慟哭の大地20
「慟哭の大地」

20 中国残留日本人孤児裁判 

 2004年2月20日、岡山地裁に中国東北部で親と離別(死別)した中国残留日本人孤児(以下残留孤児)が 国家賠償を求めて提訴した。「日本人として人間らしく生きたい」という切実な願いがそこにあった。 高杉久治団長を中心に香川県の残留孤児も含め26人が訴えた。現在、日本に帰国した中国残留日本人 孤児は約2,519人(厚労省資料)といわれているうち、その9割に近い約2,156人が「普通の日本人として 人間らしく生きる権利」を求めて210億円の損害賠償を求めて訴訟に加わっていた。中国残留日本人孤児の 約7割が生活保護法の支給を受けているのが現状である。

 2005年7月の大阪地裁判決から始まって、神戸地裁、東京地裁、徳島地裁、名古屋地裁、広島地裁、 札幌地裁、高知地裁と8件の判決がおりた。原告勝訴は、神戸地裁判決のみで1勝7敗という結果であった。 裁判では、大きく分けて、中国残留孤児への「条理(先行行為)に基づく作為義務」があったかどうか。 「早期帰国義務違反」があったかどうか。「自立支援に義務違反」があったかどうか。「帰国妨害」が あったかどうか、この4点が、焦点となった。
 @ 旧満州国への開拓団や義勇軍の送出は、国策によってなされたか。
 A 開拓団をなぜ無防備な状態にして、ソ連の侵攻後、悲惨な逃避行をせざるを得なかったか。
 B その後、中国に残留した邦人(婦人・孤児)の歴史的背景を理解しているか。
 C 戦後なぜ残留邦人の集団引き揚げを、国は速やかに実施しなかったか。
 D 残留孤児が、子どもとして育てられる中で、過酷な家庭労働に従事し、十分な教育を 受けさせてもらえなかった。また、文化大革命の時に日本人として精神的・肉体的苦痛を受けたことを 理解しているか。(その間、戦時死亡宣告を受けた)
 E 日中国交回復後も、なぜ速やかに国は残留邦人を帰国させることができなかったか。
 F 1981年以降、訪日調査後帰国することができたのに、国は身元判明の有無、親族の同意、 国籍など早期帰国を妨害したか。
 G 残留孤児にたいして、社会適応指導、日本語指導、きめ細かな就労支援など自立支援をしたか。 また、北朝鮮拉致被害者への自立支援と比べて貧弱でないか。 大きく分けてこの八点が問われた。

 冷酷な判決が下された大阪地裁・東京地裁・札幌地裁。大阪地裁では次の判決文がでた。

 「戦中及び戦後において、国民のすべては多かれ少なかれその生命、身体、財産上の犠牲を耐え 忍ぶことを余儀なくされていたのであるから、戦争損害は国民がひとしく受忍しなければならないものであり、 このことは被害の発生した場所が国内又は国外のいずれであっても異なるものでない。」

 賠償という点では敗訴ながら、温情判決が下された徳島地裁、名古屋地裁、広島地裁、高知地裁。 徳島地裁では、次のような判決文がでた。

 「原告ら中国残留孤児ないし中国残留婦人を生み出す原因の一つに関与したという立場や人道上の 観点から、前記のような困難な状況にある原告ら中国残留孤児ないし中国残留婦人が自立した生活等を 送ることができるよう、できる限り配慮をすべき政治的責務を負っている。」

 唯一勝訴したのは、神戸地裁である。次のような判決文がでた。

 「戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は、自国民の生命・ 身体を著しく軽視する無慈悲な政策であったというほかなく、憲法の理念を国政のよりどころと しなければならない戦後の政府としては、可能な限り、その無慈悲な政策によって発生した残留孤児を 救済すべき高度の政治的な責任を負う。」

 「厚生大臣(又は厚生労働大臣)は、過失により、帰国孤児に対する自立支授義務を懈怠したと いうほかなく、被告は、国家賠償法1条により、その義務懈怠によって原告らに生じた損害を賠償する 責任を負う。」

 高見英夫さんは、原告団事務局長横山耿生さんが2005年7月に交通事故で死亡された後、 原告団事務局長に就任した。その後の英夫さんは、各地の裁判所での傍聴、ビラまき、署名活動など 精力的に活動された。英夫さんの人生が、山陽新聞の連載記事になり、世論の喚起に大いに貢献された。 岡山地裁原告団長の高杉久治さんは、裁判を次のように総括した。

 「本当に裁判をして良かった。勝ち負けより、多くの日本人に中国残留孤児の実情を理解してもらえ、 日本語教室などを開いてくれた。餃子作りなど日本人との交流もすすんだ。この裁判をおこして いなかったら、私たちは老後の不安をいだき、狭い人間関係の中に閉じこもっていたでしょう。」


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