ト ル コ 紀 行
1.は じ め に
私は1975年7月22日〜8月25日の間、ソ連,ブルガリア、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンの旅を同僚3人(1)とした。1971年(2)につづいて、シルクロード地域を中心としたバスの旅である。
ナホトカ航路とシベリア鉄道を使ってハバロフスクヘ、ハバロフスクから飛行機を利用しモスクワへ、3泊した後ブルガリアの首都ソフィアに入り、ここから陸路パキスタンのカラチまで到る遠大な計画であった。
途中、集中豪雨による道路の崩壊やワジの氾濫、バス切符の入手難から急遽空路に変更した部分もあったが、そのはとんどを定期バスを乗り継ぎ走破することができた。日程の都合上、短期間に長距離を走ることが多かったため、内容の乏しさは歪めることができない。しかし、自分の足で確かめ、自分の目や耳で見聞した事実は何にも代え難い真実 の世界として、私の心を捉えている。
巡検記第8輯と第9輯の貴重な紙面を借り、トルコを中心にした旅の一部を披露させていただくことにした。
2.ト ル コ ヘ
ブルガリアからギリシャ領をかすめトルコへ入ったのは夜中の2時過ぎであった。国境の駅でオリエント特急はしばらく停車した。トルコの官憲が入国力一ドと旅券の提出を求めて車内をまわる。発車後も何度か検札の車掌や巡視の警官に起こされ,眠気眼のまま白みゆく車窓をながめていた。
「ヨーロッパの果て」という暗い先入観とは裏腹に、麦秋を迎えた黄金色の沃野が続く。ここはトルコとギリシャの国境をなすエプロス川の支流エルゲネ川の流域である。北にウストラジャ山地、南にテキル山地に挟まれたスレースの平野は、ゆるやかな起伏を持ちながら左手から右手にゆっくり傾斜し、地平線へと続いていた。小麦の多くはすでに刈り取られ、高い切り株にコンバインの跡が鮮やかな線模様を描いていた。牧草地には棒すか切れを持った牧童が羊や山羊を追う姿も見られ、牧歌的な景色を醸し出していた。ヒマワリ畑は一種の哀調を秘めながらも単調な風景に花を添えていた。町に近づくにつれ、沿線ではメロン、スイカ、トマト、 キャベツなどの畑が多くなる。田舎の駅に止まると、どこからか子供たちが集まり、乗客との交歓が始まる。橙色に熟したアンズと菓子を交換する子もいる。素足にズックの彼らは屈託なく明るい。
イスタンブールに着く2時間程前、列車は丘陵地帯を抜ける。そこは、カシ類を中心とした灌木林になっていた。トルコに入って、植生は一般に地中海牲の景観を示すが、鉄道沿線にはオリーブなど地中海式農業を代表する樹木作物をほとんど見かけなかった。
8人掛のコンパーメントは、我々4人と荷物で占領していたが、通路を行き交う乗客や
(1)片山智士(現在 福岡教育大)、藤沢 雅(現在 笠岡高)、小川尊一(現在 倉敷青陵高)
(2)巡検記第7輯に「パキスタン・アフガニスタン紀行」として一部報告
乗務員がヤーポン(日本人)と声をかけて行く。トルコ人は大変親日的な国民であるとは聞いていたが、その親しみを込めた態度に、ついうれしくなる。 右の窓からマルマラ海が見えると、間もなくイスタンプールだ。左にトプカピ宮殿の城壁が高く聳え、右にローマ時代の古い城壁が続く。7月30日午后0時30分、ソフィアから約16時間の後、オリエント特急は終着のイスタンブール・シルケシ駅に着いた。
3. イ ス タ ン ブ ー ル
イスタンブールには8月2日まで滞在した。その間、シルケシ駅に近いハイヤンホテルを拠点に、市内見物やブルサまでのバスの旅を楽しんだ。 ホテルの宿泊客の大半はドイツ人観光客である。トルコとドイツは第1次世界大戦の同盟国という間柄か、非常に緊密な関係にある。親独感情は親日感情以上のものがあり、英語よりもドイツ語の方がよく通じる。勿論、現在の両国関係が過去の同盟関係から成り立っているわけではない。今日、工業化の遅れているトルコのために、西ドイツは豊富な職場を提供している。西ドイツ在住のトルコ人出稼労働者約50万人。外国への出稼労働者53万2千人(1972)、その送金7.4億ドルは外貨収入の47%を占める。トルコ人の親独感情もいや応なく昂揚するはず。 部屋に荷物を置くとすぐ、アンカラ通りに面したロカンタ(レストラン)で遅い昼食をとる。ナスやピーマンにひき肉やきざみトマトを詰め、オリーブ油で煮込んだ一品料理2皿に、パンとチャイ(紅茶)で4人前103リラ。日本人好み(?)の味で、一同満足。旅に出て食い物がロに合った時ほど幸福感を味わうことはない。グループで旅をしていると、時にエゴイズムや感情のもつれから神経がいらだったり、冷戦状態になるが、大抵うまい物がロに入れは全て解消する。食い物の上からトルコの旅はひとまず安心ということになる。
シャワーを浴び、モスクワ以来溜まっていた汚れ物を洗濯し、ロープを張って部屋中に吊るす。その中で、2時間余り昼寝。
雷鳴に目を覚ます。ほんの10数分間の通り雨であったが、三方を海に囲まれたイスタンブールの地理的性格を改めて知らされた思いがした。夏高乾な地中海性気候の地でありながらも、 7・8月に80o前後の降雨がある。年間の降水量も800oと意外に多い。ローマの皇帝コンスタンチンがここを都に定めたのは、軍事的・経済的な要衝としての地理的位置のみならず、緑におおわれた岬の気侯風土に魅せられたからではなかったか。
雨上りの街に出る。自動車と歩行者、馬車やロバが混然と入り乱れ、警笛や罵声の飛び交う騒々しい通りをガラタ橋へ向う。この喧噪こそ、私の抱くアジアだ。バンコク、デリー、カラチ、 ラホール、過去に訪ねたアジアの諸都市の光景が脳裏をかすめた。
金角湾の湾ロにかかるガラタ橋とその奥のアタチェルク橋は7つの丘のあるビザンチン以来の旧市街と対岸の新市街べヨグル地区とを結ぶ動脈である。潮と油でうす汚れたガラタ橋は2階建である。一階は浮桟橋になっており、ボスポラス海峡やマルマラ海沿岸の諸港に向う定期船が発着している。その傍には食堂、果物店、本屋それに鮮魚や揚げパンを売る露店が並んでいる。家路を急ぐ人達でごった返している橋の欄干からのんびり釣り糸を垂らしている若者がいる。12・3pの豆アジがおもしろい程釣れる。言い難い感動におそわれながら、赤い太陽がモスクのクポラ(ドーム)とミナーレ(ミナレット)の黒い影を残してアタチェルク橋の向うに沈むまで、ガラタ橋とその周辺を散策していた。
帰路、露店で、一盛20リラの小魚を買う。活きている。夕食はこれで刺身を造ることに決めた。デザートはアンズとスモモ。ご飯のかわりにチャパティ。小魚と合わせ48リラの出費。部屋に戻るや洗面所で早速調理にとりかかる。この小魚みかけによらす油が強く、小骨が多い。それではと氷水に晒し、「あらい」と洒落こむ。コリコリした舌ざわりがよく、食欲も進み、ついつい酒量も増えてしまった(トルコはイスラムの国だが禁酒国ではない。ビール、ウイスキー類はどこでも手に入る)。
7月31日、7時半起床。部屋の温度26.5℃。快適な朝だ。ホテルの前のパン屋で朝食をとる。パンにチャイにレモネード。店員の愛想がいい。郵便局に立寄ってからアヤ=ソフィアに向う。トプカピの城壁に沿って急な石畳の坂を上ると前方に4本ミナーレのアヤ=ソフィアが迫ってきた。巨大なクポラのアヤ=ソフィアは、537年、ローマ帝国の皇帝エスチニアヌスI世によって建立された。その後何度かの地震によって崩壊し、その度に修理・補強されたが、1453年、東口一マ帝国の滅亡とともに、ギリシャ正教の大本山サンタ=ソフィア寺院は、オスマン=トルコのメへメットU世によって、イスラム教のモスクに改装され今日に到っている。壁面を飾った聖母マリアやキリストのモザイクは、偶像崇拝を禁ずるイスラム教の掟から塗り潰され、イスラム模様に描きかえられた。外部には4本のミナーレが、メへメットU世、バヤジットU世、セリムU世によって次々と建立された。
現在は、政教分離政策をとる新生トルコ共和国のもとで、博物館に指定され、イスタンブールの貴重な文化遺産であるとともに観光資源になっている。
入ロで入館料10リラと写真撮影科20リラを支払って拝廊へ進む。青銅の扉の上部に 有名な聖母子のモザイクがある。オスマン=トルコ時代に塗り潰された壁面の一部上塗りが剥がされたものである。拝廊から大広間に入ると、そこには歴史の重みを秘めた荘厳な空間があった。大小のクポラの壁面にあけられた無数の小窓から差し込む光に照らし出された空間は古色蒼然とし、メへメットU世によってイスラム模様に改装された壁面も500年という長い年月に、完全にビザンチン式建築に融合していた。
