スリランカの旅
       2006年4月8日〜17日
 
旅 程
4月 8日(土)
  7:05岡山発(のぞみ62号)→7:51新大阪8:16(はるか6号)→関空着9:03
  11:15関空発(CX565)→13:15台北(※14:15)14:35→香港着16:02
  18:58香港発(CX703)→20:15(※22:15)バンコク20:58→23:36コロンボ着(※2:36)                      ※日本時間
                   ワッタラのパーム・ビレッジ・ホテル209号室泊
 
4月 9日(日)
 6:30モーニングコール 7:05朝食、海岸散策 8:00ホテル発→ニゴンボ→クルネーガラ→ダンブッラ→
 13:00アヌラーダプラ着(ランデヤ・ホテルで昼食)
 14:00アヌラーダプラの遺跡巡り(イスルムニア〜スリーマーハー〜ルワンウェリー・サーヤ・ストーパ〜トウーパーラーマ・ストーパ 〜ムーンストン〜アバヤギリ大塔〜サマーディ仏像〜クッタム・ポクナ〜ジェータワナ・ラーマヤ) 
 17:35ミヒンタレーの遺跡(僧坊跡〜アムバスタレー大塔〜インビテーション・ロック)
 19:00ミヒンタレー発20:05イナマルワ着
                   イナマルワのエデン・ガーデン・ホテル203号室泊
 
4月10日(月)
 6:00起床 7:05朝食 7:35ホテル発→8:00シーギリヤ着(チケット・チェック〜駐車場〜王の沐浴場〜 美女のフレスコ画〜ミラー・ウオール〜ライオンの入口〜ロック頂上〜駐車場…2時間40分)
 10:40シギリヤ発→11:40ハバラナ着(昼食)12:40ハバラナ発(野生の象と遭遇)→
 13:30ポロンナルワ着(木彫工房〜パラクラマ・サムドウ湖〜石立像〜ポトグル・ヴィーハラ〜宮殿跡〜
 クワドラングル〜ランコトゥ・ヴィハーラ〜ランカティラカ、キリ・ヴィハーラ〜ガル・ビィハーラ)18:00ポロンナルワ発→
 20:00イナマルワ着
                   イナマルワのエデン・ガーデン・ホテル205号室泊
 
4月11日(火)
 6:00起床 7:00朝食 8:35ホテル発→バティック工房→ダンブッラ石窟寺院11:30石窟寺院発→
 13:00マタルのスパイス・ガーデン(40分)→ 15:00キャンディ(昼食・1時間〜宝石店〜シルク店 〜17:50キャンディアン・ダンス〜19:10仏歯寺〜リカー・シュップ〜20:40ホテル着)
                   キャンディのスイス・リサイデンス・ホテル泊
 
4月12日(水)
 6:00起床 6:45日の出 7:10朝食 8:00ホテル発→レーク・ヴィユウ・ポイント→
 8:20ペーラーデニヤ植物園10:30→11:40ピンナワラ・象の孤児院13:30→
 16:30ラブーケリー・ティー・センター17:20→18:10ヌワラ・エリヤのホテル着(バザール、パブ等へ)
                   ヌワラ・エリヤのウインザー・ホテル310号室泊
 
4月13日(木)満月、シンハラとタミルの大晦日
 6:00起床 6:45ホテル周辺散策 7:30朝食 9:30ホテル発→ナノ・オヤ→セント・クリア、デボンの滝→
 ハットン→12:30キツルガラ(昼食)13:30→パドッカ→インギリヤ→ホラナ→アガラワッタ→アルトゥガマ→
 16:47インドゥルワ着(海岸散策〜19:35夕食)
                    インドゥルワ・リゾート322号室泊
 
4月14日(金)シンハラ、タミルの正月 ムスリムの金曜礼拝日
 5:50起床 7:40朝食 8:20〜10:15ビーチ 11:45ホテル発→
 12:05バラピティヤ(マードゥ・ガンガのラムサ、クルージング)12:45→ホテル→15:00ヒッカドゥワ(昼食)1540 →16:05ゴール17:45→アンバランゴダ(仮面の店)→19:25ホテル着(家から電話、ホテル前の電 話屋で盛り上がる)
                    インドゥルワ・リゾート322号室泊
 
4月15日(土)
 5:50起床 7:35朝食 8:15〜8:50ビーチ 9:35ホテル発(昨日より30分標準時変更され、 9:05に)→マッゴナ(ラーの採集)→カルタラ(カルタラ・ボディヤ)→13:40マウント・ラヴィニヤ(ビーチで昼 食、水浴)15:30→16:10コロンボ、フォートのホテル着(ゴール・フェイス・グリーン散策〜20:10夕食)
                    コロンボのガラダリ・ホテル302号室泊
 
4月16日(日)
 6:45起床 8:10朝食 10:00フォート散策 11:45チェックアウト 11:55ホテル発→ペター→独立記念館 →ラウバハーナ(国営の土産物屋)→ 国立博物館→16:20マウント・ラヴィニヤ(軽食、ビーチで過ご す)19:00→ゴール・フェイス・グリーン→20:30マクドナルド21:50→22:10コロンボ空港
 
4月17日(月)
 2:15コロンボ発(CX700)→バンコク(1時間余り機内で)→11:55香港着
 13:25香港発(CX2512)→17:50関西空港着
 18:16関西空港発(はるか46号)→19:08新大阪19:29(のぞみ46号)→20:14岡山着
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旅 日 記
4月 8日(土)
 睡眠不足か、疲れか、右目の奥から右肩にかけて痛む。時々おこる症状ではあるが、一日目から、きつい。医薬品は全て、預けたスーツケースの中。乗り継ぎの香港で、「虎標肌肉止痛膏」と「鎮痛剤」を買い、なんとか押さえる。
 直行便なら3時間ほどの関空〜香港間、台北経由のため6時間余りかかり、さらに香港での乗り継ぎに3時間近く待たされ、その上バンコク経由で、コロンボまで15時間以上の長旅に。バンコクでは機内に1時間余り閉じこめられる。
 関空〜台北はほぼ満席。台北〜香港間は空席目立つ。また、香港〜バンコク間はほぼ満席だったが、バンコク〜コロンボ間は搭乗率50%ほどに。どちらの便も経由地までの利用客が多い。
 離陸する度に、機内食が配られるため、4回頂くことに。
 飲んで、食って、眠る。たいくつな機内で、最も優れた過ごし方。
 ただし、キャセイパシフィックの各座席には、液晶のモニターがあり、豊富なメニューからビデオ、ゲームが楽しめるので退屈はしないが。
 機内で配布されたスリランカの入国カード、ガイドブックに載っているものとは異なり、記入項目も少し変わっていた。
 深夜にもかかわらずコロンボ空港は賑わっていた。入国審査カウンターとバゲージ・クレーム・エリアの間に免税店があるのも珍しい。バンコクで買う予定だったウイスキーが思わぬところで手に入る。機内預けの荷物が出てくるのに時間がかかり、到着ロビーに出た時には日にちが変わっていた。
 ロビーに並ぶ銀行のカウンターの一つで両替、1ルピーが約1.2円。
 出口には現地ガイドが名前を書いたプラカードを持って、迎えに来ていた。
 送迎の車や人で混雑した空港を後にしたのは、12時30分頃。
 ホテルはニゴンボと聞いていたが、40分ほどかかるという。空港からニゴンボだと10分もあれば着くはず。「近道もあるものですが、夜間は。万が一を考えて広い道を行きます」と。しかし、それにしても遠い。それもそのはず、ワッタラはニゴンボではない。
コロンボの北隣。ニゴンボというよりコロンボ。旅行社のホテルリスト、問題あり。
 1時過ぎ、やっとホテルに着いた。  
 
