ユーラシア横断旅行 1975年7月22日〜8月25日
ナホトカ航路で
7月22日 晴れ
横浜に、定刻の7時5分、到着。桜木町に直行。駅前の喫茶店でモーニングの朝食。
タクシーで大桟橋へ(280円)。8時前、Dzerjinsky号はすでに接岸していたが、待合所は閉まっている。出入国管理事務所も、9時から。
土産物も買えず、200円ライター5個、チップ用に。
小川さんと先に出国印を受け、家に電話を入れる。涙声の妻。
かなり混雑してきた。Lookなど団体客多い。
税関はいたって簡単。10時、乗船。
サロンで、パスポートとバウチャーを提出。早速、ビールで乾杯。スタイニー110円、スルメ160円。
7時のラジオ・ニュースで、経団連が、「海外旅行者のマナーの悪さは、貿易にも響く」と、注意を呼びかける勧告を出したとのこと。全く共感の至り。
11時、定刻に出港。水上警察の目かなり厳しい。
見送り客が送迎デッキに鈴なり。テープが飛び交う。
東京湾の汚れひどい。船舶数の多いこと。
約1時間半で東京湾を出る。海水の汚れがなくなり、透明度が増す。
ソ連の標準時に合わせ、時計を1時間進める。
2時、ランチ。その後しばらくデッキから太平洋を眺めていた。イルカの群れが、まるでショウでもしているように楽しませてくれる。
キャビン(323室)にて昼寝。
5時40分頃、ティ。その後、「ソ連の労働」「英雄都市」の映画を見る。
映画の中で、ソフ・オーズのことをソ・フォーズと呼んできたことに気づく。キエフもキイエフと発音していた。
8時過ぎ、夕食。片山さん、船酔いひどく、途中で席を立つ。同席の2人のモスパック利用者は東欧、西欧組。
藤沢、小川両氏は卓球に挑戦。相手強し。
私はもっぱら輪投げに興じる。
11時過ぎ、サロンにてビール。タバコ(ケント)1箱、130円。
12時過ぎ、キャビンにてノート整理。航行中の船が多いのか、汽笛を頻繁に鳴らす。
月が美しい。真夏とは思えぬ涼しさ。ただ湿っぽい空気に肌はベタベタ。
キャビン(323室)略図
7月23日(水) 晴れ
6時前(日本時間5時前)、起床。霧が濃く、30秒毎に霧笛を鳴らしながら航行している。ラジオの感度から、宮城沖を航行中か。家に手紙を書く。
7時過ぎ、片山、藤沢両氏起床。小川氏8時頃まで熟睡。
9時、朝食。片山さん、相変わらずグロッキー気味。ただし口だけは至って達者。
昼食まで、時間つぶしの輪投げに興じ、映画を見る。行き交う船もほとんどなし。
2時、昼食。片山さん容体変わらず。
4時過ぎ、左舷側に下北半島。6時過ぎ、今度は右舷側に駒ヶ岳、函館山。
6時、一枚500円の宝くじ、当選発表。小川さん、950円の人形が当たる。
8時前、津軽海峡を抜ける。片山さん、少し回復。デッキで運動。
夕食に飲んだワイン、1本895円。黒海地方産のものか結構うまい。ウオッカはダブルのオンザロックで430円。ソ連製タバコは2箱220円。
夕食後、デッキに出ると、イカ釣り船の灯りが海面いっぱいに広がっている。月明かりが美しさに花を添える。
10時頃からは、サロンで演奏される音楽を楽しむ。ダンスを楽しむ者もいる。おもしろいのは外国人は、テンポの遅いワルツなどを好み、日本人はテンポの速いタンゴやマンボなどを好むことだ。
12時過ぎキャビンに戻り、シャワーを浴びる。
天気図によると気圧の谷が接近中。夜半から雨に変わり、少し波も高くなるかも。
現在12時42分、少し船の揺れが大きくなった。円形の船窓の外は真っ暗闇。
7月24日(木)
8時半起床。朝食前にデッキで卓球。波は少し高いようだが、なんとか晴れ。
朝食後はキャビンで荷物の点検。税関申請書等の記入。
1時過ぎ、大陸が見え始める。しかし、やがて濃霧発生。視界は100メートル程?1分15秒毎に汽笛を鳴らす。
昼食中に霧も晴れる。
漁村や灯台、沿岸警備の監視所なども見られる。
ナホトカ湾に入って約30分、4時35分、接岸。
税関吏は女性。手荷物を開けられることもなくパス。
パスポート等を返して貰い上陸。インツーリストの案内所にて1万円両替。
案内所でのウオッカ1本1140円、タバコ100円、ソーダ水9k。
バスでナホトカ駅へ。蝿が多い。日本まで葉書13k。
8時、ナホトカ発。
湿地多い。石灰岩地帯ではセメント工場。
牧草、ヒマワリ、トウモロコシ、ジャガイモ、キャベツが目立つ。
木造家屋、住宅附属地を木柵で囲ったもの多し。
植生は白樺と柳。
夕食、10時半にやっとありつける。
11時半、川の向こうに町の灯りが。
満月に照らされた車窓風景に見とれる。
コンパーメント内の温度は26℃。
シベリア鉄道そしてエアフロート国内線でモスクワへ
7月25日(金)晴れ
6時前起床。列車はすでにウスリー川の流域に。
湿地、放牧場、柳、白樺。木造家屋点在。貯木場、製材所。川沿いに民家多し。
放牧場以外は、線路沿いの住宅附属地などで、ジャガイモ、ヒマワリ、トウモロコシ。
すれ違う貨物列車、10両余りの編成。無蓋車は木材。
朝霧が湿地を覆う。
7時の車内、24℃。北北東に進んでいる。
8時頃から何度も食堂車に行くが、待たされ続け、10時20分、やっと順番が回ってくる。
その間、空腹に耐えかね駅の自由市でトマト3個買う。3個で1ルーブルは無茶高い。
11時30分、ハバロフスク着。
インツーリストのバスでセントラルホテルへ。
残ったディナー券で昼食。朝食をとって1時間余り、さすがに食欲なし。
街中風景。女性のファッションは西欧並、反面、男性のみすぼらしさがやけに目立つ。
デパートのショーウィンドー、商品の数少なく、貧弱。
ハバロフスク空港に向かう。鉄道は撮影禁止。勿論、空からも。
農家の菜園にはヒマワリが目立つ。
空港には荷物が届いておらず待たされること2時間以上。とっくに飛行機の出発時刻は過ぎている。飛行場玄関前の日陰で、2時10分の気温29℃。
団体旅行者の荷物も届かないものがあり、皆やきもきしている。
2、3、4号車の荷物を運搬せず、完了の報告をしていたとのこと。
3時半頃、やっと残りの荷物が届く。荷物の検量、搭乗手続きにさらに時間がかかり、4時過ぎやっと機内へ。機体のお粗末さにあきれる。まるで中古のバスの車内。蝿が飛び回り、エアコンも効いていない機内は33℃。その中でまたもや待たされ、5時30分、やっと離陸。
眼下には蛇行するアムール川。ハバロフスクは右岸の河岸段丘上にあることがよくわかる。左岸は一面氾濫原。三日月湖、後背湿地。
8時頃、眼下には植生の乏しい氷食地形。谷底平野をつくる蛇行した河川沿いのみに植生が見られる。所々に氷雪も残っている。シベリア中央高地(アンガラランド)上空か?