アヤ=ソフィアの境内にはいくつかの霊廟がある。正面に向って右手の木立の中にあるメヘメットV世の廟をのぞいて見る。黒布をかけた、石棺のような立派な墓石がいくつか並んでいた。 以前、パキスタンやアフガニスタンの砂漠で見かけた賽の河原のような荒漠とした墓地風景と比較して、その余りにも大きな違いに、厳格な掟をもったイスラム教も、距離と時間の長い伝播と伝承の中では、土着の信仰や時の為政者と妥協・変容せざるを得なかったのかと勝手な想像をしていた。しかし、一切偶像のないモスクでメッカに向って礼拝をくり返すイスラムの民が、「聖者の墓」と称されるスルタンや詩人の廟に詣でる姿をその後トルコやイランの各地で見た。そこに見せるイスラム教は「コーランか剣か」の勇猛で妥協を許さぬ厳しい姿ではなく、寛容で人間味のある優しい姿であった。
アヤ=ソフィアからトプカピ宮に向う。ドンネルカバブやキュウリを売る露店の傍を抜けトプカピ宮へ。ここも今は博物館になっており入館料は15リラ。写真撮影料は30リラ。トルコでは入館料の倍額払えば、博物館内でも自由に写真撮影ができる。館内のあちこちに撮影禁止の張り紙がやたら貼られたどこかの国と違って、案外すっきりしている (勿論、全て金で解決しろとか、無制限に写真を撮らせよと言っているわけではない)。 オスマン=トルコのスルタンの居城トプカピ宮は、日本でも公開された「トプカピ」という映画で一躍有名になった。この映画は、宮殿が所蔵する宝石をちりばめた豪華な短剣を盗み出す泥棒を主人公にした一種の喜劇的なストーリーであったと記憶している。映画のイメージとは一致しないが、所蔵品の豊富さと豪華さは想像以上である。例の短剣以外に86カラットのダイヤをはじめ、山と積まれた宝石。中国や日本から海のシルクロードを経てはるばる運ばれた陶磁器の数々。きらびやかな家具調度品に満されたハーレム。
トプカピからの展望もまたすばらしい。眼下にボスポラス海峡が横たわり、左手には金角湾が輝いている。海峡の対岸には歌で知られるエスキュダールが。少し霞んではいるが最近完成した欧亜を結ぶボスポラス橋もその雄姿を見せてくれる。地中海に向うのはソ連の大型貨物船か。カモメが群翔し、花を添える。
トプカピ宮を出て、ブルーモスクの前で、チャパティとレモネードの簡単な昼食。ローマの水道橋に向って歩く。途中イスタンブール大学の構内に入るが休暇中のため閑散としていた。 歩き疲れたので休憩がてら、映画館に入ってみる。平日ながら結構入館者が多い。空席を見つけて1時間、訳のわからぬトルコ語の映画をながめ、やっと生気を取り戻した。旅に出ると一日中歩き回ることが多い。乗り物がないからやむをえないと言うこともあるが、歩くことによって自分の存在に確信がもてるからでもある。勿論、何でも見てやろう、確かめてやろう、自分の目で未知の土地を探索してやろうという、よく言えば探求心、要は覗き趣味である。
映画館を出て再び歩きはじめる。フェヴィジパシャ通りと建国の父の名を冠したムスタファ=ケマル=アタチェルク通りの交叉点北側には、東西に、アタチェルク通りの上を横切って、ロ ーマ時代に建造された水道橋が残っている。一部は崩れ、橋上には雑草が生えてはいるが、アーチ構造の水道橋は古代ローマの建築技術の高さを十分に忍ばせてくれる。水道橋の南側一帯は公園になっており、子供たちが楽しそうに遊んでいた。
アタチェルク通りを北に下ると、道は金角湾に架かるアタチェルク橋へと通じる。橋のたもとにトルコ風呂があるというので(言い訳をするつもりではないが、日本の歓楽街にあるトルコ風呂ではない。本場のトルコ風呂は健全そのもの。背中を流してくれるのはトルコ嬢ならぬ、毛むくじゃらの三助さん。)、探しているうちに、連れとはぐれ、やむをえず、1人で橋を渡りガラタ地区へ。金物屋や機械・工具店の並ぶ裏通りを、無数の好奇の視線を浴びながらやっと通り抜け、ガラタ橋へ出た。そこには昨日同様の脹わいがあり、桟橋に向う人々でごった返していた。橋を渡り、金角湾に影を映すイエニ=ジャ−ミを一周し、人の流れに乗って、エジプシャン=バザールに入る。別名香料市場とも言われている。香料は勿論、貴金属から日用雑貨、生鮮食品にいたるまで、種々雑多、大小の店が軒を連ねている。物珍しく、バザールの中をうろうろしているうちに、いつの間にか、方向感覚が狂い、気がつくと、同じ道をくるくる回っているではないか。袋小路に突き当たり、おかしな所に迷い込んだりし、2時間余りかかってやっと出口にたどりついた。ホテルに帰ったときには、足は棒のようになり、身体はくたくたに疲れきっていた。
4.ブ ル サ へ
8月1日、昨日の疲れから、珍しく8時半まで寝ていた。また雨が降っている。しかし、その雨も1時間ほどであがった。10時頃ホテルを出て、昨日と同じパン屋で遅い朝食をとる。今日は、スケッチをするという1人を除いて、ボスポラス海峡をわたってアジア側のエスキュダールに行くことで意見が一致。
シルケシ桟橋からフェリーでアジア側のハーレム=ガラッジに渡る。フェリーの中で、客引きが、「ブルサ」「ブルサ」と大声をあげていたので、みんな洗脳されていたのか、ガラッジ(バスターミナル)のバス発着時刻表を見ているうち、「ついでに、ブルサまで行こうか。」ということになってしまった。片道20リラ、日本円で400円足らず。料金から安易に考えていたブルサまでは遠く、11時半発のバスがブルサに者いたのは午后4時前であ つた。その距離、なんと220キロ。「ちょっとブルサへ」が一日がかりの大旅行になってしまった。
エスキェダールからイズミットまで約1時間半、この間は、トルコ最大の都市、イスタンブールの近郊として、都市化が急速に進んでおり、住宅用地や工業団地が次々造成されている。ゲブゼとイズミットの間では、セメントや石油化学など、かなり大規模な工場が目立った。イズミットからは、対岸に、今、通ってきた道を眺めながらイズミット湾沿いに走る。海岸一帯は海浜リゾートとしての開発が著しく、特にカラミュルセルからヤロバにかけてはリクリェーション施設の建設が急速に進められていた。西ドイツやフランスナンバーのキャンピングカーも見られ、夏のマルマラ海岸は、国際色豊かな保養地帯へ変貌しているように見受けられた。道路沿いの緩斜面には、モモ・リンゴ・ブドウなどの果樹が多い。ヤロバからゲムリックにかけては、しだいにオリーブ畑が増え、地中海式農業の様相を示す。ヤロバでマルマラ海から離れ、道は海抜350mのアルムトルー峠を超え、ゲムリックで一旦海岸に出るが、再び内陸に向って南下する。アルムトルー峠からは左手に白く輝くイズニック湖が見える。この湖の東岸には、「ニケーアの宗教会議」でその名が知られるイズニックの町がある。
ゲムリックからブルサにかけての丘陵上は乾季ゆえか、ほとんどが放牧地。一部でモモやタバコの栽培が。民家の軒下に干した葉タバコに吉備高原の風景を思い出す。この辺りの民家は、屋根は切妻、壁は煉瓦造りであるが、壁に十字または]字の柱を入れいる。地震の多い所だけに耐震構造の上からも、たんなる煉瓦造りの民家に比べて優れているように思われた。リガパシャ峠(410m)を越えて、間もなく、峠にかかる付近から、車窓に見えていたブドウ畑(と思い込んでいた)が実は桑畑であったことに気付く。絹は東洋のものという先入観が桑畑をブドウ畑と思い込ませたのか。ブルサは、有名な「絹の町」でもあった。
あまりきれいな話ではないが。途中、ヤロバ近くのドライブインで食べた昼食の野菜サラダがいけなかったのか、ブルサまで腹痛に悩まされた。ブルサのガラッジに着くやいなやトイレに飛び込む。ところが何と有料トイレ。小銭を持っていたからいいようなものの、もし持ち合わせがないと大変なことになる。後日談になるが、同行の某氏。場所はバンコク空港。トイレに入ったのはよいが、あいにく小銭の持ち合わせがなく、最も小額の金は5ドル紙幣。やむをえず、つり銭をもらおうと掛け合ったが相手にされず、1回の小用に1500円も支払ったという笑話。今だに語り草になっている。トルコでは、ドライブインのトイレは全て有料と考えてよい。入口の前か、入ったらすぐの所に大抵老人が皿を持って座っている。1回50クルス。特別清潔なトイレでもサービスがあるわけでもない。トルコのトイレはいわゆるオリエンタル風。和式に近い。トイレットペーパーのかわりにブリキの缶に水が入れてある。私はもっはらこの水を使用済の紙を流すのに利用したが………。
ブルサには2時間ほどいたが、別にあてもなく、イエジル=ジャ一ミとイエジル廟のメへメットT世の墓を見ただけである。オスマン=トルコ初期の都であったブルサは、今は人口25万人の近代都市へ脱皮しつつあった。古い迷路状の道に広い通りが直線状につけられ、通りの両側には欧風の構えの店が並ぶ。.
