできなくなった。本大会が始まっ
  ても治らず、痛いまま出場したが、攻撃しても届かず練習の成果を出せない
  まま、全く不本意な結果になってしまった。この大会が終わると、受験に力
  を注ぐためフェンシングからは一応身をひくつもりであったが、インターハ
  イの内容を考えると、今フェンシングをやめてしまうにはどうも忍びなか
  った。そこで「よし国体までやろう」と決意を新たにし、8月下旬のブロッ
  ク予選を当面の目棲として、練習をした。しかし、足は依然として治らず、
  今までのディスタンスイメージから攻撃したのでは相手を突くことはできな
  い。このままではインターハイの二の舞になってしまいそうであった。
   ところが何とか相手を突いてやろうと工夫しているうち、ファンデブが届
  かないのなら届く距離まで近づいて、短くてもコンパクトなファンデブをす
  ればよいことに気づいた。そのためにはよほど神経を集中し、用心しながら
  タイミングをよく見てファイトしなければならない。その中から私なりに、
  スキのない動き、相手をよく見るフェンシングというものがわかりかけて
  きた。こうして国体ブロック予選にも勝つことができ、国体出場の夢を果た
  せた。
   私はこの時の体験から、どんなに苦しいときでも、ハンディを背負ったと
  きでも決してあきらめず、何とかしようという気持ちでとりくめば必ず何か
  新しいことが体得できるということを学んだように思う。これはフェンシン
  グに限らず現在の私の生活の心の支えの1つとして今なお生き続けている。
 
 
   ※岡山県立西大寺高等学校「紀要」第2号 1981年に載せたものを、一部訂正した。                                 (2002年11月)