夕食後、眼下にはタイガの森が現れる。人家見られず、人跡未踏の大地。広大な自然が手づかずで残っている。
9時30分、山火事を見る。9時40分、樹海の中に大河。川沿いに人家。エニセイ川か。 9時50分、再び山火事。しかし、白煙は2本。人為的なものかも知れぬ。
10時3分、まともや煙が出ている。川が近くにあるので、これも開墾の火かも知れない。
雲海を抜け、10時35分、湖沼地帯に。無数の湖沼が。氷食によるものか。永久凍土の溶解によるものか。円形の湖沼が多く見られる。
12時、雲海に入る。気流が少し乱れている。ウラル越えか。雲が切れ、大きな川が見える。湖は人造湖か。
12時15分、森林を切り開き、整然とした地割りの耕地。ソフオーズか。
12時20分、軽食が出る。紅茶、パン、チョコレート。不安定で窪みもない個人テーブルに置かれた紅茶は、振動で今にも落下しそう。ハバロフスク以来、機内に住み着いたハエ健在。
12時50分、モスクワタイムではまだ5時50分、日本では11時50分。家ではみんな寝ているだろう。しかし、今も太陽はギラギラと輝いている。シベリア鉄道の車内で起きてからもう19時間になる。太陽は沈まず、時間の観念はでたらめになった。
午前2時10分、モスクワ時間午後7時10分、やっとモスクワ着。ハバロフスクから8時間40分の飛行時間であった。
3時27分、まだ国際線ホールから出られず。荷物の問題でまたもや待たされている。疲労と眠気、うんざり。45kのビール、リンゴと酒粕を混ぜたような味。
荷物の顛末は、モスパック組22名に対し、24個の荷物があり、2個の所有者不明の荷物の取り扱いでもめたらしい。実はモスパック以外の者が2名おっただけのこと。それにしても杓子定規で、まさにお役所仕事の対応、観光客を受け入れる姿勢ではない。
4時20分、やっとホテルに向かって出発。モスクワ時間午後9時20分、まだ明るい。50分ほど走り、赤の広場に近いロシア・ホテルに。
風呂、洗濯。頭痛がする。
7月26日(土) 晴れ
5時半起床。室温21℃。8時25分には26℃。
家に手紙を書く。睡眠不足だが、余り眠れない。
ロシア・ホテル、部屋数6000とか。巨大。宿泊したのは7階の230号室。各階、各コーナーに部屋番のおばさんが目を光らせている。
9時朝食。
朝食後、ベリヨースカをのぞき、ホテルの周辺を散策。
10時45分、市内観光へ。
モスクワ川からクレムリン(ワシリー寺院、赤の広場)、モスクワ大学と回り、昼食。
やけに新婚のカップルが多い。車のボンネットとバンパーにテープ飾りをし、花束をたくさん抱えている。
赤の広場は大混雑。日本人観光客も多い。レーニン廟には長蛇の列。
片山さん、赤の広場でバスに乗り遅れる。
昼食はPECTOで。ボリュームもあったが、延々1時間半もかけてのランチ。ウオッカ、シャンパンも出る。一般市民は席が空くのを待って入口で行列。どこでも行列である。
料理にはキノコが多く使われている。
4時前、ホテルに戻る。
ベリヨースカで買い物。
5時半、夕食。
ホテルでも結婚式、披露宴が行われていた。
6時半、バスでモスクワ・サーカスへ。週末とはいえ大変な人。立派で巨大な建物。若干の空席はあったもののほぼ満席。公共の娯楽施設にふんだんに金を使っている様子。
10時過ぎ、ホテルに戻る。手紙を書いたり、風呂に入ったりしている間に11時半。明日は5時起床。
モスクワから空路ブルガリアへ
7月27日(日)
2時頃から時計が気になり眠れず。藤沢さんは下痢気味なのか何度もトイレに通っていた。 5時前、家に手紙を書き、散歩に出る。
赤の広場とその周辺を歩いてみる。裏通りは人気がない。レーニン廟の前に数人。通勤途上の人も廟に目を向け通り過ぎている。
グーム百貨店のショーウインドーをのぞいてみる。ハバロフスクに比べ商品の数も多いが、物価はかなり高い。
6時、部屋に戻ると、荷物はすでに階下のロビーに運ばれていた。
6時15分、1階ロビーでタクシーのナンバー票をもらい出発。
郊外に出る道は片側4車線の立派なもの。タクシーは130キロの猛スピードで走る。
両側には高層アパート群が続く。空港近くから田園に。コルホーズか、ソフオーズか。酪農が盛んなのか、北海道にも見られるタイプの牛舎もある。附属地ではリンゴが植えられている。
6時45分、空港着。タクシーのメーターは5ルーブル53kになっていた。もちろん払う必要はないのだが。
税関申告書作成し、検量。搭乗券をもらい税関、出国手続き。空港税はとられなかった。 レストランでジュース、25k。為替レートと生活レベルとのギャップをいたるところで感じるソ連であった。
エアロフロート171便、ソフィア行。8時20分丁度に動き始める。
ノボシビルスク交響楽団など団体客と一緒だったため満席。1人前の席に。異邦人に取り囲まれ、言葉は全く通じず。通路側の席のため、窓から眺めることもできず、居眠りを決め込む。
10時50分、ソフィア着。
今年からブルガリアはビザなしで入国可能になっているはずなのに、OKが出ない。しきりに何か言っているのだが、英語も通じない。同じ便の乗客が全員出てしまった後も残される。うろうろしていると女性の係官が側に来て、入国に当たっては1人1日30ドル(約35レバ)、ブルガリア通貨に両替しなければならないと説明。両替をし、やっと入国を認められる。