イエジル=ジャーミはメへメットT世によって1419年に建てられた。オスマン=トルコが東口一マを滅ぼす34年前である。靴をぬいでジャーミ(モスク)に入る。薄暗い内部の床には絨毯が敷きつめられ、壁には緑のタイルが張られ、外装と内装のあまりの違いに驚かされた。日没にはまだ早いが、老教徒が数人、絨毯に静座、礼拝の時を待っていた。我々異教徒の突然の侵入に、その目は怒っているように見えた。
ジャーミと道を挟んだ石段の上にメへメットT世の廟がある。ブルーのタイルが張られた廟の中には、 同じブルーのタイルに黄色のコーラン文字を入れた棺が安置されていた。ネッカチーフを被った婦人が数人参拝していた。その1人は棺の前に正座し、願でもかけているのか微動だもしなかった。
帰路、アタチェルク像のある共和国広場からガラッジまで、ボディに黄色と黒の縞模様(日本の道路工事の標識と同じ)が入った乗り合いタクシーを使う。1人1.5リラ。バス並の料金で手軽に利用できる。他に、トルコではミニバスと呼ばれ、マイクロバスか、ライトバンを改造した小型バスが、路線バスの補助的交通機関として走っており、近距離の用たしには便利がよい。しかし、乗り合いタクシーにしても、ミニバスにしても、乗車定員など守ってくれないから、通勤ラッシュの電車なみに、客はいればいるだけ詰め込まれる。
ガラッジには小ざっはりとした地下街ができている。10数軒の店が並んでいるが、その大半はタオル地と刃物を扱っている。6時発のバスでイスタンブールに戻る。ゴルキュクで小休止。スイカとチャイで夕食を済す。マルマラ海に夕日も沈み、対岸のイズミットの灯が美しい。ゲブゼ近くでバスの転落事故があり、大変な交通渋滞。交通問題は世界共通の課題。アジアとヨーロッパの架け橋、ボスポラス橋を渡り、イスタンブール西郊のトプカピ=ガレッジに着いた時には、午后11時をすでにまわっていた。ガラッジからミニバスを乗り継ぎ、ホテルに着くと12時前。当然のことながらスケッチのために残った仲間は大変心配していたらしい。
5.ア ン カ ラ ヘ
8月28日、朝早く、一人散歩に出掛る。イエニ=ジャ−ミの裏からガラタ橋に出、橋を渡って対岸のガラタ塔に登る。橋ではもう釣り人が。塔の下のチャイハナで1リラ のチャイを飲む。老人が数人、朝の礼拝後の一服か、数珠を片手にチャイをすすりながら雑談していた。裏道を海岸まで下る。途中、散髪屋の親父さんに声をかけられたり、朝餉の準備や洗濯・掃除に、かいがいしく路地に出たり入ったりしている、裏町に住む人々の様子を興味深くながめながら……。
再びガラタ橋を渡ってエジプシャン=バザールへ入る。有蓋の商店街では開店準備中の店が大半。パン星の前は大変な行列。香料市場の名が付いているだけに、種々の香料の臭いがやたらたちこめた一角もある。食器類、野菜果物類、雑穀類、衣料など商品別に細 分化した奥行のあるバザールだ。それ故に、一昨日は道に迷ってしまったのだが、トルコ風のガラス製チャイカップとステンレスの受け皿、スプーンそれにトルココーヒー用の陶器のカップを溝入。店の主人にチャイを一杯ごちそうになり、出たところで連れの3人とばったり会う。ドルをリラに交換しておきたいが、土曜日のため銀行は全て休み。銀行の営業時間が短かいのには閉口する。結局、ホテルの支払はドルで済ませる。
10時頃から荷造りをはじめ,11時頃ホテルを出る。シルケシ桟橋からフェリーに乗る。昨日 調べておいたとおり、フェリーにはアンカラ行のバスが乗っており、車掌が客引きをしている。1人40リラ。フェリー上のバスの中からヨーロッパに別れを告げる。バスは咋日と同じ道をイズミッ卜へ走る。午后l時20分、イズミットを通過。右手にサバンジャ湖を見ながら、アダパザルへ。アダパザルを中心とした地域は、サカリヤ川の沖積平野。肥沃な穀倉地帯である。道路沿いにスイカ・メロン・タマネギを売る直販店が見られる。国道2号線、草ヶ部付近のブドウやモモ、 9号線東郷付近の二十世紀などと同様、今やドライバー目あての道端商売は凡世界的である。へンデツクの峠にさしかかるとタバコ畑が増え、牛の放牧も盛んになる。3時05分、デュズジェに到着。ドライブインで昼食をとる。デュズジェは盆地の底の町。牧場が多く、道路と平行にコンクリート製の給水施設が新設されている。30分程休憩したのち、再び出発。デュズジェを過ぎて間もなく、道は急勾配になる。風景は何となく日本のどこかと似ている。黒尾峠の鳥取側か。谷間や山頭部に集落が点在している。その中にボルの町もあるが道から少しそれている。峠の上にはチャイハナや木工細工を売る土産物屋が店を開いている。峠からピュユック川の谷に下ると一面の麦畑。中には雑穀も混じっている。再び道は急勾配になり、いよいよアナトリア高原だ。しかし、まだこの辺りは黒海から湿った風が吹き込むためか、緑も豊かで、峠道の左右には松林が広がっている。峠を超えると左手に小さな湖が現れ、湖岸 にはロバに幌馬車、ハウス型テントのジプシーのキャンプ地があった。トルコでは到る所思わぬところでジプシーに出会う。危険だと言うことで直接話しかけたり近寄ったりは しなかったが、観光化したり、定着化した西欧や東欧のジプシーと違い、今だにさすらい続ける彼らの生き方に一種の感動すら覚えた。
5時丁度、グレデの町を通過した。しだいに植生が乏しくなり、大半を放牧地が占める。海抜 1500mぐらいに登っただろうか、ベンリ山脈とキュテュクリュ山脈に挟まれた峠の上で小休止。針葉樹の喬木が一定間隔に生えているが下草はほほとんどない。キルミル川に沿って峠を下る。小さなダムがあり、その下流には水田が広がっている。トルコ人の主食はスレース(トラキア)やアナトリア西部はパン、アナトリア東部ではナンであるが(重複している地域も広い)米もかなり食されている。但し、高級料理として……。
海抜2000m程の赤色の山並がつづく。アンカラも近い。丘陵性の山の斜面は全て麦畑。 ところどころにメロン畑が混じる。前方はるかに家屋の密集した禿山が見える。アンカラだ。午后7時50分、バスは市街地北西端にあたる競技場前のガレッジに着いた。
6.ア ン カ ラ
アンカラではガラッジ(バス=ターミナル)に隣接したターミナル=ホテルに2泊した。海外旅行では足の確保と安全を考え、常に交通の便のよい駅やバス停の近くに宿をとるよう心掛けている。ツイン部屋で1泊88リラ。
8月3日、日曜日。9時過ぎまで日記をつけたり手紙を書いたり、のんびり休養をとる。 最初の予定ではアンカラからサムソンに出て、黒海沿いにトラブゾンに向うつもりであった。ところが、サムソン行の切符が満席のため手に入らす、急拠予定変更。1日午前9時発のカイセリ行のバスの切符を購入する。この度の旅では、出発前に一応大まかな行程表を作成したが、現地での状況により臨機応変、目的地も日程も変更することにした。無理をしない。旅に危倹は付き物だが、冒険はしない。今度の旅も第三者からみれば冒験旅行のようであるが、実際は国内旅行と大差はなかった。
情報化社会に生きている者の悲しい習性で、しばらく情報源から遠ざかると、何か取り残されたような孤独感、不安感に襲われる。誰も同じ気持なのか、大使館に行って日本の新聞を見せてもらうことにした。ガラッジからキャジム=カラベキール通りを東に、マルチペ地区に入る。鉄道と平行に北西から南東に走るガジ=ムスタファ=ケマル大通りをコカテペ= ジャ−ミの方に向って歩く。アンカラは中央駅を中心に、東西に走る鉄道を挟んで、北の旧市街地と南の新市街地に区分できる。現在、官公庁の大半は南の新市街地にあり、大使館などの在外公館もここに集中している。マルチペ地区は新市街地らしく、大通りに面した建物も新しく、オフィスや商店の構えも何となく垢抜けている。日曜日のため、ロカンタや食料品店を除き、ほとんどの店が閉まっている。その中でめずらしく営業していた一軒の書店で観光マップと土英豆辞典を購入。書店を出てすぐのところで政府観光案内所を見つける。カッパドキアやエラズルムのパンフレットを貰い、大使館の道順を訊ねる。意外に遠く、時間の無駄ということで予定変更。旧市街の散策と博物館の見学に切り換える。