4月 9日(日)
 6時半にモーニングコールを頼んでいたが、その前に起床。朝食後、海岸に出る。砂浜の遙か彼方にコロンボの世界貿易センターのツインタワーが見える。砂浜の背後は、ホテルの名のとおり椰子林が延々と続く。朝日に輝く、インド洋を眺めていると、男が近寄ってきた。浜に引き上げられている丸太舟の前で、写真をとってくれと。「漁師だが、1年半前の津波で、網を流され、漁ができなくなった」という。丸太舟だけは浜に打ち上げられ無事だったらしい。近くに家族と住んでいるので来ないかと誘われたが、「時間がないので」と断った。津波を口実に、施しを求めている様子。
 8時、ガイドが迎えに来た。運転手を兼ねて16日まで同行してくれたサリさん。
 後部座席に手荷物を置き、助手席に座る。会話が進むし、質問もしやすい。
 ニゴンボ、クルネーガラ、ダンブッラを経由し、アヌラーダプラまで約250キロ。5時間余りかかる。ニゴンボ近郊には教会が多く、日曜礼拝で賑わっている。ポルトガル、オランダの植民地時代の名残か、都市部や南西海岸地域にはキリスト教徒も多く、仏教国とは言うものの宗教的には複雑。サリさんとの会話も宗教や民族の問題に。
 スリランカは人口2074万人、その81.9%を占めるのがほとんど仏教徒のシンハラ人、それにヒンズー教徒の多い9.4%のタミル人、イスラム教徒のムーア人8.0%からなる。シンハラ人やタミル人の中にはポルトガル、オランダの植民地時代以降、キリスト教に改宗した者も多く、人口の6.1%を占める。
 停戦中とはいえシンハラとタミルの対立はスリランカ最大の内政問題。シンハラの彼がどのような考えをもっているのか知りたかった。
 しかし、のっけからこの問題に立ち入るのははばかれた。
 幸い、彼の方から、宗教の話が出た。仏教徒である彼は、日頃からお寺参りによく行くそうだ。境内の清掃などもやっているらしい。キリスト像の側を通りすぎたとき、突然、「津波で、多くの犠牲者を出したのは、キリスト教徒だ」と言い出した。「えっ?」と問い返すと、「津波は、クリスマス明けに起こった」、「クリスマス明けで、キリスト教徒がたくさんビーチに出かけていた」と言う。仏教徒の犠牲者は少なかったと言う彼の横顔にこの国の複雑さを垣間見ることに。ヒンズー教徒、即ちタミルのことについては、「南部に住むタミルとシンハラの関係はよく、対立はない」と言う。問題は北部に住むタミルだと。彼らとの対立の歴史は古く、そして長い。「一朝一夕で解決する問題ではない」と言うのが彼の意見だ。
 宗教、民族のことは、この後も話題の中心に。
 海岸沿いに北上し、プッタラマからアヌラーダプラに向かうものと思っていたが、彼はニゴンボからクルネーガラに向かっていた。海岸から内陸に向かうにつれ、道の両側に水田が広がってきた。稲刈りの終わったばかりの水田が多い中で、一部では田植えも行われている。二期作どころか三期作もあると言う。
 朝から暑い。さすが熱帯。喉の渇きをココヤシの果汁で癒す。飲用に売られているのは黄色の果皮のヤシだ。こちらの方が旨いらしい。
 日本でも、最近、エコツーリズムとかグリーンツーリズムと言う言葉がよく使われるようになったが、欧米からの観光客の多いスリランカでは、すでにその種の観光客を積極的に受け入れている。ガイドの資格も区別されているらしい。トイレを借りに立ち寄った施設も、エコツーリズムを楽しむ観光客目当てのものだった。
 午後1時、アヌラーダプラ着。ランディオホテルで昼食。スリランカ風カレーセットと紅茶、ミネラルウォーター。
 スリランカ、7つの世界遺産の1つ、アヌラーダプラは、BC380年、パンドゥカーバヤ王によって、シンハラ王朝の都とされ、タミルの侵略により10世紀に放棄されるまで、1400年余り続いた。
 昼食後、遺跡巡りに。
 遺跡群の南端にあるイスルムニヤ精舎から。拝観料は100ルピー。入口で靴を脱がなくてはならない。砂利の撒かれた境内は裸足で歩くにはあまりに暑い。芝のあるところまで走る。岩山に掘られた本堂までの階段も強い日差しに焼かれ、まるで火渡りでもしているようだ。BC3世紀に建てられた僧院の一部を残し、修復された寺院とか。大きな岩山を穿って造られた御堂を覗く。釈迦三尊像には白い蓮の花が供えられている。御堂の右手には沐浴場として利用されたのか堀がある。堀に面した岩壁に笑い顔の象や神像が浮き彫りされている。左には本堂があり、大きな涅槃像が安置されている。本堂の横にある宝物館にはパンフレットやガイドブックでお馴染みの、石板に彫られた、「恋人の像」や「王族の像」が展示されている。
 焼けた岩肌に恐れをなし、眺望のよいという御堂のある岩山に登るのは諦める。
 サリさんは考古学博物館の横に車を止め、文化三角地帯(アヌラーダプラ、ポロンナルワ、キャンディを結ぶ遺跡群)周遊券を買いに。40ドルとはかなりの高額。遺跡などの入場料はスリランカ人と外国人は別料金。その差は10倍から20倍。中国、インド、ネパール等、多くの国で行われているが、余りの格差。「所得が違う」のだから、「維持・修理に費用がかかる」からと、それぞれ言い分もわかるが、物価に比べ異常ともいえる金額。
 ルワンウェリ・サーヤ大塔近くに駐車し、礎石や石柱の残る遺跡の中をスリー・マハー菩提樹に向かって歩く。木立にはサルの群れ。餌付けされたニホンザルとは違い、狂暴なサルはいない。ただゴミ箱をあさるサルに、野生とはいえ、自然界とは異質な生態を見る。
 スリー・マハ菩提樹は、BC3世紀、釈迦が悟りを開いた有名なブッダガヤの菩提樹の分け木を、それもアショカ王の王女がこの地に運んだものだそうだ。と言うことは、樹齢2300年余。勿論、ブッダガヤに、その菩提樹は残っていない。由緒正しい唯一の樹である。菩提樹は白く塗られた石壁で保護され、祭壇が設けられている。赤ん坊を抱いた家族連れが目立つ。聞くと、日本の宮参りと同じような、寺参りの習慣があるらしい。
 隣接する寺院の本尊に手を合わせる。
 境内では満月をひかえ、飾り付けが行われていた。
 ルワンウェリ・サーヤ大塔は高さ55メートルもある。BC2世紀、ドゥッタガーマニー王の時代からその王子サッダーティッサの時代にかけて建造された。当時は倍の110メートルあったと言う。周囲を囲む石壁には、塔を護るように、等身大の象のレリーフが何十頭も。大塔右手の仏堂に入っていると、仏教関係者か、数人の日本人グループがやってきた。仏堂の影で一人の老僧が瞑想に入ろうとしていた。声をかけてくれるなと。
 足の裏が焼けるのも我慢し、大塔を時計回りに一周する。
 釈迦の右鎖骨が納められているというアヌラーダプラ最古の仏塔トゥーパーラーマ・ダーパカ、王妃の宮殿跡に残るムーンストーン、かつての大乗仏教総本山アバヤギリ大塔、4世紀の作という瞑想する釈迦の石像サマーディ仏像、修行僧たちの沐浴場クッタム・ボクナ、現在修復中の高さ70メートルもある大塔ジェータワナ・ラーマヤと巡る。
 ムーンストーンは、寺院や仏塔、建物の入口に置かれた半円形(例外的に長方形のものもある)の踏み石で、王妃の宮殿跡に残るものは、外側から炎、ゾウ、馬、ライオン、牛、花、鳥、蓮の花が彫られている。これらが意味するものは人間の誕生から死、即ち輪廻。 サマーディ仏像は見る方向によって表情が異なる。柔和に見えたり、厳しく見えたり。微笑みを浮かべた表情が一番。
 修復中のジェータワナ・ラーマヤ、修復と言うより新築。遺跡保存の視点からは?マーク。しかし、今も信仰の対象としている人々にとっては別の思いが。
 アヌラーダプラ遺跡の見学、4時間余り、少し時間をかけすぎたか。
 急いでミヒンタレーに。
 ミヒンタレーは紀元前3世紀、スリランカに仏教か伝えられた地とされている。アシュカ王の子、マヒンダによって。ミヒンタレーと言う地名はマヒンダにちなむ。
 アーユルヴェーダが行われた人型の浴槽の残る古代病院跡により、仏教伝来の聖地に。丘を大きく迂回し、僧院の食堂跡前まで、車で。そこから石段を登り、アムバスタレー大塔、マヒンダが瞑想していた岩山、インビテーション・ロックへ。
 陽も西に傾き、地面・岩面の温度も少し下がり、裸足でもなんとか凌げるように。岩山には地元のアシスタント・ガイド、クマラさんが。旅行社を起ち上げようとしているサリさん、あちこちに顔つなぎしている様子。
 クマラさんは28歳。10歳と8歳の子持ち。
 足のすくむような岩山の頂上は、10数人が立てるほどのスペース。しかし、眺望はすばらしい。幼児を抱いた家族連れも登ってくるが、危なかしい。
 マハー・サーヤ大塔の右に、夕日が沈み始める。オレンジ色に空が染まり、見飽きることがない。逆方向のジャングルに、聖地の丘が影を落とす。
 マヒンダが瞑想していたと言う岩の割れ目に座す。
 7時前、薄暗くなり始めたミヒンタレーを発つ。
 激しい雷雨の中、20時過ぎ、イナマルワのホテルに着く。
 夕食は魚の唐揚げとカレーセット。サリさんとライオンビールで寛ぐ。
   