乗客がいなくなった空港はガランとしており、案内所も店も全て閉まっている。その上、市街に向かうリムジンバスも出た後。やむおえずタクシーでソフィア中央駅に。2レバ。 駅の旅行案内所に行くと、レーニン広場前の「バルカンツーリストの本社に行ってくれ」と言われる。
電車でレーニン広場へ。4ストチンキ。ホテル紹介窓口は大変な混雑。ならんだあげく空き部屋なし。しかし、民宿ならあるかも知れないと言われ、そちらの列に。
窓口の女性が、電話をあちこちとかけてくれるがなかなか見つからない。2時半(現地時間1時半)、やっと見つかった。ソフィアに着いて3時間以上たっていた。
「Tolbuhin No6のUfloor、Stoilovaさんのお宅に行きなさい。」と言われ、メモを持ち電車で、住所に近いソフィア大学前に。電停から数分、やっと見つけた建物の3階に指示されたお宅があった。ドアをノックすると、穏やかな微笑みを浮かべたおばさんが。英語はほとんど通じず、ロシア語とフランス語なら解せるとのこと。
3時頃から市内へ。人通りは多いが、店は全て閉まっている。5時半頃、一度宿に戻り、再び食事に出る。
ビールに酔い、睡魔に襲われ早々に寝る。
7月28日(月)
3時頃、腹痛で目が覚める。少し風邪気味。朝までに2度トイレに起きる。
7時半、起床。洗面後、2日分の日記を付ける。
8時半の外気温18℃。小川さんも風邪気味。
9時、外出。カフェでパン、コーヒー、ジュース。
薬屋へ。
Ruski通りを歩き、国会議事堂、共産党本部前を抜け、ツム百貨店へ。大変な混雑にもかかわらず、品数は少なく、値段も高い。
マーケットホール近くで、ジュースを飲み一休み。
バルカンツーリストに寄るがあいにく昼休み。イスタンブール行き列車の切符を販売している場所を確認し、公園でしばらく休息。
バルカンホテルで1人20ドル両替。ホテルのロビーで、幼稚園を経営しているという日本人(金杉さん)に話しかけられる。 東欧事情や教育問題などとりとめもなく2時間ばかり話し、明日の切符の予約に。
長蛇の列、不案内に苦労したあげく、結局、「明日もう一度来い。」とは。ガックリしながら宿に。途中でコーヒー(11ストチンキ=約30円)。大変旨かった。
風邪気味の小川さん、一日部屋に居たらしい。
6時過ぎ、全員で夕食に。途中の八百屋でトマトとキュウリを買う。1キロ26ストチンキ。店先にならぶ品数の少なさに驚く。
大回りしたあげく、宿に近い、昨夕も行ったレストランに。小イワシのフライ(シシャモのような味。旨かった。)2皿、チキン2皿、サラート2皿、ビール3本、ジュース1本で4レバ20ストチンキ。約1000円は安い。食品の安さに比べ、土産物屋、工業製品は高い。
宿のおばさんは明日からパリに行くそうで、鍵を預かる。「旅立つときは、ドアの隙間から中に投げ入れておいて。」とのこと。昨日やってきた見ず知らずの外国人に鍵を預けて留守にする。驚嘆。
出稼ぎ列車、オリエントエックスプレスでトルコに向かう
7月29日(火)
朝、しばらく薄曇り。
5時半頃、一度目が覚めるが、再び眠ってしまい、7時過ぎに起床。
おばさんは6時半頃出かけたとか。
息子さんが居るところをみると、娘さんと2人で行ったのか。
荷物の整理をし、家に手紙を書き、9時過ぎ、近くのカフェで揚げパン、コーヒー、ジュースの朝食。
裏道を通り、切符予約所へ。
手順は、5番窓口でパスポートとドル交換控書提出し、書類を作成してもらう。続いてKASAで支払い(一人11レバ30ストチンキ)、再び5番窓口へ。しばらく待ってやっと切符が作られる。ぶっきらぼうで、手間のかかる客扱いには閉口。社会主義国家の負の部分を見せつけられる思い。
その後、土産物屋で小さな人形2つ(4レバ)、本屋で、ソ連製の地図帳と教科書を買う。
土産物屋の前で、3人を待てど現れず。12時半頃、鍵を預かっていたため先に宿へ。
荷物の整理やアパートの写真を撮って待っていると1時間ほどしてみんな帰ってくる。
4人揃ったところで、洗面所でそうめんを茹で、買ってきたキュウリもワサビ醤油につけて食う。旨い。
片山、藤沢両氏は残ったレバをドルに交換するためバルカンホテルへ(交換できなかった)。
小川さんと私は動物園に(12ストチンキ)。飼育されている動物の数も少なく、家族連れがわずかに入園しているだけ。
途中で小川さんと別れ、一人自由公園に。とにかく大変広いグリーンベルト。この空間が日本の都市にもほしい。
宿に戻り、藤沢さんと本屋に再び出かける。4時半、戻る。
片付け、荷造り、5時、3日間お世話になったお宅を出る。ドアの隙間にキーを投げ込み感謝。
ストリートカーを乗り継ぎ駅に。
駅に荷物を置き、藤沢さんと駅前のバザールへ。野菜、果物、衣料品、雑貨、あらゆる種類の露店が並び、なんとなくワクワクする。この雰囲気、性に合っている。しかし、時間がなく、メロン(90ストチンキ)とスモモ(50ストチンキ)を買って、急いで駅に。
ところが、列車の到着が遅れ、6時13分着が1時間遅れの7時15分着に。
7時35分、ソフィアを発つ。
1時間ほどで同席の2人が降り、8人用のコンパーメントを4人で使えるように。
夜中、2時半頃、国境を越える。越えたところでしばらく停車。ブルガリア側ではパスポートチェック、トルコ側は入国カードの記入そしてスタンプ。
車掌が夜中に2,3度、切符の確認に回ってきた。
「トルコ紀行」で、詳細に記録済み
イランは駆け足通過?