中央駅の東を南北に、旧市街と新市街を結ぶアタチェルク大通りを旧市街の中心地クルス広場に向って歩く。右側には放送局や軍部関係の建物が並ぶ。中央駅前に通じるタラト=パシャ大通りが高架で交叉するガード下を抜けると左手にゼンチュリック公園が広がっている。休日を楽しむ親子連れが多く、公園の中央に造られた大きな池ではボート遊びに興じる者もいる。公園に面したロカンタで、1本4リラのビールを注文し、一休みする。 ウルス広場に近づくにつれ人通りも多くなる。しかし、広場に面した商店街では大半の店が休み。その店先を露店の古本屋、刃物屋、靴磨き、水売りが占拠している。広場の中心に建つケマル=アタチェルクの騎馬像をカメラに収め、シタデルに向う。
シタデルは東ローマ時代(7世紀頃)に築かれ、後にルーム=セルジユークによって修築されたという城塞である。現在でも見事な城壁が残り、高台にあるため、街のどこからでもその姿を見ることができる。シタデルからの展望はすばらしく、アンカラ市街を俯瞰する最適の場所である。
城内の茶店に入り、見晴しのいい城壁上のテラスに腰掛ける。熱いチャイをすすりながら、山の斜面や旧市街を埋めた赤い屋根の立ち並ぶアンカラの景観を楽しんでいると、臨席の2人連れの青年が声をかけてきた。英語は苦手とのことで、かえってこちらと話が合う。「どこからきたのか。」「空手はできるか。」「給料はいくら。」うんざりするほど耳にした質問に答えていたが、アイディンで農場のトラックター技師をしているというM君とアンカラに住む18才の公務員K君の日本に対する関心は深く、身近な日本製品のことから歴史、教育制度まで、わからない単語は先程購入した土英辞典を引きながら2時間余り語り合った(帰国後、M君は、2年間の兵役を終えた後、便りをよこし、日本に留学したいと言ってきた。)。2人と別れ、シタデルの南西端にある考古学博物館に入る。ここには、旧石器時代からギリシャ・ローマ時代にいたるトルコ国内の出土品が豊富に展示されている。中でも目を引くのはアッシリアとヒツタイトに関するものである。ヒツタイト最大の遺跡、ボガズギョイはアンカラの東、約160キロと近い。それだけに、「鉄器民族」として世界史に名をとどめた彼らの遺物はこの博物館に集積されているといってもよい。アジアとヨーロッパの回廊に位置するトルコは、周知のとおり、民族興亡の歴史を秘めた世界有数の舞台であった。荒漠たるアナトリアにも、緑豊かな黒海沿岸にも、太陽輝く地中海沿岸にも、国中に無数の、しかも大半は未発掘の遺跡が眠っている。発掘されれば世界史を塗り替えてしまうかも知れぬ大遺跡がである。国の中に遺跡があるというより遺跡の中に国があるといってもよい。この国を旅しているといつの間にか自分が歴史の中を彷徨っているような、妙な気分に陥ってしまう。
見事な展示品に気をとられていると背後で日本語のざわめきがおこった。ツアー一行の感嘆の声であった。トルコは、フランスやスイス・イタリアなどに比べると、悪評たかき日本人観光客は、問題にならぬくらい少ない。トルコ旅行中に出合った日本人は、数人のヒッピー風の若者を除いて、そのほとんどが歴史や地理に関心を持って訪れている人々であった。この一行もまたオリエントの遺跡を巡っている人達であった。
考古学博物館の近くに民族博物館がある。ついでにそこも見学するつもりであったが、途中で小さなバザールが目にとまり、雑踏に吸い込まれるように入ってしまった。イスタンブールに比べて、物価は若干高いようであったが、日本人の感覚からすれば、日用品、特に食科品はまだまだ安い。ちなみに、いくつかの例をあげてみよう。ブドウ1sが8リラ、トマト2〜2.5リラ、ナシ4〜5リラ、スイカ1個1.5〜2.5リラ。ヨーロッパや西アジアはどこでもそうだが、肉屋だけはいただけない。皮を剥いで目を剥いた羊が軒にぶらさがり、骨つきで血のしたたる肉塊が店頭にころがっている。なかには羊の頭と足だけを屋台にならべた露店まである。空気が乾燥しているとはいえ、目玉が隠れるばかりにたかった無数の蝿と悪臭。とても食欲などわくものではない。この頭のスープ、特に脳みそは珍味というから、我々米食民族には理解できない。
再びゼンチュリック公園前に出、中央駅前を通りホテルに戻る。貴重なパック入り煎茶を入れ今後の行程について話し合う。夕食は一階のレストランで。シシカバブを注文。食後、ベランダで、日本より持参の「そうめん」を茹る。
7.カ イ セ リ ヘ
8月4日、朝7時20分、気温27℃。昼夜ほとんど変らず。しかし、空気は乾燥している。トルコ=リラの手持少なく、ホテルの支払いはドルで頼むが、交換レートは1ドル13.5リラと低い。紅茶とパンで簡単な朝食を済ませ、中央駅まで両替に行くが、それらしき窓口もなく、やっと見つけた銀行でも、「両替はやっていない。」と応待も無愛想。 9時丁度、ガラッジのP24番乗り場からカイセリ行のバス発車。約20分でアンカラの市街地を離れ、岩山に挟まれた植生の乏しい谷間に入る。キリッカレまでアジア=ハイウェーを走り、そこから南に分かれる。放牧地・麦畑・休閑地のつづく、アナトリア高原の起伏地帯をたんたんと走り、11時30分、ソフラーに着く。
この付近の集落、大半は盆地状の地形に立地したオアシス集落。茶褐色の高原と集落の緑が対象的である。12時20分、ムクルにて昼食。ビール4リラ。コーン1.5リラ。
単調な車窓の景色に、睡魔が襲い、うとうとしている間にカイセリ到着。午后2時。予想外に早い。アンカラ・カイセリ問325キロ。平均速度80キロで走ったことになる。 アナトリア高原の真中、海抜3916m、トルコ第2の高峰、コニーデの火山として有名なエルシャス山の北麓に位置するカイセリは、小アジア半島を東西南北に結ぶ交通の要衝にあたり、 古来から多数の民族が時には定着し、また去っていった。ヒッタイト、アッシリア、ローマ、ササン朝、東ローマ、セルジユーク、オスマン。各時代の遺跡や遺物が数多く残る。「カイセリ」の地名も、トラヤヌス帝(98〜117)の時代につけられた「カエサリア」が訛ったとか。
ガラッジに隣接したターミナル=ホテルに部屋をとる。一泊95リラ。荷ほどきもせず、両替のため飛び出す。やっと、閉店前に銀行を見つけた。気持よい応待に、つい4人分として200ドル両替。
銀行近くの空地にスイカ、メロンの露店があり、2個7リラのメロン購入。日本人旅行者も少ないのか、我々の行くところ、すぐ人だかりになる。
一度ホテルに戻り、ガラッジで、明日午後5時発のエラズルム行バス切符を予約する。 1人80リラ。距離にして約650キロあるのだから、バス賃は本当に安い。メロンを切って一息つくと、早速、街の見物だ。ミニバスに乗り、街の中心に残る城塞へ。カイセリは、この城塞を核に発達している。城塞の前は共和国広場。そこから大小8本の通りが放射状に延びている。エスティニアヌス(527〜565)の時代に造られたという城璧を残す、この城塞は、その後セルジュークトルコ時代に修築され、オスマンの時代に入ってからも何度か修理・補強が行われ今日にいたっているという。現在、城内にはバザールがあり、近在からの買物客で終日賑わっている。城壁沿いに東に回り、政庁前を通り、広場から南東に延びる大通りをカイセリ博物館に向う。左手にはセルジユーク時代に建立された、ハント=ハッタン=ジャ−ミ(1237年建立)のミナレットが聳え、右手の石造りや日干しレンガ造りの民家の背後には白雪を頂いたエルシャスの雄姿がある。