4月10日(月)
 今日は、美女のフレスコ画で有名なシーギリヤと10〜12世紀にシンハラ王朝の都だったポロンナルワへ。シーギリヤ・ロックはインビテーション・ロックとは比較にならぬ岩山。覚悟して登ることに。
 昨日一日で、日中の暑さは身に滲みた。登頂は午前中に。
 7時過ぎ、朝食。紅茶、トースト、フルーツ(バナナ、パイナップル、パパイヤがお決まり)。
 7時35分、ホテルを発つ。開門の8時丁度、シーギリヤのチケット・オフィス着。
 ジャングルの中に突如現れる巨大な岩山、シーギリヤ・ロック。ゴンドワナランドの一部を占めていたスリランカには、長年の侵食によって形成された多様な地形が見られる。この岩山も明らかにモナドノック(残丘)。この岩山に宮殿が造られたのは5世紀末。カーシャパ王によってだ。父子、兄弟の王位継承を巡る争いからだと言う。アヌラーダプラの王ダートゥセーナの子、カーシャパは、父王を監禁、殺害し、王位を奪った。腹違いの弟モッガラーナはインドに亡命。カーシャパは弟の復讐から逃れるため難攻不落の王宮を岩山の頂に造った。しかし、難攻不落と思われた王宮での治世も、わずか11年で終わった。インドから帰ってきたモッガラーナとの戦いに敗れ、カーシャパは自害した。その後、モッガラーナは都をアヌラーダプラに戻し、シーギリヤは僧侶に寄進された。
 狂気王とはいえ、たった11年の治世で、とんでもないものを造った。ただただ驚嘆。
 岩山を中心に、北東−南西約1500m、北西−南東約800m。城壁を巡らし、正面、南西側の城壁に沿ってコの字に堀が掘られている。
 駐車場に車を止め、城壁内部の遺跡を巡る。王の沐浴場、乾季宮殿、象岩の側を抜け、いよいよ岩登り。そそり立つ岩壁に、垂直に螺旋階段が設けられている。円筒状の金網がなければ、敬遠したい。それでも下を見ると目がくらむ。やっとの思いで登り切ると、18人の美女が待っていた。1500年余り前のものとは思えない鮮やかな色彩。かつては500人以上の美女が描かれていたというが。
 写真を撮っていると、奥の方で見張っていた男が手招きする。どうやら、金網で仕切られた奥にもフレスコ画があるようだ。黒人やモンゴロイド系の女性が描かれた一角に入れてくれた。これらも撮せと勧める。後から上がってきた観光客が入ろうとすると、「ノー」と、仕切りを閉じてしまった。サリさんに言わせると、彼らの好意。チップを50ルピー
あげてくれと。???でも得した気分に。
 フレスコ画の下、岩山のほぼ真ん中に造られた回廊を縁取る高さ3m余りの壁は、ミラー・ウオールと呼ばれている。磨き上げられた壁の表面は、まるで鏡のように光を反射し、シーギリヤ・ロックのアクセントにもなっている。
 ライオンの入口から岩山を見ると、垂直の断崖。それどころか庇のような出っ張りさえある。シーギリヤの語源はシンハ・ギリヤ、即ち「ライオンの喉」。入口の階段両側にライオンの足爪が残っているが、以前は、大きく口を開いたライオンの頭部があり、その口の部分が階段になっていた。まさに宮殿入り口はライオンの喉にあった。
 今は鉄製の階段と手すりがつけられているとはいえ、余りにも狭く、急な階段。しかも、次第に観光客が増え、人の列ができ始めている。意を決し、登り始める。岩肌に、かつての石段が残っているが、ロッククライマーでなければ登れないような代物。それでも、息を切らしながらなんとか登り切った。
 雨水を溜めていた水槽跡、宮殿跡、王のプール、ダンス場を見下ろす岩を削った王の椅子など一回り。何より眺望を楽しむ。王のプールには水が張られ、小魚が放たれ、睡蓮が植えられている。聞くところによると、これは最近のことらしい。崩れかけた赤煉瓦を補習する人の姿も見られ、世界遺産の保存と押し寄せる観光客に対する配慮が垣間見える。
 下り道は、ライオンの入口から、別ルートになる。
 右手に投石場の跡を見ながら階段を下る。三歳の男の子を連れて登ってきた親子としばらく一緒に。
 大岩を削って造られた会議場跡や王の休息場・僧の瞑想場であったという岩の窪み(ところどころに彩色された壁画の一部が残っている)、コブラの形をした岩の側を通り、10時40分、駐車場に戻る。
 サリさんは、ロックを左回りし、裏側からのロックを見せようと思ったようだが、道路工事をしており、回れず、引き返し、チケット・オフィス前を抜け、ロックの北側に。昼食を予定しているハバラナへの近道らしいが、彼も初めて通る由。道を聞きながら走る。しばらく悪路。岩がゴロゴロした荒れ地。森林を切り開いてもこんなに岩だらけだと耕地にするのは大変だ。この辺りは保護区に指定され、野生の象も多いそうだ。A11号線に合流して間もなく、それは現実のものとなった。1頭のはぐれ象が、森から出てきていた。車を止め、写真を撮ったが、サリさんは緊張している。はぐれ象は襲ってくることがあるからだ。
 ハバラナのホテル・レストランで昼食。広々としたフロアーに客一人。カレーを中心にしたスリランカ料理の皿が並ぶ。それぞれ2,3口頂いて、満腹。
 ハバラナからポロンナルワへはA11号線を走る。象はまだ居た。
 ミンネリヤには軍の施設がある。正月の休暇を故郷で過ごす兵士が、大勢バスを待っている。ミンネリヤ池に面した小さな公園に10m余りのまだ新しい仏像が建てられている。スリランカでは至る所に大小の仏像が祀られている。しかも最近建立されたものが多い。ヒンドゥの神を祀る祠やキリスト像もあちこちに見られ、互いに競い合っている。しかしそれらが傷つけられている様子はない。解け合い、共存している様は、シンハラとタミルの血なまぐさい対立を想像できない。
 いかにも観光コースに入っているらしき木彫り工房兼ショップに立ち寄る。日本人の木彫り職人がいるそうだが、この日はいなかった。
 正月休みで工房は人気がない。紫檀、黒檀などの原木が置かれ、仏像や仮面、家具など並べられた作業所と店内を一回りした。日本のお寺に納品するというほぼ完成した仏像も置かれていた。小さな涅槃仏と座仏を買う。一般の土産物屋で売られているのは機械彫り、ここは手彫りというのが売りであったが。
 古都ポロンナルワの見学は巨大な貯水池パラークラマ・サムドラから。雨の少ない島の北東部はドライゾーンと呼ばれ、歴代のシンハラ王は、この地に多くの貯水池と水路を造った。この巨大な貯水池も、12世紀、パラークラマ・バーフT世によって造られたもの。
 長い堤の上の道路を走り、パラークラマ・バーフT世の像とも言われる石立像を眺め、その向かいにある図書館の遺跡ポトグル・ブィハーラへ。石積みの上にあるドーム状の建物の周りには小さな仏塔があり、言われなければ、それが図書館とは分からない。
 園内に大きな蟻塚あり。
 つづいて向かったのは、パラークラマ・バーフT世の宮殿跡。巨大な宮殿の一部が残る。厚いレンガの壁と柱。かつて7階建てだったとか。今は3階部分までしか残ってないが。閣議場の跡とされるのは石積みの礎台と石柱列。礎台の周囲に彫られた象や人物の表情が面白い。テラコッタ枠の井戸やニッサンカ・マーラ王子の沐浴場などを見て回る。
 宮殿から5、600m北にあるクワドラングルに移動。その名のとおり四角形の城壁で囲まれた遺跡で、かつての仏歯寺の跡。11世紀にウィジャヤバーフT世によって建てられたアタダーゲ、12世紀にニッサンカ・マーラ王によって建てられたハタダーゲと2つの仏歯寺の跡が残る。トゥーパーラーマ(仏堂)、ワタダーゲ(仏塔)、サトゥマハル・プラサーダ(タイ風の7階建ての塔)、涅槃仏の跡、ガルポタ(石碑)、多くの石仏など見るべきものが多い。
 急に大粒の雨。建物に入る度に素足になるため靴はどろどろに。裸足で歩くことに。通り雨のことをスリランカでも「キツネの嫁入り」と言うそうだ。
 車で2qあまり北に走る。左手に直径、高さともに55mの大塔。金の尖塔をもつランコトゥ・ヴィハーラ。今は金で覆われてはいないが。一回りし、さらに北の寺院跡、ランカティラカへ。正面に頭部のない大仏立像があり、壁画の一部が残る。隣接する白い塔(キリ・ヴィハーラ)との間を抜け、最近、発掘されたという背後(西側)の建物遺跡へ。長方形のムーンストンやシャワー、トイレの残る建物もある。
 一度、車に戻り、キリ・ヴィハーラの北側駐車場に移動。裸足のまま、池の側から座像、立像、涅槃像の石仏で知られたガル・ヴィハーラへ。仏像の前で記念撮影をしていた観光客が大声で怒鳴られている。ここでは仏像は信仰の対象。仏像に尻を向け、一緒に撮ろうとは、余りにも不謹慎というわけである。観光客のこうした行為から、一時撮影禁止にした寺院や遺跡もあるという。
 また雨が降り出した。
 気がつけば6時半。薄暗くなりはじめたポロンナネワを発ちイナマルワのホテルに。途中で2度、家に電話試みるがかからず。サリさんのプリペード式携帯で繋がる。
 激しい雷雨の中、8時前、ホテルに。シャワーを浴びて夕食(チキングリル、野菜スープ、アイスクリーム、ライオンビール)。
 