8月9日(土)
9時40分、トルコとの時差30分、イランに入国。
マークー行きのミニバスは12時発。ティーハウスも役人が占拠し、閉められている。O.So ドリンクで喉を潤す。20リアルは高い。
1人50リアルで、乗り合いタクシーが出るという。2時間以上こんなところで待つのも無駄。タクシーでマークーへ。
結果的に12時発、この日最終のテヘラン行きバスに間に合うことに。
バスは満席。タクシーに同乗していたイラン人に助けられ何とか最後尾の席に座ることができる。
マークーからテヘランまで15時間半の長丁場。
3時、マランドで昼食予定だったが、店が閉まっており、昼食どころか食物も手に入らず。空腹。隣席のイラン人にメロンとピスタチオを頂く。感謝。
タブリーズはかなり大きな町。
9時、ザンジャンのレストランでやっと食事にありつける。
うとうとしながらテヘランに。
3時過ぎ、前方にテヘランの灯が。
8月10日(日)
町は眠ったまま。暗闇の街に、パン屋の釜の火だけが赤々。
路上には宿のない旅人やホームレスがごろごろ。
ホテルを探すが、時間が時間だけに全て閉まっている。
あきらめ、安宿前の路上にころがり夜明けを待つ。
5時過ぎ、JALのテヘラン支店に向かうことに。睡眠不足と疲れに、荷物の重さが体を圧迫。吐き気さえ覚える始末。結局、タクシーを拾い、地図上でJALに近そうなところで降りる(50リアル)。ところが、肝心のJAL見つからず。探すこと30分。挙げ句の果て、営業は9時から。
つぎはホテル探し。30分ほど歩き回り、やっと見つけた1軒目では断られ(どうもヒッピーのように薄汚れた姿から敬遠されたようだ)、2軒目でやっとOK。2軒目では、荷物を持たず、身なりを整え、片山さんと2人で交渉。OKが出た後、リュックを持って入ったら、フロント係の顔つきが変わった。
Marmar Hotel 1泊1800リアル+15%、バス付き、高級ホテルだ。
9時過ぎJALへ。カラチからの航空券もOK。家から懐かしい手紙。
しかし、JAL、愛想の悪いこと。
一度ホテルに戻り昼寝。
3時過ぎ外出。博物館へ。個人タクシー、80リアル、やはりぼられる。遺跡の宝庫「ペルシア」収蔵品目を見張る。
帰りはとぼとぼ歩く。交通マナーの悪さ。まともに歩けたものではない。信号も横断歩道も、役に立たない。イラン、特にテヘランの印象悪し。早々に脱出するに限る。
ところがマシュハド行きのバスは14日まで満席。仕方なく、話し合いの結果、陸上の移動をあきらめ飛行機に。残りの日程を考えるとそれもまたよし。
夕食はホテルで。チキンカバブの旨いこと。それ以上に生ビールが。1人1200円ほど(300リアル)取られたが、味と量で満足。
とにかく早く寝ることに。風呂にも2度入り、洗濯もできたし。9時ベッドへ。
テヘランは暑い。日陰さえも蒸し暑い。溝に水を流して清掃する風景、どこかでも見た。
8月11日(月)
8時まで寝ていた。久しぶりに寝足りた感じ。
9時前、パン、コーヒー、オレンジジュース(170リアル)。朝から旨い。
イラン航空へ。手間のかかること。それでも今日のチケットが買える。18時15分発。
帰りは遠回りし、街中を歩く。絨毯屋、骨董屋、両替商が多い。街角のジューススタンドで生搾りのメロンジュース15リアル、オレンジジュース25リアル。ともに旨い。駆け引きをしながらバザールで買い物するのは楽しい。昼前、ホテルに戻る。
昼間から生ビール。とにかく喉が渇き、身体が水分を要求する。地元の人もよく水を飲むが、発汗作用に差があるのか、我々の方がかなり多い。
ホテル代を精算し、部屋に戻りメモの整理。
2時過ぎ、ボーイがやってきたので、ロビーに下りる。
ランチもホテルでとることに。
コンソメスープとチキンカバブを注文。255リアルはわれわれには痛い出費だが、味は抜群。満足。
3時過ぎ、タクシー(白タク)にて空港に向かう。猛スピードで、雑踏の中を縫うように走る。25分ほどでMehrabad空港に。
待つこと40分、手荷物の検量と搭乗券の交換。しかし、その後の長いこと。出発時間の6時15分になってもなんの案内もない。6時半、やっとゲートをくぐる。持ち物は徹底的にチェックされる。ジャンバーのポケットまで。3人はカメラの中まで。さらに念入りなボディチェックを受け待合室に。ここでさらに30分以上待たされ、IA466便マシュハド行(727/200型)が離陸したのは7時30分。日もとっぷり暮れ、テヘランの街の灯が美しい時刻になっていた。
しかし気は重い。預けたリュックの中で、ラッキョウ瓶が割れているのがわかったので。 機内ではサンドウィッチのサービス。
8時30分、1時間のフライトでマシュハドに。
市街まで1人25リアルのタクシーチケットを購入したところまではよかったが、乗ったタクシーが雲助。4人後ろの座席に乗せ、前席には運転手と助手が。ところが窮屈なところにさらに2人乗せ、定員オーバーで夜の街を猛スピード突っ走る。パラス・ホテルに着くや、助手がフロントに先回りし、予約のないことを確認し、他のホテルを紹介すると言い出す。灯りのついていない部屋も多く、どう見ても満室とは思えないホテルのフロント係も、ニヤッと笑って「部屋はない。」と言う。
タクシーチケットを渡すと、「チケットでは駄目だ。」と言いだし、100リアル要求。なんだ空港のチケット売りもドライバーもフロント係も全てグルか。路上で言い合いをしていると英語が話せるという学生が間に。しかし、彼もドライバーの言い分だけを一方的に通訳するだけで「金を払ってやれ。」と言うだけ。
多勢に無勢、腹は立てども結局言うがままに。
騙す者より騙される方が愚かで、悪いのか。人より車が優先され、車ではねるより、はねられた方が愚かと考えているような国。イランのイメージはますます悪くなる。