セルジユーク時代特有の円筒型の墓(ドンネル=クンベット)がこの大通り沿いに残っている。この付近を治めていた族長の墓といわれているが、円筒に円錐の屋根を載せた重厚な造りが、いかにも勇猛なトルコ人の墓らしい。
博物館は、この大通りを左に入った畑の中にあった。尖底土器の大瓶や大壷、ヒッタイト、アッシリア時代の人物・動物のレリーフなどが庭やテラスに並べられた博物館は、まだ建てられて間がないのか、外回りまでは手が行き届いていないといった風情であった。 2リラ払って館内へ入る。入館者は我々だけである。館内の展示品は系統的に配列がなされており、石器時代から現在にいたる出土品や民具、武器などがガラスケースに整然と収められている。アンカラの考古学博物館とは比較にならないが、近くにヒッタイトやアッシリアの遺跡として名高いキュルテペがあることなどから、これらに関係した収蔵品は見応えがある。博物館を一巡し、案内所でカイセリのガイドブックを購入。再び、来た道をひき返し、トンネル=クンベットから城塞に出た。城門をくぐり、バザールに入る。日用必需品は何でもそろっている。高さ10m余りの城壁に囲まれた城内には東西に5棟のトタン屋根の長屋が建てられており、長屋と長屋の間は、軒とテントでアーケード状の通路になっている。長屋は、業種別にいくつかの区画ができており、野菜・果物・穀類・調味料・食肉・金物・雑貨・衣料品・履物など、それぞれ数軒ずつ軒を連ねている。ここで、米、塩、胡瓜、ジャガイモ、タマネギを仕入れる。いうまでもなく、手造りの和食に挑戦するためである。
1.5リラのアイスクリームを手にホテルへ向ったが、共和国広場から放射状に延びた通りを一本間違ってしまい、ハジ=キィリッチュ=ジャ−ミの側からカイセリ駅前に出てしまった。再びミニバスのごやっかいになり、後戻り、共和国広場を経由してガラッジに無事戻った。カイセリの印象は、地方都市らしく、静かで平面的。乾燥地域に入り、埃っぽくなり、民家もほとんど平屋根に。日干しレンガ造りが多くなり、郊外の農家の庭先には燃料用の家畜の糞が小山のように積みあげられている。街中に女性の姿が少なくなり、かぶり物が深くなってきた(但し、チャドリは見られず、ネッカチーフをかぶっているのであるが)。世界一のスイカ生産国だけに、スイカやメロンが豊富で、いたるところに露店が出ている。 明日はギョレメの岩窟教会を見に行くことになり、ホテルの支配人の紹介で車をチャーターする。一日500リラはかなりの出費であるが、距離と時間、それに一人あたりにすれば安いもの。ホテルのレストランでトルコの大衆料理(野菜〔ナス、ピーマンなど〕と羊肉のミンチをオリーブ油で煮たもの)、それにパンとビールで夕食。食後のデザートは、バザールで買ってきた胡瓜の塩もみ。午後9時半の室温27℃。
8. ギ ョ レ メ の 奇 観
約束通り、9時きっかりに車がくる。イタリア製フィアットの小型車。運転手は無口で一見サラリーマン風。咋日、アンカラから来た道を10キロばかり引き返えし、左に折れる。地中海沿岸のメルシーン、アダナからカイセリを経て、シバス、アンカラに向う鉄道と平行に、左手にエルシャスの姿を見ながら時速120キロの猛スピードで走る。エルシャスの麓に向ってゆるやかに傾斜しながら、一方で、小起伏をもつ土地は一面の畑である。トウモロコシ、ビート、小麦、 スイカ、メロン、ブドウなどが植えられている。茶褐色に乾燥した土地は必らずしも肥沃とは言い難いが、人口15万の都市を支えるには十分の広さである。ブドウ畑は、蒸発による水分の無駄な消耗を少しでもやわらげようというのか、直径1.5m、深さ50pほどの窪地をつくり、その中に地面を這わせるように植え込んでいる。収穫期には盗む者でもいるのか、あるいは、休息用に使うのか、石積みの見張小屋のようなものが畑の中に建てられている。 南下するにしたがい、しだいに礫が多くなり、ついには不毛の荒地に変わった。左手前方に、湖岸が塩で真白になったクルバガ湖が見え出すと、間もなく、車は右に折れる。砂礫の山を登ると、そこには数千いや数万とも思われる無数の墓があった。その一角を一人の牧童が数百頭の羊の群れを追いながら牧草地へと向っていた。何と荒漠たる風景か。岩と礫、それに褐色の土がむき出した山と山の間は、すでに収穫の終った麦畑。その真ん中を一本の緑の筋が走っている。小川に沿う道、その道沿いにはアンズが黄色の実をつけ、リンゴは枝いっぱいに小さな青い実をつけている。あまりに対称的な景観に自然に対する畏敬と畏怖を感じざるをえなかった。
ユルギップの町をすぎると凝灰岩の浸食作用によって生じた特異な地形が現れる。ユルギップの町はずれに、今も人が生活しているらしい穴居が見られるが、これもこの特異な地形を利用したもの。3・4世紀頃から、古代ローマやササン朝ペルシャによって迫害されたキリスト教徒や修道士たちが、人里離れたこの地に岩窟を穿ち、信仰と修行の生活を営んだという。近年、東京芸大による学術調査などから、我国でも詳しく報告がなされている(立田洋司著「埋れた秘境カッパドキア」(1977年))。
ギョレメの駐車場はヨーロッパ各国のナンバープレートをつけた車で溢れ、バカンスを楽しむ外国人観光客で賑っていた。エルマール、バルバラ、トカール、カランルク、イランルなど35余りの岩窟修道院・教会の残るギョレメは、カッパドキア地方の中でも特に多くの観光客を集めているようである。
円錐型の岩山に残る岩窟教会は、主に9世紀頃から12世紀頃にかけて造られたものである。損傷の程度、保存状態にもよるが、築造された年代によって構造や壁画にかなり違いがあるようだ。手近なものから順に急な斜面をよじ登り、片っ端から入ってみる。明り取りのある窟しかよくわからないが、貯蔵庫や食堂など修道士たちの生活の跡が各所に残り、人間臭さを感じさせてくれる。外気にくらべ岩窟の中は涼しく、案外、夏の暑さ、冬の寒さから身を守る上で快適な場所として利用されたのが一番の理由ではなかったのではないだろうか。
クルスを中心とした幾何学的な模様だけの素朴で簡素な壁画の教会もあれば、カランルク教会のように色あざやかなキリスト像や「最後の晩餐」図などを描いた壁画の残る教会もある。
奇観としかいいようのない特異なギョレメの地形は、軟かい凝灰岩が浸食し、中に閉じ込められていた硬い溶岩が露出したり残されたりしてできた。いわば古い火山地形が浸食作用をうけてできた地形である。丁度、徳島県の名勝地になっている穴吹の土柱のような地形(火山地形ではない)が、大規模・広範に分布しているのである。
11時45分、ギョレメ発。ユルギップの町で昼食。町の中を車に混じってロバが行き交う。ロバに乗った婦人にカメラを向けると、顔をそむけられる。トルコも東に向かうにつれ、イスラムの影がしだいに強くなるようだ。
9. 夜 行 バ ス で エ ラ ズ ル ム ヘ
