全国高等学校体育連盟50年誌
 
 フェンシング専門部
                   [原稿]
 ・事務局所在地 〒404-8540    
        名古屋市千種区若水三丁目  
         愛知工業大学名電高等学校内
・創 立 年 度  昭和37年4月1日
 
・加 盟 校 数      325校 (H9年度統計)
 
・部  員  数 男 子 1,155名
         女 子 1,287名
 
        合 計 2,442名
 
年度
 
部  長 
 
副 部 長
 
  記   事 
 
37

39


 
40


47

48
49

51


53

54

55

57

59
 
後藤 甲 二




    
川村  等





長尾 正男













 
川村  等

     
     
     
     
長尾 正男





蜂谷 留吉
大沢 貞雄



蜂谷 留吉鈴木 省三
鈴木 省三倉本 一男
鈴木 省三村上 謹司



 
全国高体連への加盟

電気武器の使用始める
選手権賞メタルの授与
男子個人エペ・サーブ
ルの実施
後藤甲二先生名誉部長
に推挙

後藤淳先生名誉部長に
推挙
日韓交流試合開催
    〃

第1回全国高校選抜大
会の開催(個人フルー
レのみ)


専門部報創刊



日本協会ルールブック
発行
全国選抜男女各24チー
ムによる団体戦に変更
 
年度 部  長  副 部 長   記   事 
62

2

3

5

6


7


8


9


11
 




大澤 文男

佐部 成男










山川 靖仁



 
村上 謹司三井 朋文
     

稲村 隆郎
小久保敦央
山川 靖仁
奥田  明









半田 幸三
奥田  明

吉田喜久治奥田  明


個人対抗戦エリミナシ
ォン混合方式導入




インターハイ優勝旗・
トロフィーの新調
試合管理規定の作成
女子個人エペの実施
個人登録制はじまる
(日本協会)
電気サーブルの実施
全国選抜出場校男女32
チームに増やす
指導者講習会の実施
日本協会ルールブック
改訂版発行

 
1 「沿  革」
 高等学校におけるフェンシング競技のはじま
りについては、記録がなく、明らかではないが、
昭和26年(1951)第6回国民体育大会より、高
校団体・高校個人の種目が設けられており、フ
ェンシングの国体参加が高等学校におけるフェ
ンシング競技の普及に一役を担ったことが窺え
る。
 高等学校の全国規模の大会は翌昭和27年に仙
台市で開催されているが、当時は全日本フェン
シング選手権の一部門として男子学校対抗戦と
男子フルーレ個人対抗戦のみが行われた。分離
独立し、第1回全国高等学校フェンシング選手
権大会が開催されたのは昭和30年(1955)であ
る。記念すべき第1回大会も仙台市で開かれて
おり、この大会から女子学校対抗戦と女子フル
ーレ個人対抗戦が加わっている。
 昭和36年(1961)の第7回大会までは仙台・
新潟・名古屋・松山・京都・札幌・山口県和木
の順に開催されたが、開催地の決定、経費の捻
出、運営には市町村をはじめ地元の企業や篤志
家の多大な支援を得て行われていた。
 そのような状況の下、しだいに、全国高体連
加盟への気運が高まり、和木大会の期間中に参
加校指導者による話し合いと意思統一が図られ
た。大会後、早速規約を整備し、加盟申請を提
出した。その結果、昭和37年4月1日に正式に
加盟が認められ、全国高体連フェンシング専門
部が創立したのである。この間、当時名古屋電
気学園理事長・愛知工業大学学長・日本フェン
シング協会副会長の故後藤甲二先生の物心両面
でのご尽力は筆舌し難いほどであった。
 記念すべき全国高体連加盟後最初の大会は岡
山県新見市で開催された。この大会から男女学
校対抗戦の優勝旗と個人対抗戦の優勝盾が新調
され、その調製も、また、後藤先生によるもの
であった。初代専門部長となられた先生は、各
地に指導者を派遣されるなど、高等学校のフェ
ンシング競技普及にも努力された。
 昭和38年の徳島大会では電気審判器の導入が
検討され、翌年の名古屋大会から採用された。
しかし、多額の予算を必要とする電気武器用具
の購入は、各高等学校や開催地では難しく、当
初は、名古屋電気学園が貸し出し、運営を行っ
ていた。一方、この大会から、3位までの入賞
者に井上太郎画伯(一水会会員)に原型を彫っ
ていただいた金銀銅のメダルが授与されるよう
になり、現在も、選手権章として続けられてい
る。なお、全種目統一のメダルが授与されるよ
うになったのは昭和44年からである。
 各都道府県の参加チーム数・選手数を大幅に
制限する最初の規制が行われた昭和40年の大会
は別府で開催された。
 昭和41年(1966)の秋田大会からは男子個人
対抗にエペとサーブル種目が加えられた。
 昭和42年福井、43年福山、44年高崎、45年京
都、46年高松、47年仙台、48年名古屋、49年福
岡県篠栗、50年東京、51年長野県箕輪、52年新
見で全国高校総体兼全国高校選手権大会は順次
開催されている。その間、国際ルールの変更や
高体連独自の判断から女子の5本勝負の導入や
個人戦におけるプールやトーナメントの組み合
わせなど競技方法にいくらかの変更もあったが、
特に大きな問題もなく大会運営がなされた。
 昭和52年(1977)は専門部にとって特別重要
な年になった。40年代の終わり頃から関係者の
間で開催が求められていた全国高等学校フェン
シング選抜大会の第1回大会が、日本フェンシ
ング協会、愛知県フェンシング協会、名古屋電
気工業高校等のご協力とご援助により、3月、
名古屋において開かれたのである。当初は各都
道府県から選抜された男女各1名によるフルー
レの個人戦のみを実施した。男女各24チームに
よる団体戦が行われるようになるのは、昭和60 
年の第9回大会からである。会場もご厚意から
第8回大会まで名古屋電気工業高校の体育館を
使用させていただいていた。全国選抜大会が現
在のように地方を回るようになったのは第11回
の京都大会からである。国体やインターハイの
リハーサルの一つとして、また、地方の支部協
会や市町村のご厚意により今日まで中断するこ
となく開催されている。
 全国高校総体は昭和53年以降、昭和62年まで
の間に、寒河江、京都、高松、水戸、指宿、尾
張旭、秋田県二ツ井、松任、福山、苫小牧で開
催された。その間には、副部長として大会運営
にご尽力いただいた大沢(千葉)、蜂谷(京都)、
倉本(山口)諸先生が定年でご勇退になられる
とともに 年には副部長の鈴木省三先生が地元
秋田県二ツ井町での第30回大会を見事に成功さ
せた後、現役のままご逝去なされた。
 