4月11日(火)
 6時前に起床。荷物、メモの整理。
 7時半から朝食(フルーツ、トースト、コーヒー)。
 食後、周辺散策。シーギリヤ・ロード沿いにバティック工房兼ショップあり。
 8時35分、ホテル発つ。
 ホテルから車で数分、サリさん行きつけのバティック工房兼ショップに。今日はマホメット生誕日で休みとは言っていたが、観光客目当ての工房は営業中。蝋纈染めの工程を見せ、コースの最後はショップで買い気を起こさせる手である。お付き合いにハンカチ2枚買う。
 ガソリンスタンドにより満タンに。1リットル82ルピー。約100円。
 ダンブッラの街を抜け、石窟寺院に。正月をひかえ、動きが活発。ウキウキとした顔つき。街中は買い物客で混雑している。
 黄金の大仏(真新しいもので、一階部分は博物館)横の駐車場に車を止め、岩山の上の石窟寺院に。山頂まで石段がつづく。20分ほどで寺院。途中、アンティークや木彫り、Tシャツなど抱えた売り子がつきまとう。
 展望が開け、シーギリヤ・ロックまではっきりと。
 靴を預け、裸足で寺門をくぐる。
 庇のようにせり出した岩の下に石窟が並ぶ。手前から奥に向かって第1窟から第5窟まで。古い順に。最初に寺院が造られたのは紀元前1世紀と言われるが、現存する壁画や仏像の多くは17世紀以降のものらしい。第5窟は1915年に造られたとか。しかし、信仰の対象である仏像や壁画は、古くなれば修復されたり描き直されたりする。新しく見える仏像や壁画の中には、途方もなく古いものが混ざっているかも知れない。
 天井までびっしりと描かれた壁画と無数の仏像に圧倒される。
 第4窟を拝観したところで、おつとめの時間に。10時半から15分間、石窟の入口は閉ざされる。ここは遺跡ではない。今も聖なる祈りの場。新たに第6窟、第7窟が造られても不思議でない。
 仏教徒らしからぬ仏教徒だが、最近では、仏前に立つと、自然に合掌するようになった。宗教は異なっても、信仰の対象となっているものに対し、不遜な態度をとることは許されない。以前、仏像の手のひらに座って写真を撮った観光客がおり、寺院内での撮影が禁止されていたそうだ。宗教対立から破壊や殺戮が今なお残る世の中ではあるが、信じるものの違いを認め合うこと、平和の大前提。
 15分待って、第5窟を拝観し、再び第3窟、第2窟、第1窟とまわる。
 小さな池の睡蓮の花に心が和む。
 11時半、駐車場。
 マータレーまで1時間半。途中、地元では「乳房」と呼ばれている山の麓で、ココナッツ・ジュースを飲む。さっぱりとした果汁は喉に心地よい。
 マータレーも買い物客でごった返していた。大きなヒンドゥー寺院がやけに目立つ。モスクもあり、タミル人とムーア人が多い町らしい。
 町はずれのスパイス園に立ち寄る。胡椒や丁字、シナモン、ナツメグ、カカオ、コーヒー等々、珍しい植物が植えられている。要するに、スパイス材を見せる植物園だ。隣接するショップで販売するシステムは、バティック工房と同じ。
 観光客に人気なのはアーユルヴェーダに使う植物エキス。
 キャンディは大渋滞。15時、やっと昼食予定のレストランに。
 4階ベランダ席で。眺望もよい。直ぐ下にコロンボに向かう鉄道。
 魚のグリル野菜添え、フルーツ、紅茶に満足。
 近くの宝石店、シルクショップで時間をつぶし、17時50分、仏歯寺に隣接するキャンディ芸術協会のカルチュラル・ホールへ。1時間余り、キャンディアン・ダンス・ショーを楽しむ。観光客でほぼ満席のホール。ツアーなのか中国人が多い。悪魔払いの仮面の踊り、曲芸のようなファイヤー・ダンス。ドラムと優雅な女性の舞。すっかり堪能。
 19時から行われるブージャー(仏歯部屋の開扉)に合わせ仏歯寺に。ライトアップされた寺内は仏歯を拝観する人で大混雑。仏歯は仏塔型をした七重の豪華な箱に納められており、拝観できるのはその箱。少しでも接近して御加護を求めようとする人々で開扉前から階下まで行列ができている。部屋に入るのは諦め、頭越しに拝礼、合掌。
 1時間余り、境内を拝観。
 リカーショップでキングス・ビールとラー(やし酒)、ソーダ水を買い、20時40分、スイス・リサイデンス・ホテル着。
 シャワーを浴び、21時20分、やっと夕食に。春巻きにポーク。フルーツは常にパパイヤ、パイン、バナナ。
 