カイセリ17時発、エラズルム行のバスに乗る。海抜1000m前後のアナトリア高原に、森林はほとんどない。黄、赤、褐色の土や岩石、礫が露出し、平坦面や緩斜面は畑、急斜面はせいぜい羊や山羊の放牧に用いられる荒地である。麦刈りの終ったばかりの黄色い畑と対称的に、見事に耕された褐色の畑が広がっている。乾地農法だ。地中海沿岸から西アジアの乾操地域に広がる独特の農法。乾季に休閑した畑を浅く耕し、水分を蒸発させる毛細管を切断することによって耕地の水分を保持する乾燥地域ならではの生活の知恵から生れた農法である。こうした休閑地は、耕地の3割におよぶというが、実際はそれ以上あるのではないかと思われるほどである。赤屋根、寄棟の農家には平星根が混じり、庭先にはうず高く積まれた家畜の糞。貴重な水を食う庭木は一本もない。味気のない村。今世紀はじめに廃墟と化したキャラバン=サライの璧は、もう、崩れはじめている。苛酷な自然、アナトリアに陽が傾きはじめた頃、その荒々しい大地になんと広告看板がぽつんと一本立っているではないか。その看板には大きく「ナショナル」の文字。日本製テレビの広告。屋外広告の少ないこの国で、しかも、交通量も少ないアナトリアのど真ん中で出会ったこの光景。何となく気恥ずかしく、顔を背けたくなったのは私だけではないと思う。 地平線に、それこそ大地を真赤に染めて太陽が沈むと、天空はみるみる色彩を変え、降るような星以外に光のない世界になった。車窓からぼんやり暗闇をながめているうち、いつの間にか眠っていた。物売りの声や乗降客のざわめきに目を覚ますとバスはシバスのガラッジに入っていた。人口15万のシバスは他のアナトリアの町と同様、紀元前以来何度も民族の興亡をくり返してきたところである。ヒッタイト、ローマ、ササン朝、セルジユーク、モンゴル、チムール、オスマン各時代の遺跡が残ると言う。
20時15分、シバス発。22時20分、イムランリで給油。対向車も少なく、灯りも見えない。午前1 時10分、エルジンジャン着。銅細工で知られたこの町も眠っている。前の座席や窓枠に頭をぶつけては目を覚し、うとうとしながら見るとはなしに暗闇をながめていると、はるか彼方、地平線のあたりがボーと明るくなっているのに気付く。その灯りは見え隠れしながらしだいに明るさを増し、午前4時、その灯のもとエラズルムに到着した。延々11時間のバスの旅であった。ガラッジは新設されて間がないのか、町からやや離れたところにあり、駐車場や道路など未舗装部分も多く、埃っぽい。夜明前のガラッジは夜行バスの運行が多いせいか乗降客や待合客で脹わっていた。チャイハネに入ると「腕時計を見せろ。」「セイコーはないか。」「時計を売ってくれ。」と数人の男がしつこくつきまとう。幸い、7時発のトラブゾン行の切符が手に入った(50リラ)。
10.黒 海 を 見 る
エラズルム発トラブゾン行のバスはほぼ満席で発車した。30キロはど西に引き返し、アスカルから北へ進路をとる。麦畑の続く高原からしだいに急峻な禿山へ登る。海抜2300m余りの峠は、ハイマツや高山植物がみられる典型的な高山帯。しかし、亜高山帯をつくる森林はない。アルプ同様、放牧地や牧草地として利用されている様子。峠を下ると谷間はオアシス。高山帯の草花を求めて養蜂する一家あり。約2時間程でバイブルトに着く。地名のとおり城砦都市。丘の上に城壁が残る。言われはわからぬが、古都の趣。街中を流れるチョルク川の水も清く、静かな町。この川はソ連の石油精製都市として知られるバツーミで黒海に注ぐ。街を歩く女性の被り物、ますます深くなる。バイブルトを出たバスは、しばらくチョルク川の肥沃な谷底平野を走り再び岩山こ入る。両側に巨大な岩壁がそそり立つ急崖を登る。岩と岩の隙間に可憐隣なケシの花。トルコはタイ、ビルマ北部のいわゆる黄金の三角地帯とともに麻薬、阿片の産地。公認栽培、世界一。このような山地で栽培されているとすれば、たとえ不法に栽培していても取り締まりは困難であろう。黒海山脈の分水嶺に近づくにつれ、緑もしだいに増してくる。黒海から吹く湿った風が雨をもたらし、樹木の成長を可能にしているのだ。風上側と風下側のあまりにも異なる植生の違い。峠には一軒の茶店兼雑貨屋兼宿屋があった。軒下に屠殺されて間もない羊が、頭皮を剥がれ首を切られぶら下がっていた。山頂部の高山帯に位置する斜面は、一面軟かい牧草に覆われた放牧地。柵囲いの中に農家が点在する。峠を少し下った路村で小休止。万屋の店先にパンと一緒にナンを売っているのをみかける。西アジア一帯で広く主食になっているナンは、このあたりが西限か。2.5リラのナン1枚とチャイで昼食。桑畑のつらなる坂道を下る。モミやマツなど針葉樹が多い。桑以外にはトウモロコシとインゲンなどの豆類が自立つ。アンズなどの果樹も多い。道路沿いの集落の一つでは、広場で露天市が開かれていた。トラックでやって来た行商人が、衣類や金物、雑貨品など広げている。女性の民族衣装が変ってくる。アルメニア人か。
15時過ぎ、谷の向うに海が見える。黒海だ。ついに黒海の沿岸までやって来た。トラブゾンの町は、海岸沿いの狭い平地と斜面に、東西細長く立地している。トルコ東部、黒海沿岸の港町として知られるトラブゾンは石畳の坂道が多い、小綺麗な小都市である。人口は10万足らず。アタチェルク像のある広場も、花壇や植木の手入れが行き届き、市民の憩いの場となっている。古代ギリシャの植民市から発達したこの町には、市内のあちこちにビザンチン時代やオスマン時代の遺跡が残るが、近年は港湾施設の整備も進み、町の東部では海岸部の埋立てが行われており、各種の工業が集積している。
やはり、ガラッジに近いターミナル=ホテルに宿をとる(一人80リラ)。ガラッジは市街地の東のはずれにある。ホテル3階の部屋からは、鉛色の黒海、その水平線まで見える。海岸沿いに、歩いてみる。港で釣りを試みるが、エサがなく失敗。防波堤にいた青年(学生と運転手)が写真を撮ってくれとせがむ。それではとカメラを向けると、男2人手を組み合って、まるで恋人同士という風情。トルコではよく見掛けることではあるが、なんとなく気味が悪い。しかし、トルコ人に親日家が多いのはここでも例外ではない。次々「日本人か?」と話しかけてくる。旅に出て、土地の人に声をかけられることはたわいのないことでも嬉しい。
翌、8月7日、トラブゾンの町は小雨に煙っていた。トルコでは珍らしく、夏も雨量の多いのがこの地方の特色。日本と同様、温暖湿潤気候に分類される。植生も日頃見慣れたものに近く、場所によっては、「ここは日本?」と錯覚してしまう景色にも出くわす。7時発のバスに乗る。乗客30人余り。乗車して10分ほど走ったか、電気系統の故障でクラクション鳴らずストップ。修理に費やすこと1時間。やっと動き出すが、坂道で何度もエンストを繰り返し、峠の茶屋を過ぎて間もなく完全に立ち往生。どうやらバッテリーがあがってしまっている様子。一軒の家もない。対向車さえほとんどない山中で、心細いこと。しかし、地元の人は一向に慌てる様子もない。腰に小型のピストルを忍ばせたボス風の男(何者かわからない)が、上着の袖をまくり、エンジンルームをのぞき込むが、処置なし。1時間程あちこちいじくっていたが、結局、乗客全員でエンジンの押しがけをすることになった。ボスの合図で押すこと三度、ついにエンジンがかかった。一同歓声をあげ乗り込む。その後、エンストこそ起こさなかったが、給油、タイヤ交換など、しばしば小休止。咋日8時間で来た道を12時間かけ、19時に、やっとエラズルムに帰ってきた。暑さと埃、長時間のバスの旅の上に、隣席の子供は疲れと車酔いで泣き叫び、その泣き声に仮眠さえとれず、疲労困憊の一日であった。イスタンブールから船で黒海を渡ってきたというアメリカ人の2人連れ(男の方は、かつて岡山の後楽園にも行ったことがあるという日本通)と別れ、タクシーを拾い、運転手に市街地のホテルヘ案内してもらう。シェファーホテル、4人100リラは少々高すぎたが、この際、我慢することにした。
11.エ ラ ズ ル ム