しかし、イラン人の全てがそうだとは思いたくないし、思ってはいない。
腹立たしい思いで、ホテルを探す我々に、親切、丁寧にバクハン・ホテル(BAKHAN HOTEL)を教えてくれたのは、またイラン人学生だった。
6人部屋で1泊670リアル。
旅にハプニングはつき物。夜は涼しいマシュハドである。
8月12日(火)
8時前起床。
チャイとナン(バター、マーマレイド)で朝食。
歩いてバス停に。ガイドブックの地図とホテルで書いてもらった地図が食い違う。
BAHAR通りを逆に歩いたらしく、DANESHGAH通りに出てしまう。逆戻りし、TEHRAN通りを横切ったが、地図と通りが一致せず、迷う。ペプシで喉を潤し、しばらく歩いていたが、あきらめタクシーを拾う。30リアル。
バス停で降りて、Khavar tour Bus Co.を探すのに、また一苦労。かんかん照りの中、とにかく暑い。
やっと探し当て、アフガン国境までの乗車を交渉。
「明日8時発。7時にここに来い。」と、気が抜けるほど簡単に予約完了。
1本8リアルの7up、2本飲み干し、一息。
12時過ぎ、タクシーでバザールへ。
イマ・レザ廟のまわりを一周する。
博物館は4時まで閉館。待って入るほどの興味も湧かず。バザールを見てホテルに。
帰途、1キロ60リアルのオレンジを買う。
日本人とそっくり顔(ハザラ?)の男に道を尋ねると、巧みに絨毯屋に連れ込まれる。チャイを飲みながら1時間余り、小川、片山両氏は気に入ったペルシャ絨毯があるらしく粘っている。藤沢氏と先に出る。
歩きながら気づいた。地図はガイドブックが正しい。ホテルのフロントで書いてもらった地図の、しかもホテルの位置が違っていた。いい加減というか、お粗末な話し。
通りに面した店はほとんど閉まっている。昼休みの時間。直射日光が刺すような暑さ。
1杯5リアルのメロンジュース2杯飲み、スイカを1個35リアルで買う。
シャワーを浴び、洗濯。
しばらくして、二人が帰ってくる。
小川氏は120ドルと中古のセイコー、片山氏は100ドルと同じく中古時計で手に入れたとのこと。
藤沢氏は少し疲労気味。微熱がある。
4年振り、陸路アフガニスタンに
8月13日
5時半起床。室温27℃。空気が乾燥しているため少し肌寒い。
7時までにバス停に行くため準備。
精算に行った片山、藤沢両氏の話によると、いつも8時まで寝ているマネージャー、無理矢理起こされご機嫌斜めだったとか。2泊分で2900リアル。食費を加えても少し高い。
しかし、7時までに行くには遅いからと、バス停まで車で送ってくれる。
ところがなんと車を降りた後で、フロントにパスポートを預けたままと分かり、慌ててタクシーで取りに戻る。料金5リアル。今までの料金は何だったのか。
ホテルに戻ると、マネージャーも気付いており、折り返し、車でバス停まで送ってくれる。近くの壊れかかった軽食堂で7upを1本。
絨毯を織っている民家があり、写真を撮らせてもらう。
バスは定刻8時に発車。
マシュハド近郊は植林が進んでいるが、少し走るとステップに。耕地もほとんどなくなる。通過する集落はまるで保護色のような泥造りの家ばかり。平屋根にドームを載せた民家。ターバン姿の住民はほとんどモンゴロイド。アフガンのハザラと似ている。
耕地の一部にビートが植えられている。
バスはイラン側国境Dogharunに11時40分着。
ヒッピー風のイギリス人、ベルギー人、フランス人が目立つ。
パスポートを出して、3、40分で手続き完了。チャイハナでのチャイも早々に、荷物を背負う。
この先10キロ余りは、イラン、アフガニスタンの国境緩衝地帯。見通しのよい不毛の平坦地。アフガニスタンに近いところでは耕地が。
ミニバスで5、6分走ったところでアフガン兵によるパスポートチェック。
道を遮断しているバーが上がり、走ること5、6分でアフガニスタン側の入国管理事務所のあるKizil Islan Qal'ehに到着。
審査場所が散在している上、手順がつかめず時間がかかる。
まず税関、パスポートに検査済みのスタンプを押して貰い、入国手続き。入国印を貰い、検疫。両替1ドルが55.5アフガニー。
ヘラート行きのバスに乗れたのは4時。
国境にはチャイハナもなく、ファンタを売る店のみ。しかも足下を見て高い。1本15リアル。朝から何も食べておらず空腹は極限に。
Tirpal付近でやっと口にしたメロン(1個5Afと8Af)の味は忘れられない思い出に。
Rahzankのチャイハナで1時間余り休憩。チャイを飲む。日も暮れる。
バス料金のことで、乗客とドライバーの間、一悶着。
1人70Afで決着。
ヘラート到着8時(アフガニスタン時間で9時)。
バスターミナルのホテルは超満員。
街中のホテル、1人30Afを20Afに値切り泊まることに。
8月14日(木)
早朝(5時頃)、散歩に出る。
懐かしいヘラートの街。
シタデル、バザール、マスジット・ジャミとまわり、4年前に泊まったニヤガラ・ホテルの横を抜けホテルに戻った。
さすがに人通りも少なく、バザールも開店準備中。
開いていたチャイハナでチャイを飲んだ。2Afだった。
9時頃、荷造りを済ませ、ヘラートの街が見渡せる庭園、タフトイサファーへ行くことに。
馬車と交渉。往復50Af。中心に噴水と水路を設けたイスラム様式の庭園。しかし水は涸れ、手入れの悪い植栽に、がっかり。
予定していた、12時発のバスはなく、14時発とのこと。
バスターミナル近くのレストランで昼食。1人18Af。まずい。スイカを切って食う。
シタデルの周辺を散策。チャイハナで30分余り時間をつぶす。
14時になってもバスが出る様子なく、結局、アフガン・ポストの発着場にまわり、13時20分、カブール行き長距離バスは発車した。
