「慟哭の大地」 |
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11 頭道河子・海林・拉古収容所 |
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拉古駅 |
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この時の記憶が鮮明な神原君恵さん(エミ子さんの叔母)は、横道河子収容所の様子を 次のように語ってくれた。
「龍爪開拓団も解散して、200名ぐらいになって下山しました。ソ連兵に『ダワイ・ダワイ』と せき立てられて、畜舎に入りました。その時は、姉のきしのと私とエミ子と3人になっていました。 私は、武装解除した日本兵が何人も銃殺されているのをここで見ました。そして、翌日ソ連兵が 次々と日本の若い女性を連行し、強姦しました。抵抗して殺された人もいれば、気が変になって 帰ってきた人もいました。私も、丸坊主にし、顔に墨を塗りました。姉きしのも顔に泥を塗りました。 私は14歳でしたが、背も低かったので小学生ぐらいに見られたと思います。だから助かりました。 横道河子では、5日前後いたように思います。その間、日本兵は一人もいなくなりました。 シベリヤに送られたのでしょうか。その後、拉古収容所に移りました。」
高見進さんは、食糧をさがしていて家族とはぐれ、先に収容所に着いた。遅れて父の敬市、 母のコメ、英夫さんや弟・妹にそこで出会った。
「収容所に連れられて行きました。そこで、トウモロコシのお粥を食べました。収容所に着いた 2日目の夜、ソ連軍の兵士たちが収容所に女捜しに来ました。彼らは女だったら誰でも連れて 行って強姦しました。母は、髪を坊主にしましたが、子どもたちに小さい声で話した一言で、 女だと言うことがばれて連れ去られました。母が連れ去られた次の日、私と兄2人はあちこち 母を探し回って、最後に山の中で母を発見しました。母は苦しくて、収容所に帰ろうとしませんでした。」 (英夫氏の『私の経歴』)
牡丹江からハルビンに向かって、鉄道は拉古・海林・横道河子と駅が続く。今回の旅行では、 拉古収容所へ行った。駅から数100mも離れていない小さな河の近くであった。当然、当時の収容所の 建物は残っていない。
再び、神原君恵さんの証言が続く。
「何日いたか覚えていないんですが、拉古収容所の近くに、小さな河がありました。久しぶりに
洗濯をし、河の水を飲みました。畑のものを盗み食べました。そうそうそこで大根の葉を湯がして
食べた記憶があります。」
私たちが行ったときも、河で2人の女性が洗濯をしていた。母きしの、エミ子さん、君恵さんは 海林収容所に移されて、2〜3日いてハルビンへ無蓋列車で向かった。拉古・海林収容所では、 ソ連兵による乱暴なことはなかったと話してくれた。
拉古収容所跡と近くの河 |
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