4月12日(水)
 6時前起床。6時45分、日の出。犬の遠吠え、耳障り。
 7時10分、朝食。バイキング(フルーツ、パン、コーヒー、ソーセージ等)。
 8時、ホテル発つ。
 仏歯寺の対岸のレイクビューポイントに行くよう頼む。サリさん、困惑気味。会社からその場所には行かないよう指示が出ているとのこと。ビューポイントと言っても道路脇からの眺め。私有地でもない場所。不可解な指示。どうやらビューポイント近くのレストランとトラブルがあったようだ。事情は分からぬが、ガイドブックにも載っている所に、連れて行くなとは。彼は一瞬ためらったが、車をUターンさせた。
 眼下に、朝霧が残るキャンディ湖、対岸の仏歯寺やキャンディの街並みも霞んでいる。緑の山々に囲まれた古都キャンディ。霞かかった風景も趣がある。山の中腹に一泊したホテルも見える。
 ローヤル公園沿いに野菜や果物を積み上げた露店が並んでいた。一寸止まって写真を撮る。
 ペーラーデニヤ植物園では2時間余り散策。マハウェリ河が大きく蛇行した滑走斜面に造られた植物園。面積は5.6平方キロ。広大な植物園だ。ジャックフルーツの大木、いろいろなスパイス樹、ランの温室、ブーゲンビリアやハイビスカスなど熱帯の花の咲き乱れるフラワー・ガーデン。まるでジャングルのような林を抜けると、広い芝生の中にコマーシャル・ソングに出てくる大木が。「この木何の木、気になる木…」、日立のコマーシャルでお馴染みの大ジャワ・ビンロー樹だ。セイロン島の形をした池の周りはペーラーデニヤ大学生の憩いの場。アベックが目立つ。竹林やヤシ園を回る。芝生で野生の九官鳥が餌を啄んでいる。園内で作業をしていた男が2人、近寄ってきて、大きなサソリを差し出す。持って帰るわけにもいかず、お断りする。
 マハウェリ河で河砂を採集している筏あり。しばらく眺めていた。
 サリさんが指さす巨木の樹冠近くに、無数にぶら下がっているのは、オオコウモリ。
 世界の著名人が植樹している記念樹園を抜け散策を終える。
 10時半、植物園から次の目的地ピンナワラの象の孤児園に。キャンディの西約30q、キャーガッラの郊外にある。コロンボに向かう国道A1を1時間余り。
 車を止め、土産物店の並ぶ道を2、30m歩くと、川縁にレストランがあり、白人観光客がテラスに群がっている。岩と石ころだらけの川に象の群れ。1日2回行われている水浴びだ。4、50頭の象が水浴びしている姿は壮観だ。水浴びを終えた象が園に帰り始めると観光客は一斉に道路沿いに集まる。記念撮影をする者や身体に触る者。象使いも大サービス。子ども連れには最高。ビールを飲みながら観察させてもらった。
 昼食は、このレストランで、バイキング。
 食後、孤児園に。水浴びを終えた象たちは、広い園内に放されている。子象にミルクをやる時間だと、入園者が集まっている。親を亡くしたり、親からはぐれ保護された子象たち。まだ乳離れしていない子象も多い。一升瓶のような哺乳瓶でミルクを与える様子を見せるのも、この施設の目玉。
 13時半、ピンナワラ発。A1をキャンディに引き返す。途中、道路沿いの果物屋で赤バナナを買う。アボカドを売る露店が目立つ。
 キャンディからA5に入り、ヌワラ・エリヤに向かう。海抜高度が上がるにつれ茶畑が増える。かつてイギリス人が経営していたエステートの名はそのままに、今は国営になったものが多い。山の斜面に見られるエステート労働者の家屋。家の周りには段々畑。最近、ネギやカブ、キャベツなど涼しい気候を利用し、野菜の栽培が盛んとか。道路沿いに直販店があり、通りがかりの車が止まって、安くて新鮮な野菜を買い求める風景はいずこも同じ。
 16時30分、予定より1時間早く、ヌワラ・エリヤ郊外の茶園、ラブーケリー・ティー・センター着。早速、見晴らしのよい野外のテーブルで、セイロン・ティーを。
 「写真を一緒に撮らせてください」。日本人が珍しいのかタミル系の女学生。ジャフナから研修旅行でやって来た師範学校の学生たち。ジャフナといえば、LTTE(タミル解放のトラ)の拠点。シンハリ系の学生が研修旅行で出かけることなどとてもできないはず。しかし、逆はある。この辺りのエステートで働く人の多くもタミル。複雑なスリランカの状況を垣間見る思い。
 製茶工場を見学。摘み取られた茶葉を発酵させ、乾燥した物が紅茶。製造工程は単純。細かく選別され等級が決められているが、日本では考えられないほど安い。売店で、土産用に買ったが、日本での売価の1/5以下。
 18時10分、ヌワラ・エリヤの中心にあるウインザー・ホテル着。
 早速、街へ。4月は各種イベントが開催される特別の月とか。それに正月が重なり大混雑。インド洋の幸の並ぶ魚屋、スパイスの溢れる香料屋、トロピカルフルーツが珍しい果物屋。バザールは楽しい。広い通りの両側にはテント張りの露店が。
 ヌワラ・エリヤで最も古い建物という郵便局(1828年建立)に立ち寄り、切手を買う。応対してくれたポスト・マスターとはすっかりうち解け、帰国後、手紙の交換をした。
 バスターミナル近くの露店で、パッションフルーツなど買う。
 ローソン通り沿いのライオン・パブで、生ビール。うまい。ついつい3杯。つまみのソーセージも含め、2人で560ルピー。安い。9時までしゃべっていた。
 ホテルに戻り、夕食。ビール腹で、折角の、魚のグリル野菜添えとトマトスープ、半分残す。
 シャワーを浴び、FMを聞きながら11時20分、就寝。
 