8月15日(金)
4時半にカンダハルに着く。
チャイハナの前で夜明けを迎える。
6時にカンダハル発。
懐かしい道。タルナック川沿いを走る。カレーズが多く、緑豊か。
休憩なし。
12時10分、ガズニでやっと昼食にありつく。シシカバブをほおばる。
カブール到着は、3時半。
上り坂が多いせいか、スピードがでず時間がかかった。
遊牧民のテントが以前より多く見られた。多分、移動の季節に入ったのだろう。
カンダハルからカブールに近づくにつれ、山羊、羊からラクダ中心に変わる。
ガズニからカブールにかけては牛も多くなる。2頭立てにして麦の上を踏ませ、脱穀している。時計の針のように一日中回転を繰り返す脱穀場は円盤状に踏み固められている。 トルコ東部から見られる共通した風景。
Saiydabad付近、川の水量多い。濁りのない清水。緑豊かな田園。丁度小麦の収穫期。家族総出の脱穀、風選風景。
以前は、旧市街地に近い、カブール川沿いにあったアフガン・ポストの発着場。ところが終点はカブール大学に近い西郊のバスターミナル。
言い値50Afを30Afに値切り、タクシーでカブール・ホテルへ。
ツイン660Afは高いが、バス付きが魅力。
ヘラートから一緒だった伴君は「安宿を探す。」と、8時にカイバー・レストランで合うことを約束し、ここで別れる。
久しぶりの風呂。そして洗濯。
ロビーに日本人団体客。
8時、アルコール公認のカイバー・レストランへ。
ビール5本、コーラにステーキを注文。カブール到着を祝し乾杯。
パキスタン・ビールの旨いこと。
ただし、1本日本円に換算すると750円也。大変な出費。
「まあ、いいじゃない。たまには。」すっかり気分がよくなり、ホテルに戻るなり、爆睡。
8月16日(土)
7時起床。部屋の窓から懐かしい王宮が見える。
朝食、オレンジジュースを頼んだはずだが、出てきたのはマンゴジュース。
小川、藤沢両氏はバーミヤンへ(65ドル)。
9時頃日本大使館に。4年前には市街地の北端にあったはずだが。
現在は王宮の東に移っている。新しい造成地に広大な敷地。庭木、芝生の緑に囲まれた豪勢な建物。この一角は、アフガニスタンとかけ離れた空間。
兵士2人と警官2人が警備につく門から中に入り、玄関の受付で記帳する。手紙の受け取りと新聞の閲覧を頼む。玄関先の郵便箱から4人宛の郵便物を探す。アルファベット順に整理された箱に自分宛の手紙だけない。何度も見直しているとMの箱にあった。差出人の頭文字で分類されていた。
新聞は10日以上も前のもので、最新の情報つかめず。
ホテル前の銀行で両替し、ホテルへ。
玄関脇で手紙を書いているとツアーの日本人が話しかけてくる。今回の旅について話しているとき階段を下りてくる女性と目が合う。何と大学時代、同じ研究室にいた中山さん。 8年振りの再会。まさかこんなところで会うとは。
日本を出て6日目、体調を崩しているとか。部屋でお粥をつくっているそうだ。
午後、3時間ばかりカブール市内を歩く。
プラザ・ホテルのレストランに寄ってみる。中の様子は変わらないが顔見知りのボーイの姿は見られず。ステーキ(40Af)を注文する。
カブール川沿いの帽子屋でカラクムスキンのアフガン帽を買い、2才の息子用に1つ注文する。明日8時にできるという。兄弟らしい帽子屋の2人の若者と一緒に写真を撮る。
小さな貴金属屋でアフガン特産のラピスズラリ(200Af)とトパーズ(900Af)を買う。
昨日から足にできものが。どうやらヘラートからのバスで、後ろの座席の男が持ち込んでいた鶏が原因らしい。背中をつついたり、足下でゴソゴソしていたが、そのころから足にかゆみを覚えていた。
ソックスの中でかぶれた皮膚の一部が化膿し、膿みはじめた。
たまらず4年前同様、サンダルを買うことに。
夜は片山さんと雑炊をつくる。バザールで買った赤カブ(5Af)を塩もみしておかずにする。デザートは1個18Afのスイカ。旨い。
8月17日(日)
足の腫れ、ますます酷く、最悪。
9時過ぎ、帽子屋へ。
かわいらしいアフガン帽ができていた。
明日のカンダハル行バスの予約にアフガン・ポストの事務所へ。
朝5時発のみとのこと。
絨毯屋の並ぶバザールの一角まで2キロほど歩く。
4軒あまりの店をまわり、古色の出た、ラクダの毛で織った1畳足らずの絨毯を一枚買った。56ドルまで値切ったが、それが限界。
王宮前を通りホテルに。
疲れ気味。
バーミヤンに行っていた二人が、2時頃に戻ってくる。戻ってきた二人と片山さんバザールに出かける。
一人残る。
腹が減ったが、残っていたスイカ2切れとルームサービスで頼んだチャイで済ます。
6時過ぎても三人は帰ってこず、バザールの本屋に。
足が痛む。
半ズボンで出かけたら、通行人の視線がすべてむき出しの足に注がれ閉口する。
英文のアフガン年報など買い、帰りは公園を横切って戻る。
夕食は、昨夜と同様、雑炊をつくる。
少し元気が出るが、疲れはたまっている。
8月18日(月)
4時起床。荷造り、点検。
スイカで朝食代わり。
5時前、ホテルを出る。
タクシーでバス停に(20Af)。
5時半、きっかり、バス発車。
「もうカブールに来ることはない。」と思うと感傷的になる。しかし、二度あることは三度あると言う。外国でもっとも様子がわかる都市といえばカブールだから。「そのうちに。」と思い直す。
8時、ガズニ。
バスは乗客の思いも無視し、一気に飛ばし、11時過ぎ、Shahjui近くで、やっと休憩。ナンとマトン入りジャガイモ煮(アフガンの定食メニュウ)にありつく。ただし、本当にまずい。デザートに買ったブドウは最高。
Jaldakで、再度休憩し、3時前、カンダハルに着く。
4年振り、カイバー・ホテルに泊まる。
相変わらず水が出ない。
みんなバテ気味。