2「10年の歩み」
 @全国高校総体・全国委員会・常任委員会 
 専門部の最高決議機関である全国委員会と業
務の執行に関する事項を審議する常任委員会は
昭和 年に専門部の規約が定められて以来、毎
年全国高校総体の期間中に開催されている。ま
た、常任委員会は毎年2回以上部長が招集する
ことになっているが2回目の委員会は毎年2月
末か3月のはじめに招集されている。
 昭和63年(1988)の全国高校総体は和歌山で
開催された。この大会から要項に図解した武器
用具留意事項を入れるようになった。武器用具
の検査は、選手の安全を守り、公正でスムース
な試合進行を行うために、大会運営上欠くこと
のできない業務になっているが、点検項目を増
やし、安全性を確保し、相手の選手に不利益に
なるような用具を厳重にチェックするようにな
ったのは60年に神戸で開催されたユニバーシア
ード大会の影響が大きい。なお、高体連では平
成8年よりそれまで使用してきた武器検査とい
う名称を用具検査に変更した。
 平成元年(1989)は昭和46年と55年の2度大
会を引き受けられた香川県高松市で3度目の大
会が開かれた。平成2年は、かつて日本フェン
シング協会の理事長をなされていた千葉卓朗氏
が町長をなされている宮城県本吉町で、3年は
高体連専門部で創立期から常任委員をなされて
きた長尾富雄先生の地元、沼津市での大会開催
であった。
 3年の沼津大会期間中に開かれた全国委員会
では、長年本専門部の部長を務められた愛工大
学名電高校の長尾正男先生が勇退され、新たに
同校の大澤文男先生が選出された。同時に副部
長の大阪清風高校の村上謹司先生、札幌山の手
高校の三井朋文先生も勇退され、仙台育英高校
の稲村隆郎先生、大東文化大第一高校の小久保
敦央先生が選出された。
 4年は宮崎県国富町、5年は栃木市での開催
であった。
 5年の栃木大会の期間中に専門部の役員改選
が行われ、部長には福井県立羽水高校の佐部成
男先生が、副部長には岡山県立玉野光南高校の
山川靖仁、愛工大名電高校の奥田明先生が選出
され新執行部が成立した。また、全国委員会で
は、常任委員会で2年間、検討・審議されてき
た専門部規約の全面的な改定が承認された。
 6年(1994)は富山県婦負町で大会が開かれ
たが、この大会から、製作以来40年余りの年月
に老朽化が進んでいた持ち回りの優勝旗やトロ
フィー類を新調し、授与するようになった。
 試合管理規定の作成や全国高校総体の審判に
高校の先生を積極的に採用するなど長い間懸案
になっていた問題解決に一歩踏み出したのも婦
負大会からである。
 7年の島根県安来市での大会からは、女子個
人エペが競技種目に加えられ、種目の上では国
際大会並みの大会になった。大会期間中に平成
8年度からのサーブルの電気化や新ルールの適
用などが決められ、日本フェンシング協会の個
人登録制度の導入も専門部としての了承が得ら
れた。
 8年は甲府市で大会が開催されたがこの大会
から学校対抗戦の3、4位決定戦は行わず、3
位校を2校にするようになった。また、新ルー
ルの導入により、個人対抗戦のエルミナシオン
・ディレクトは15本勝負が行われるようになっ
た。サーブルの電気化に伴い、故障等に備え、
用具を貸与する制度も設けた。
 その他にも、甲府大会での全国委員会では、
役員改選の時期について、規約に基づく、常任
委員会での部長・副部長の推薦については、年
度末の常任委員会で行うことが了承された。
 9年2月の常任委員会では次期部長として副
部長の山川靖仁が、また副部長として新たに札
幌光星高校の半田幸三先生が推薦され、8月の
京都府大山崎での大会期間中に開催された全国
委員会で承認された。同時に規約の改正も認め
られ、役員改選年度には全国委員会を3月にも
開催できることになった。ブロック代表の常任
委員の選出についても東京ブロックを削除し、
11ブロックから10ブロックになった。
 長い間の懸案事項であった専門委員会の設置
も了承され、委員会規定を決め、早速、総務委
員会、競技委員会、強化・普及委員会の3委員
会が発足した。
 強化・普及委員会では、11月、神戸市で、同
志社大学の田淵和彦、藤澤義彦両教授を講師に、
二泊三日の指導者講習会を実施した。競技委員
会も10年1月に鳥羽市で委員会を開催し、全国
大会の競技運営やルール上の問題などを検討し
た。総務委員会では特に広報活動を重視し、部
報の定期的発行と内容の充実に力を入れている。
 