4月13日(木)
 6時過ぎ、起床。
 6時45分〜7時30分、街中散策。
 昨夜の賑わいで、ゴミが散乱。異臭のするパブ付近。
 露店はまだほとんど閉まっている。テントの中で人の気配。泊まり込みでの営業か。
 バスターミナルは早朝から活気が。
 海抜2000m余りの高原地帯に位置したヌワラ・エリヤの朝は肌寒いほど涼しい。朝もやのかかった林の隙間に朝日が昇る。
 ビクトリア・パークのはずれ、戦争記念碑のあるロータリーの先まで行き、折り返す。 ホテルに戻ると玄関先にサリさんが。
 一緒に朝食。
 今日の行程を確認。ガイドとドライバーの関係。ガイド仲間のこと。ガイドの資格。客とのトラブル。同じ日本人として、恥ずかしくなるような、「旅の恥はかきすて」女性の話。いろいろと本音が。弟は日本人と結婚し、神奈川県に住んでいることも。来月、日本に行く予定についても話す。
 9時半、荷物を持って階下に。
 今日は、インド洋に面したインドゥルワまで230q移動する。
 A7号線(コロンボ〜ヌワラ・エリヤ)を西に向かう。しばらくは1000mを越える高原地帯。傾斜地は全て茶畑。ヌワラ・エリヤのゲートで記念写真。ナーヌ・オヤ駅を見下ろす街道沿いには高原野菜を積んだ直販店が並ぶ。サリさんは赤カブ、ジャガイモ、ネギ、ニンジン、レタスなど7種類の野菜を買った。200ルピーだったそうだ。新鮮で、安いと喜んでいた。名の知れた(とサリさんは言う)エステートが続く。踏切の遮断機が降り、5分ほど待たされる。デッキまで乗客で溢れた気動車がゆっくりやって来た。
 セント・クリアとデホンの滝が眺望できるビューポイントで車を止める。タミルの少年が3人、小声で「ワンルピー」。身なりから物乞いをするような生活とは思えない。観光客目当ての小遣い稼ぎ。しつこさはない。シンハリのサリさんにはほとんど言葉が通じないとか。同じ国民でありながら意思疎通ができない現状を知る。
 今日は、日本で言うなら「大晦日」。普段なら茶摘みがあちこちで見られるはずだが、全く見られない。ハットン(hat onから付けられた地名)の先で、茶摘みをしている一団を見る。斜面のかなり上。側までは登れそうもない。望遠レンズで撮す。
 道沿いにカポックの木が実を付けている。中にはすでに弾けて白い繊維をむき出しにしているものもある。授業で教えてきたカポックの実物を初めて見た。
 12時30分〜13時30分、ケラニ・ガンガの畔、ケツルガラのレストランで昼食。
 気温が上がり、植生もかなり変わってきた。
 いつの間にか茶畑は姿を消し、ゴム園が現れ始める。
 マハラガマ〜アルトゥガマ間、内陸低地はほとんどゴム園。ゴム園で働くタミル人が牽く山車に会う。正月を前にした祭りか。
 16時47分、予定よりかなり早くホテル着。リゾートホテルらしい明るい部屋。322号室。早速、洗濯。
 17時30分〜19時、海岸散策。韓国人の家族連れ団体客、賑やか。
 18時47分、日没。
 19時35分、夕食。バイキング。
 部屋で、満月を眺めつつ、ウィスキーの水割りをチビチビと。
 21時、早々就寝。
 