小川さんを残し、明日のクエッタ行の足をさがしに。
途中、チャイハナで、ジャララバードの医学生と話が弾み、バングラデシュに関する情報など、しばらく忘れていた世の中の出来事を耳にする。
パキスタンとの国境、スピンボルダックまでは1時間毎にバスの便あり、予約の必要もないとのこと。
埃っぽいバザールを抜け、ホテルに戻る。
一休みし、4年前にも寄った骨董屋に出かけ、スイカやメロンを切るのに丁度よいナイフを一本購入。
夕食はシシカバブで済ませ、10時就寝。
蒸し暑く、眠れず。
ワジが氾濫、国境手前で引き返す
8月19日(火)
4時、アザーンで起床。
下痢気味。
全員疲労ピーク。バスからタクシーに変更。国境まで700Af。
7時10分、ホテルを発つ。
タルナック川、アルギスタン川流域の広大なステップを横切る。アルギスタン川には水が溢れ、ステップのあちこちに水たまりが。何かおかしい。
しかし、やがて砂漠に。メル・カレーズ(MelKarez)でカンダハルから2つ目の道路通行料徴収ゲート。
対向車がなく、異様。
小さなワジに水が流れている。
前方にトラックの列。間をすり抜け先頭に出る。
目の前には濁流と化した大きなワジが。
無理矢理渡ろうとしたのか、途中で立ち往生したトラック、横転し、積み荷のブドウの入った木箱が流されているトラックも。
ワジ(Dori川)の対岸は、国境の町スピンボルダック。ここまできて。
アフガニスタンでは大きなワジには橋を架けず、川底を舗装し、横切る道が多く、ここも同じタイプ。
昨日、アフガニスタン東部からパキスタンにかけて大雨が降ったらしい。乾燥地域の雨は、恵みの雨ではなく、災害をもたらす自然の脅威にも。
「明日には退くであろう。」という地元の人の言葉を信じ、カンダハルに引き返すことに。疲れがどっと出る。
手持ちのアフガニも底をつき、銀行で50ドル両替。
わずかの両替に2時間あまりかかる。
タクシーも往復分とられ1300Afの無駄な出費。
カンダハル・ホテル(4人部屋440Af)に宿をとる。
部屋に入るや全員ベッドに倒れ、気がつけば3時。
バザールでジャガイモ、タマネギ、キュウリ、トマト、リンゴ、モモを仕入れ、雑炊と赤だし、キュウリもみをつくる。腹がふくれ、元気を取り戻す。
「明日は大丈夫だろう。頑張ろう。」と気合いを入れる。
片山さんと小川さん再び買い出しに。
8時。今、素麺を茹でている。
藤沢さんはまた寝ている。小川さんはバザールへ出かける。
涙のクエッタへの道
8月20日(水)
昨日昼寝をしたためか、寝付きが悪かった。
小川さん、夜中に仕事をしていた。
しかし、昨日のカイバー・ホテルに比べ涼しい。
2時頃、蚊にさされ起きる。
5時半、起床。またもや下痢気味。
アレキサンダーが造った町といわれるカンダハルの旧市街、ゾールシャーに行ってみようと藤沢さんと出かける。ヘラートの方に向かって3キロばかり、南に折れた辺りにあるはず。半ばまで歩いたところで腹にさし込み。あきらめ引き返す。
片山、小川の両氏は、まだ熟睡。
7時現在、気温28℃。
9時、再びタクシーで、国境に向かう。ワジの水量が減り、道路沿いの水たまりも小さくなってはいるが、はたしてドリ川は渡れるのか気がかり。写真を撮す気にもならない。
昨日と同様、ドリ川を挟んで、足止めをくらった車列がある。まだ無理か。いや、それでも車の数は減っているようだ。
水かさも減っている。しかし、道路上を横切る流れは結構早い。
ドライバーが中に入って水深を測る。「1時間ばかり様子をみよう。」と。
直後、オートバイが1台、流れに突っ込み、渡りきった。
それを見たドライバーは、オートバイ同様、一気に渡ることに。
車内に少し水が入ったものの、エンストもせず無事渡りきる。
スピンボルダックの税関、髭の濃い官吏、めざとく万年筆を見つけ、「くれ。」と言う。断ると、「まあ、お茶でも飲んで、ゆっくり。」と、3人の荷物を開き、入念にチェック。「おまえは開かなくてもいい。」と差をつける。根負け。万年筆の代わりにボールペン進呈。
出入国事務所、税関のあるスピンボルダックから国境線まで約10キロ。ポリスに尋ねると「タクシーで1人10Af。」とのこと。ところが国境に着くや雲助ドライバーは4人で 100Af要求。無視し、国境ゲートへ。
パスポートをみせるだけでパキスタン入国。
国境には税関のみある。出入国事務所はチャーマンにある。
税関では荷物を開くこともなくパス。
チャーマンまではミニタク2台を利用。
出入国事務所前で、またもやドライバーとひともめ。乗る前の交渉では一台5ルピーと決めていたのに10ルピー要求。頭にきて怒鳴りつける。
様子を見ていたクエッタ行バスの車掌が間に入り、中をとり2台15ルピー払うことに。 しかし、タクシードライバーとのトラブルにはお手上げ。
藤沢さんと銀行へ行き、パキスタン・ルピーに両替。
支店長曰く「クエッタへバスで行くのは大変危険だ。豪雨のため主要な道は流され、迂回するため8時間かかる。明日7時には汽車がある。ベッドを提供するから、明日汽車で行け。」、「クエッタ、カラチ間の鉄道は不通になっている。飛行機ならあるが、便数は分からない。」と。
支店長の話に、二人とも目の前が真っ暗に。
アフガニスタンに戻ることもできず、帰国の時も迫っている。飛行機に賭け、前進するしかない。見通しのない中、不安が募る。
3時15分(パキスタン時間3時45分)、不安を乗せバスはクエッタに向け発車。
出発の時にすでに満員のバスに、新たな客と荷物がつぎつぎと乗り、屋根の上まで人と荷物を満載したオンボロバス。バスといってもトラックを改造したもの。馬力のでないエンジンは坂道にかかると煤を吐き、あえぐ。ノロノロ進まず。少し走ると、ポリスの検問を受ける。