8月8日、この日、少し早めに起きて市内を回ってみるつもりであったが、前日の疲労が残り、7時半、やっと起床。8時頃から荷造りをはじめ、荷物をロビーに預け、ホテルを出たのは9時。まずホテルに近いロカンタで朝食。商店街を抜け、旧市街地に入る。丘の斜面の古い町並から裏通りに入り、ミナレットを目指し登る。裏通りは子供の遊び場。人懐こい子供達はすぐ声をかけてくる。「イギリス人?」「違う。日本人だよ。」「わあ、日本人。」「空手!空手!」 どこの子供も愛らしい。石畳の道を掃いている子供や被り物を脱いだ婦人の姿もみられる。通りがかりの学生にミナーレの寺院名を聞くと、「カラコシェ=ジャ−ミ」とのこと。寺院前に一風変った小さ塔がたくさんある建物があり、それは「タシュハン」(キャラバンサライ)とのこと。
再び坂道を登ると、賑やかに子供の声がする建物があり、入口に中年の男が一人腰掛けていた。声をかけてみると「ここは学校で自分は教師だ。」と答える。我々の声を聞いてか、中から数人の教師が出てくる。子供も顔を出す。いろいろ話しをして いるうちどうも学校というのが孤児院らしいこともわかる。
孤児院の裏には城塞と時計台が残る。城塞の下で子供に「ウル=ジャ−ミ」の道を尋ねると、「すぐ近くだ。」と先にたって案内してくれる。エラズルムで一番古い、1179年の建造というウル=ジャ−ミを東に回って、チフテ=ミナーレに出る。1人2リラの入場料を払い中に入ると、意に反し、側廊に囲まれた内部には墓石やビザンチン時代のレリーフが雑然と並べてあるのみ。奥に進むとモスクの一部を占めるハトウーニエ廟がある。ルーム=セルジュークのカイクパートU世の墓である。
チフテ=ミナーレの前で3人と別れ、1人でウチ=クンベットヘ行く。3つのクンベット(墓)の中で最大のものが、エミール=サルタンの墓。カイセリのドンネル=クンベットと同様、円筒型の胴体の上に円錐の屋根を載せたものだが、下部は八角形になっているところが異なる。しかし、基本的にはルーム=セルジューク時代の墓に共通した特色をもっている。
城塞の東麓には貴金属店の並ぶ商店街がある。古道具屋をのぞいたりしながら通り抜け、駅前通りとの交叉点に近いロカンタで一人昼食。カバブとナン、チャイをセットにして11リラ。 安くてうまい。主人に、店頭のドンネル=カバブを焼いている姿を写真に撮りたいと申し出ると、気軽に応じてくれる。
12時前、ホテルに4人揃い、タクシーでガラッジに向う。13時発と聞いていたバスは一向に現われず、14時前になってやっとホームに入る。大量の手荷物を床下トランクに積み込み、出発は1時間遅れ。新しいガラッジだけに郵便局もポストもなく、手紙も投函できない。炎天下、ビール、チャイ、メイスーなど飲物ばかりが口に入る。白の被り物に赤のヘアーバンドのアルメニア女性の姿が目を引く。
エラズルムの東郊は軍の巨大な駐屯地、ドグバヤジットに到るまで、町という町には軍隊が駐屯していた。74年7月のトルコ軍によるキプロス侵攻以来軍の動きが活発化していると言われているが、つい先日(75年7月)トルコ政府によって米軍の基地が接収されるという緊張状態があっただけに余計目立ったのかも知れない(キプロスは77年2月、事実上南北2つの国に分れ、北部のトルコ軍占領地はキプロス連邦トルコ系住民共和国と呼び、南部のキプロス共和国と事実上連邦共和国制をとった。接収された米軍基地は翌76年3月再開された。)。 エラズルムの町を抜け、「西流し後にペルシア湾に注ぐユーフラテス川の源流と、東流し後にソ連とイランの国境をなし、カスピ海に注ぐアラス川との分水嶺をなす」と言って、さほど高くもない峠を超すと広大な盆地に出る。左前方に、パシンレルの城塞が見える。ビート畑か多くなり茶褐色の大地に緑葉がみずみすしい。ソ連との国境の町カルスへの分岐点ホラサンに15時着。ここから再び峠道に向う。途中、阿蘇の米塚のようなコニーデ型の小火山が見られる。付近一帯のなだらかなスロープには火山灰が堆債し、そのほとんどほ採草地もしくは放牧地になっている。 17時、 海抜2475mのタヒール峠に着く。峠にある一軒の茶店の前で小休止。展望がすばらしい。100 キロはど南にはトルコ最大の湖、内陸塩湖でもあるバン湖がある。勿論、ここからその姿を見ることはできない。道路端にコンクリート製の水(飲)場がある。アナトリアでは所々でこのような水場を見かける。過熱したエンジンを冷やし、渇いた喉を潤す。高乾地ならではの知恵。運転手も、どこの水はうまいかよく知っており、好みの水場で休憩をとっているようだ。峠を下る道沿いに点在する集落は平屋根、日干レンガ造り。西アジア共通、いや、インドまで広がる乾燥地特有の家屋型式だ。庭にはうず高く家畜の糞が積まれ、時折見かけるモスクのミナーレ(ミナレット) や教会堂には、その尖塔に、コウノトリが巣をかけている。これらの集落の多くはアルメニア人集落とのこと。18時、アグリ通過。軍人の姿がやけに目立つ。陽もしだいに傾き、そしてどっぶり暮れた20時、やっと、ドグバヤジット到着。6時間余りバスに乗っていたが、途中でふとしたことから親しくなった臨席の兵士、アダム君と、土英辞典片手のやりとりで退屈することもなく過すことができた。休暇明けで郷里から国境の兵営に戻るというアダム君。農民出身の素朴な一兵士の姿からキプロス侵攻後の緊迫した様子を窺うことはできなかった。ドグバヤジットの宿をまだ決めていないことを知ると、彼はホテルを紹介しようと、バス停からあまり離れていない一軒の小綺麗な欧風のホテルに案内してくれた。しかし残念ながら、当日は団体客が宿泊しており空部屋がなく、フロントで断わられてしまった。彼は気の毒がり、「街中にもホテルはあるから。」と、その場所を示し、兵営に戻っていった。そのホテルは偶然、エラズルムと同じ名のシェファ−=ホテル。4人部屋で80リラであった。ガランとした大部屋にベッドが4つ。ドアには鍵がかからず、外にある便所は汚く、水も出ない。勿論、シャワ−もない。街灯のない町は暗く沈んで見える。ホテル前の薄暗いロカンタで遅い夕食。カバブとペプシコーラ、それにメロンとスイカ。合計24リラ。何となく意気あがらず、カセットで持参の歌謡曲を聞く。
12.イ ラ ン 入 国
8月9日、5時頃。かすかな物音に気付いて目を覚すと見慣れない赤シャツの男が部屋を物色中。大声をあげると男は慌てて部屋から飛び出した。こちらも飛び起き後を追う。男は廊下を挟んで斜め前の部屋に逃げ込んだ。内側からノブを握っているらしく、押してもドアはびくともしない。一緒に飛び起きたK先生とドアを叩き怒鳴り声をあげると、あきらめたのか、ノブを離す。部屋の中に踏み込むと、その男は部屋の奥に小さくなってしゃがみ込んでいた。同部屋の2人の男の顔を見れは、昨晩フロントにいたボーイではないか。してみれは赤シャツもホテルの従業員。 2人は赤シャツに事情を聞き、「トイレと間違ったらしい。」という。しかし、トイレならドアを開ければわかるはず。部屋の中まで入り込み、荷物を触っていたとは。しかも、ホテルの従業員ならなおさら。ねぼけているわけではるまいし。こちらの剣幕に、2人のボーイは引き下がり、「勝手にしろ。」と言う。ボディチェックをしてみるが別に盗んだ物もない。しかし、ホテルの従業員と知れば一層腹が立つ。K先生は赤シャツを我々の部屋まで引っ張ってくる。日本語で怒鳴ってみても通じるわけではないが、頭でも下げさせなけれは気が済まない。弁解の余地がなくなった赤シャツは手をついて謝り、我々もこれ以上為すすべもなく、許すことにした。トルコ10日間の旅の、しかも最終日に、このような事件に出くわすとは。親日的なトルコ 人にすっかり気をよくし、好印象を抱いていたのに。