4月14日(金)
 スリランカの正月。
 早く、床についたためか、何度も目覚める。その度にベランダで満月に照らされたインド洋の白波を眺める。
 6時、起床。ベランダに出る。まだ薄暗い。波の音、カラスの鳴き声、どこからか響く水上飛行機の音。
 7時25分、砂浜にやわらかい朝の光差し込む。
 テレビでは、ヌワラ・エリヤからの中継を。正月番組。
 朝食後、水着に着替え浜に出る。
 久しぶりの海水の感触。砂浜に寝そべり甲羅干し。カニの目線で見るインド洋、ヤシの林。リラックス、リラックス。
 11時45分、約束通りロビーに。サリさん待ちくたびれた様子。10時半に部屋をノックしたとか。ベランダに出ていたときか。昨夜はコロンボの自宅に帰っていたサリさん。「ごゆっくり」と言っておいたのだが。
 バラピティヤでラグーン・クルーズ。一人のため、割高料金ではあったが乗船。
 マングローブの生い茂る湖岸。岸に寝そべるオオトカゲ、美しい羽のカワセミ、あちこちに仕掛けられた梁。シナモンの島に立ち寄り、シナモンの皮剥・乾燥の様子を見る。老夫婦が観光客相手に見せている。
 コブラの島もある。コブラが生息していると言う。
 ラグーンに浮かぶ島の一つに古刹あり。ここに住む僧侶は托鉢に出られないため、上座部仏教のお寺には珍しく、庫裏がある。寄進帳を出され、100ルピー寄進。
 普段なら梁で働く漁師がいるはずだが、正月早々働く者はいない。
 1時間半ばかりのクルーズ。
 ビデオ・カメラを取りにホテルに戻る。30分余りのロス。
 15時、ヒッカドゥワの「リフレッシュ・レストラン」で遅い昼食。
 スマトラ沖地震による津波の跡があちこちに。波間にウミガメが何匹も浮かんでいる。 16時過ぎ、目的地ゴールに。世界遺産に指定されているゴール。新市街地は津波に洗われ多くの犠牲者を出した。バス・ターミナルを襲う津波の映像、目に焼き付いている。そのバス・ターミナルを抜け、城壁に囲まれた旧市街地に入る。
 NHKの「探検ロマン世界遺産」で放映されて間もないため、興味は尽きない。
 時計塔の前に車を止め、城壁の上を歩く。東端、サン要塞の下には小さな漁港が、対岸には最近建てられたという仏塔が見える。その間は弧状の入り江、ゴール港。湾頭に位置した低地、バスターミナル付近が津波の被害を受けやすいのは一目瞭然。折り返し、ムーン要塞に上がり、西端のスター要塞に。囚人を押し込めていたという部屋を覗く。
 一度、旧市街地に入り、時計逆回りで、城壁沿いに走り、岬の最南端に。海面から15m以上積み上げた城壁により、津波の被害を受けずにすんだ世界遺産ゴール旧市街。実感できる場所だ。青く澄んだインド洋を眺め、灯台まで歩く。灯台の下のビーチは地元の人たちが海水浴を楽しんでいる。ポルトガル、オランダ、イギリスと宗主国は変わったが、常に植民地支配の要衝となってきたゴール。今もその名残が随所に。
 キリスト教徒とイスラム教徒が多いと言う旧市街。金曜日はイスラム教徒にとって大切な日。今日は、仏教徒、ヒンドゥー教徒にとっては正月。その上、満月は仏教徒にとっては祈りの日。全てが重なった祈りと喜びの日。おかげで博物館をはじめ公共施設は全てお休み。店もほとんど閉まっている。人通りは少なく、モスクに来るよう呼びかける声がスピーカーから流れていた。
 17時45分、VOC(オランダ東インド会社)の刻まれたオールド・ゲートをくぐり、帰途に。
 アンバランコダの仮面の店に立ち寄る。
 18時47分、インド洋を染めながら日が沈む、ラグーンを挟んだ砂州のヤシ林がシルエットになり感動的。刻々と変わる空と海の色。言葉で言い表せない美しさと思い。
 19時25分、ホテルに戻る。
 このホテルは、ガイドの宿泊できず、宿泊客以外はレストランやバーにも入れないとか。やむを得ず近くのレストランでと探すが、今日はどこも休み。
 部屋に戻るとボーイが、「奥さんから電話がかかっています」と。受話器を取るが通じず。フロントに行くと、「何度も電話がありました」とのこと。何事かと直ぐ家に電話をかけるが、またもや繋がらず。サリさん、プリペードカードを求めて走り回り、20分後、やっと彼の携帯で。帰国後に対応できることで一安心。
 再び、一緒に食事できるところを求めて走り回るが、ない。
 彼がプリペードカードを買ったというLTDの若者が一緒になって探してくれるが、手に入ったのはアラック(ヤシの蒸留酒)1本。若者が経営するLTDの土間で、車座になり、即席の宴会を始める。部屋に戻り、飲みかけのウイスキーと食べかけのつまみを持ってきた。若者は夜食に用意していたチキンなど出す。サリさん、私、LTDの若者と従業員の若者の4人で始めた宴会に、いつの間にかホテルの従業員2人が加わり、盛り上がる。気がつくと23時前。楽しい宴であった。
 