迂回道は、ひどい道だ。幅は狭く、デコボコ。急崖沿いのヘアピンカーブ。狭い尾根道。車が谷底に転落しないのが不思議なほど。峠の尾根道では乗客は降りて歩く。女、子供そして外国人客の我々は、乗ったままでいいと言うが、恐ろしくて乗っておれない。
難所の峠越えで、安堵したのか、車内の空気も少し和む。広々とした高地草原を走る。入ってくる風もすがすがしく感じられる。
しかし、それもつかの間。再び急崖に沿う道に。
6時半、小川の畔でナマーズ(礼拝)停車。日も傾いた。
6時55分、オレンジ色の太陽が岩山の向こうに沈んだ。暗闇に包まれるまでの時間が短かく感じられる。
7時半、暗くなった谷間で、日没後のナマーズ。
どうやら難所は全て抜けたようだ。
スピーカーからパキスタンミュージックが鳴り出す。
耳元にあるスピーカーからボリュームを最大にした音が出されると、それはもうミュージックなどという生やさしいものではない。騒音にすぎない。発狂しそうだ。
そうでなくとも疲労と前途に対する不安で満たされている身体と頭には。
隣席の子連れの女、ブルカの裾から水が。我慢できず小水を漏らしたようだ。
息子と同じ年頃か。連れの男の子、時々触れるかわいらしい手の感触は息子と同じ。すっーと涙が落ちる。なぜこんな思いをしながら旅をしているのか自分が分からなくなる。
10時、やっとクエッタに着いた。
年配の車掌さん、「ホテルを紹介する。ちょっと待て。」と。
親切が身にしみる。
バスターミナルに近い安宿へ案内してくれるが、1軒目も2軒目も断られる。3軒目でやっと泊まれることに。しかし、ホテルとは名ばかり。2階の空き部屋は薄暗く、狭い。古びたベッドが4つ。真っ黒に汚れた寝具。異臭もある。
この時間、他のホテルを探すこともできず、手持ちのメロンを分け合い、ベッドの上にシュラフを広げ、倒れ込むように横になる。
一日で口にしたのは、ナン2切れ、リンゴ、モモ、チャイそしてメロンの切れ端のみ。
8月21日(木)
余りの寒さに早朝目が覚める。
足が痛い。昨日以来、かぶれから化膿の進んだ左足首、水泡から出る汁が止まらず、膿も溜まっている。大腿付け根のリンパ腺が腫れている。
全身、力が入らず。
しかし、カラチまでの足の確保、先決。
階下のチャイハナでミルクたっぷりのチャイ(ミルクたっぷり、実は曲者。チャーマンのチャイハナで見てしまった。泥水を沸かした湯で煮出した紅茶は泥の濁りがそのまま残り、とても口にできないが、ミルクを入れると、泥の濁りが分からなくなる。もちろん飲むと口の中に泥が残るが。下水の水のような泥水しか手に入らないようなところではミルクでそれを誤魔化す技法がある。)を飲み、ミニタクでPIAへ。
フロントに飛び込むや咳き込むように「今日のカラチ行に空席は?」と。返事は「ノーシート。」。やはり。がっかりしながら。「明日は?」と、再度聞く。「イエス。」。あった。空席があった。昨日からの不安と心配、一気に解消。力が抜ける。
これで予定通り23日の便で帰国できる。
安堵とともに、リラックスできるホテルに移ることに。
ホテル探しは3人に任せ、薄汚いロビーで荷物番。
あれこれ考えていると3人が帰ってきた。
広い庭のあるルーデスホテル。先ほどのホテルとは雲泥の差。
一日休養だ。
足の痛みとれず。
昼食に出かけたものの寒気がし、部屋に戻りベッドに。一人シーツをかぶり横になっていると自然に涙が溢れてくる。
気が弱くなっている。
最後になって大変な旅になった。
12時前に鎮痛剤、5時半に抗生剤を飲む。
薬が効いたのか、夕方になって、少し楽になる。
7時頃、庭に出る。ビールの小瓶(7ルピー)を頼むが、半分しか飲めず。
8時15分、レストランへ。
スープ(うまい)、ナン2切れ(この旅行では最後かと)、肉入りジャガイモ煮(缶詰のような味)、メロン、デザート(クッキー、レーズン、つぶしたバナナ)
9時過ぎには横になる。
8月22日(金)
朝、室温26℃。
クエッタは、夜間、肌寒いほど涼しい。昼夜の気温の較差が大きい。
6時半、目が覚める。足の痛みはとれず。しかし、気分はよくなった。
久しぶりの洗濯。
8時前、3人とも起床。
朝食、バター、マーマレードトースト、紅茶、コーンフレーク、インスタント赤だし。
食欲が出た。
9時過ぎ、小川さんと外出。
ホテル周辺は高級住宅地であり、文教・軍事地区。広い敷地の邸宅。緑が多い。
下町はどこも同じ。
バザールを歩く。果物屋にはマンゴーが山と積まれている。生きた鶏を売る露店。蛇を使った薬売り。
高級商店街はPIAのある付近か。土産物屋、本屋、薬屋、テーラー、スーパーマーケットもある。
1時間余り散策し、ホテルに戻る。
庭に出て、藤沢さんとビール大瓶1本空ける。
11時40分、荷造り。そしてチェックアウト。空港に向かう。
フィルドノートに書かれた日記はここで終わっている。
この後、飛行機でカラチに。カラチでは4年前に泊まったメトロポールで1泊。
やはり4年前、お世話になった日本航空のS君を訪ね、23日のルフトハンザ便の再確認をお願いし、夕食をともにする。
23日、カラチ空港には出発2時間前に着き、カウンターに。ところが再確認が入っていないと待たされ、結局定刻、我々は残されたまま飛行機は飛び立ってしまう。
ばかな。昨日、S君が確認してくれたはず。
ルフトハンザのカウンター、事務所で声を荒げ抗議。揚げ句、2時間遅れのKLMを手配してくれる。しかし、時刻表を見るとジャワ行。再度確認すると。バンコクでタイ航空に乗り換えて香港に行けという。乗り継ぎ時間、1時間弱。可能?
ともかく、KLMに乗り、バンコクへ。預けた荷物はそのままタイ航空に積み替えられ、何の問題もなく香港に着いた。
香港で1泊し、8月25日、伊丹空港に。全員無事、35日間にわたる大旅行を終えた。