トルコ東部はアルメニア人やクルド人などによる反政府運動や隣国からの越境者による犯罪が多いとは聞いていたが。しかし、このようなことは後から考えてみれば、大なり小なりどこでも起こることである。しかしながら、いざ自分の身に起こると、たった一度の出来事でも一般化し、「やはりトルコ東部は治安が乱れている。」、「危険だ。」と断定してしまうから恐ろしい。地理学に携わる者として恥ずかしいことだが、自分の尺度や体験から、特殊なことを一般化したり、ありきたりのことを特殊化することがままある。気を付けねばならぬが、一旅行者の接する自然や生活は限られており、わずかの見聞を基にあえて地域性を求めようとすれば、独善や誤解が生じるのは当然のこと。コーランは、「余裕のある者は困窮者を援助せよ。」と教える。イスラームにとってザカート(喜捨)とサダカ(慈善行為)は義務である。余裕のある者にとって義務ならば困窮者がそれらを受けるのは権利である。旅人は、普通、困窮者並に扱われるが、カメラをぶら下げ、大金(彼らに比較し)を持ち歩く、日本人旅行者は困窮者とは言い難い。困窮者と見るか見ないかで立場は全く逆になる。タクシー料金を倍額(時には10倍も)請求されるのも、親切を受けた返礼の金品受領を断わられるのも、どちらの立場にあるかで決まる。してみれば、この赤シャツ君もサダカを受けようとして、侵入したのかも知れない。窃盗には厳罰が課せられるが、富裕(?)な旅行者にサダカも受けぬまま頭を下げた赤シャツ君はかえっていじらしくも思える(注……赤シャツ君が何人であるかはわからぬが、アルメニア人はイスラム教徒でなく、アルメニア使徒教会に属するキリスト教徒である。1915年、第1次世界大戦中、オスマン=トルコによるアルメニア人強制移住事件により数10万のアルメニア人が死亡したといわれている。そのためアルメニア人の反トルコ感情はいまだ根強く、頻発するテロ事件の一因となっている。)。
一段落したところで、カメラを肩にまだ薄暗い外に出た。裏通りを抜け町はずれの広場に出ると、薄暗闇の中にうごめく羊や山羊の群れに出会った。これから放牧に出掛るのか。また、バザールに向うのか。野菜や薪を背に山と積んだロバの列。その背後には山頂のみ、わずかに朝焼けに染った、黒いシルエット状の山地。海抜5165m、トルコの最高峰、ノアの方舟で知られたアララット山であった。いつの日か、その麓に立ちたいと思っていたアララットの雄姿がそこにあった。しばらく呆然と立ちつくしていたが、ロバの叫哭で我にかえり、聖書の世界を憶いつつ、めったしたこともないスケッチをはじめた。大アララットの東、トロイデ型の側火山(小アララット)の上に朝日が昇る。朝もやの中にドグバヤジットの街並が現われてきた。
7時、ホテルに戻るとすぐ荷物をまとめ、ホテルの横の路上からミニバスに乗る。昨夜、フロントで交渉したときは国境まで1人10リラと聞いていたが、出発間際になって「今日は客が集まらないから15リラくれ。」といい出す。早朝の赤シャツ君侵入事件といい、トルコ出国当日になって2度もいやな思いをしなければならぬとは。
荒涼としたアララット山の南麓を国境へ向かう。国境の手前1キロあたりから大型トラック、トレーラーの長蛇の列。ブルガリア、ユーゴスラビアなど近隣諸国はもちろん、遠く、西ドイツ、フランス、イギリスナンバーの車まで混る。レスラーの如き風体の運転手は、ここで一夜を明かしたらしく、三々五々集まっては道端で自炊(コーヒーや紅茶を入れている程度であるが)をしている。スエズ運河の再開(1975年6月)後も、アジア=ハイウェーは中東とヨーロッパを結ぶ動脈として健在であった。我々島国に住む人間にとって理解しがたいことであるが、アジアとヨーロッパは、所詮、陸続きである。大陸の国々の関係は、2本の足を使って、自から行き来できる、同じ土俵の上で成り立っているのである。ニューデリーからは、パリ行きやロンドン行きのバスが出るという。外国といえば海外。船か飛行機を使わぬかぎり隣国すら行けぬ日本。その閉鎖的風土の中で育った日本人の多くが、今なお、国際化社会の中で孤立しているのもいたしかたないのか。
イラン入国手続き、特に税関の手続きに手間がかかり、9時10分(イラン側では9時40分) やっと国境を越えることができた。しかし、イラン側国境の町マークーへのバスは12時までないという。ティーハウスは役人に占拠され使えず。炎天下で待つしかない。ドイツに向うという黒人のトラック運転手が話しかけてきた。日本に住んでいたというその運転手は奥さんが日本人とのこと。ピースを一箱差出すと喜び、お返しの米国製タバコを置いて去っていった。12時まで待てず、相乗りのタクシーを使いマークーヘ。それが結果的には幸いして、マークー発12時、その日最終のテヘラン行バスに間に合った。マランド、タブリーズ、ザンジャ一ンを経て15時間半、バスに揺られ、まだ明けやらぬテヘランに到着したのは午前3時半のことであった。
13.お わ り に
その後、テヘランに一泊。イラン航空の国内線を利用しマシュハドへ。マシュハドで2泊。イランはわずか4泊5日で1500キロ横断。バスでアフガニスタンとの国境ドグーハーンへ。無人の国境緩衝地帯を抜け、アフガニスタンへ入国。へラートに1泊。カンダハルを経て、カブー ルで2泊。再びカンダハルに引き返し2泊。カンダハルからスピンボルダツクを経てパキスタンに入国。クウェツタで2泊。カラチ、バンコック、香港を経て8月25日、全員無事帰国した。 帰国後、イランではイスラム教徒(シーア派)によるイラン革命が勃発(1979年)し、パーレビ王朝は崩壊、ホメイニ師を国家最高顧問に仰ぐ、イスラム共和国が成立した。米大使館占拠事件、イラン=イラク戦争、バニサドル大統領の亡命、ラジャイ大統領等政府高官の暗殺、テロ、報復処刑等々、その後も頻発する事件に動揺している。
アフガニスタンでは、1978年、人民民主党によるクーデターでダウード政権が倒れ、79年9月にはアミン首相による宮廷革命が起こり、さらに、その年12月にはカルマル元副議長によるクーデターとソ連の軍事介入が勃発した。世界の火薬庫中東の中で、ここもイランとともに危機的状態にあり、国際緊張の種となっている。 .
トルコでも極右・極左のテロ事件が続発し厳戒令は解除されることもない。80年には、ここでもまたクーデターが起こり、軍政が敷かれたまま現在に至っている。最近の報道によれば、政府は全政党の解体を実施したとか。アタチェルクによって創設された共和人民党も例外ではないという。冥界の「アタ(父)チェルク(トルコ)」の気持や如何に。生誕100年という記念すべきこの年に。
6年という歳月は何もかも筆述し難い程大きな変化をもたらしてしまった。にもかかわらず今あえて埃をかぶった古くさい旅行記を活字化するのは恥ずかしくもあり気が引けることでもあるが、何か形として残しておきたいという我欲を充足させるため、貴重な紙面を使わせていただいた。御容赦いただきたい。
なおアフガニスタンに関しては、西大寺高校「紀要」創刊号(1980年)に「アフガニスタン〜生徒の関心と体験旅行から」と題して発表させていただいた。御高覧いただければ幸いである。 最後に前述したが、この旅の同行者、片山智士、藤沢 雅、小川尊一の三氏に心より御礼申し上げる。
この度の旅行ではガイドブックとして丹生谷 章著「トルコバスの旅」(1974)と深井聡男著 「アジアを歩く」(1974)を主に利用した。旅に持参したこの2冊の本に助けられるところが多かったことをあわせ記しておきたい。
※この紀行文は、岡山大学教育学部地理教室発行「巡検シリーズ」第8輯(1971)、第9輯(1981)に掲載したもの を一部修正。