4月15日(土)
 二日酔い。軽い頭痛。6時前に起きる。月はヤシの間まで沈んでいた。
 7時35分、朝食。
 食後、30分余り、朝風呂代わりに、インド洋に浸かる。無人のビーチに一人。爽快。
やがて三々五々、ホテルから水着の男女が出てきた。水際で貝殻を拾い、引き上げる。
 9時30分、荷物を持ってロビーに。冷蔵庫の確認には、部屋を出るなりやって来た客室係。大荷物を運ぶ客に見向きもしない。レストランの接客も、客の顔を見てやっている様子ありありだった。ゲスト・ブックに感想をと差し出すフロント係の厚顔さ。「No Good」。経営者の顔が見たいホテルだった。
 早々、おさらばだ。
 なんと、正月からサマータイムとは逆の通達があったとか。時計を30分戻す。何か得した気分に。9時35分を9時5分に戻して出発。
 公道を使って、自転車レース。そこのけ、そこのけと先導するスピーカー付き自動車。 ベールワラでヤシ酒(ラー)の採集を見る。ココヤシの花の部分を切って、壷をくくりつけ、壷に溜まったラーを集めてまわる単純な作業だが、高いヤシの樹上での作業。軽業師のごとく、隣の木に飛び移りながらラーを集め、容器が一杯になると下で待ち受ける老人にロープで降ろす。集めたラーはアラック工場に持って行くそうで、ラーのまま口にすることはないそうだ。というよりラーは痛みやすく、採集して直ぐは飲めるが、1時間と保たないとか。一杯所望すると、老人はコップになみなみ掬ってくれた。アルコール分はほとんど感じない。白濁し、一寸酸味と甘みがある、しかし、さっぱりとした飲み物だった。 
 カルタラでは、川べりにある白い大きな仏塔が印象的なカルタラ・ボディヤに参拝する。靴を預け、ひんやりとした仏塔の内部に入る。安置された4体の仏像の前は合掌する人々が列をつくっていた。実をつけていた境内の菩提樹。手を合わせ、小さな葉と実をいただきノートに挟んだ。
 12時40分、マウント・ラヴィニヤの海岸。
 サリさんの遠戚というホテルに寄り、ビーチの海の家に。
 昼食はピラフとビール。
 水着に着替え、甲羅干し。
 ムーア人の大家族と親しくなる。子ども10人連れてきたと言う肝っ玉母さん。10歳だというサリヤニは人懐こく、愛らしい。服を着たまま海に入っているとはいえムスリムの女性たち。同じムスリムでも所変わればだ。
 結局、15時半まで居た。
 16時10分、コロンボ、フォートのガラダリ・ホテル。302号室。
 向かいは旧国会議事堂。
 16時30分〜19時10分、ゴール・フェイス・グリーンを端から端まで歩き、スレーブ・アイランドの裏道を歩く。軍や警察の施設が多く、土嚢を積み、武装した兵士があちこちに。厳戒態勢だ。ここに来てスリランカの現状を思い知らされる。
 20時10分、1階レストランで夕食。バイキングでビールを頼み1600ルピー。
 夜中、下痢。何度も目覚める。身体だるし。
 
4月16日(日)、17日(月)
 6時45分、起床。荷物の整理。
 8時10分、朝食。バイキング。小さなパン2個、果物、ジュース(まことにまずい)、紅茶。
 10時〜10時40分、フォート散策。日曜日と正月休みが重なり、店もオフィスも全てお休み。その上、軍・警察が至るところバリケード。ホテルの外観を撮っていると、通行人が「写真は駄目」と。フォート全域、写真撮影禁止だそうだ。軍・警察の施設だけではないそうだ。余り意味のないことを規制しているように思うが、テロを恐れるが故の措置か。
 11時45分、チェックアウト。迎えに来たサリさん、フロント係から「会社からの入金がない」と言われ大慌て。あたふたしていたが、ホテル側のミス判明。ぶつぶつ言いながら最終日のコロンボ観光。
 フォートからペター。メインストリートを走り、ジャミ・ウル・アルフ・モスク前を通り、ペター時計塔で写真を撮す。再びペターを抜け、セントラル・バスターミナルへ。ターミナル周辺は大変な人出。店もほとんど営業中。露店もいっぱい。
 独立記念館で壁に掲げられた浮き彫りを見て回り、ラクパハーナ(政府直営の土産物屋)で土産・記念品等まとめ買い。国立博物館に時間をかけ、タウン・ホールを見て市内観光終わり。16時。深夜便には時間がありすぎる。
 昨日のビーチ。マウント・ラヴィニヤへ。
 海の家で遅い昼食。サンドウィッチにコーラ。 
 夕日を眺め、夕焼けを楽しみ、海の家が片付けを始める19時までいた。
 フォートに戻り、1時間ばかり、ゴール・フェース・グリーンを歩く。夕焼けに染まっていたはずが、雨に。繰り出した家族連れに慌てる者はいない。日常のことか。
 リカーショップでアラックを買い、空港に向かう。途中のマクドナルドでまた1時間潰す。
 サリさんとは8日間、本当によく語り合った。
 またの機会を約しながら22時10分空港に。
 22時50分、チェックイン。
 23時10分、待合室に。免税店などまわり時間を潰す。
 1時45分、やっと搭乗。
 2時15分、離陸。B777-300、51K。窓側。搭乗率9割余り、隣席は空席。
 コロンボ、キャンディの灯りを見ながら15分、スリランカ東岸の海岸線が月の光に照らされている。南十字星を探すが月明かりで見えず。
 ディナーが配られる。赤ワインをいただく。
 約3時間のフライトでバンコク。夜も明けた。
 バンコクでは1時間、機内待機。隣席にやって来た女性。席に着くなり携帯で話し始め、離陸するまでしゃべっていた。スチュワーデスの注意もなし。
 離陸するやブレックファースト。
 11時55分、香港着。
 下痢気味の体調。変わらず。
 13時25分、CX2512便。A330、42G。乗客僅か7名。がらがら。乗務員の方が多い。
聞けば、迎えのチャーター便で、香港からは臨時便。道理で。
 サービス満点。しかし、腹具合悪く、折角すすめてくれる飲み物、全て断る。
 18時、今回も無事帰国。