 A全国高校選抜大会
 第11回大会から開催地が全国各地を巡回する
ようになった全国高校選抜大会は、昭和63年、
12回大会が東京で開催された。同大会の優勝校
は男女共に秋田県の合川高校であった。13回大
会以降については、13回(平成元)開催地岩国
市、優勝男子合川高校・女子美萩野女子高校、
14回(平成2)開催地宮城県本吉町、優勝男子
羽島北高校・女子美萩野女子高校、15回(平成
3)開催地沼津市、優勝男子羽島北高校・女子
甲府湯田高校、16回(平成4)開催地別府市、
優勝男子羽島北高校・女子甲府湯田高校、17回
(平成5)開催地千葉市、優勝男子米沢東高校
・女子甲府湯田高校、18回(平成6)開催地青
森県今別町、優勝男子富山西高校・女子岐阜女
子商業高校、19回(平成7)開催地和歌山市、
優勝男子愛工大名電高校・女子美萩野女子高校、
20回(平成8)開催地長野県箕輪町、優勝男子
和歌山東高校・女子美萩野女子高校、21回(平
成9)開催地栃木市、優勝男子粕屋高校・女子
氷川高校、22回(平成10)開催地札幌市、優勝
男子大垣南高校・女子鹿児島南高校であった。
 第9回大会に団体戦になって以来、1回戦は
全国9ブロックで選抜された男女各24校を3校
ずつ8つのグループに分けプール方式(リーグ
戦)で試合を行い、2回戦以降は各グループの
上位2校、計16校によるトーナメント戦によっ
て順位を決定してきた。しかし、第 回大会か
らは出場校を32校にすることが認められ、1回
戦は4校によるプール方式で試合が行われるよ
うになった。また、3、4位決定戦を行わず、
3位校を2校にしたのも 回大会からである。
 
3「将来に向けて」
 本専門部加盟校・登録人数は平成10年2月現
在、325校、2,442名である。平成元年頃には加
盟校が360校、登録人数が3,700名余りであった
ことを思うと、この10年間に加盟校はそれほど
減少していないものの登録人数は大幅に減少し
フェンシング競技そのものの存続すら危ぶまれ
る状況である。少子化に伴う高校生の減少や高
校生のスポーツ離れなどその原因はいろいろと
考えられるが、専門部としての最大の課題は加
盟校を増やすと共に競技人口を増やすことにあ
る。
 現在1県1校の県が4県、県高体連未加盟の
県が3県あり、当面これらの県において積極的
に普及活動を行い少なくとも全国高校総体の学
校対抗戦には 都道府県全てから出場校がある
ようにしなければならないと考えている。
 専門部の飛躍にとってもう一つの課題は、海
外の選手・指導者との交流や国際的な試合への
参加である。昭和 年頃韓国との交流試合を行
っていたが、資金不足もあり短期間で途絶えて
しまった。フェンシング先進国であるヨーロッ
パの国々は勿論、近隣の国々とも定期的な交流
がもてれば競技力の向上に役立つばかりでなく、
選手の励みになり、専門部の活性化にも大きく
寄与するものである。国際化の波に乗り遅れる
ことがないよう努力する必要がある。
 これらの課題を解決するにはまだまだ大きな
壁が立ちふさがっているが、専門部の発展のた
めにも、21世紀に向け是非とも解決しなけれ
ばならないことである。
 ※後藤コウ二先生のコウは金へんに甲です。