慟哭の大地25
「慟哭の大地」

25 おわりに 

 2007年8月6日から12日までの7日間「慟哭の大地―岡山県龍爪開拓団の足跡を訪ね、日中友好を はかる旅」は、目的を果たして無事帰国した。

 『慟哭の大地』は、96年『悲劇の大地』、99年『悲劇の青春』、05年『緑の大地』と4部作の姉妹編である。

 今回の旅の目的は、中国残留日本人孤児裁判が、1勝7敗と判決が出た。判決には冷酷判決も あったが、賠償請求は退けたけど、「政治の責務」という温情判決もあった。岡山地裁の結審が9月6日と 日程が決まる中で、その援護射撃になればと思い春から企画した。7月9日の与党PTによる「新たな 支援策」を受け入れることで大きく事態は進展した。

 「現場」を見て、一人でも「理解」を伝えていくことはこれからも大切だ。

 今回の旅を企画し、さらに報告集『慟哭の大地』をつくるにあたって、気を使った点は「史実」である。 残留孤児の「記憶」を検証することは特に大事なことであった。8歳という年齢で、次々と「異常な悲劇的 事態」がおきたことは「事実」だけど、日時も地理的な位置もどこまでが「史実」なのか。たとえば、 「父の死」「母の死」「兄弟姉妹の死」は、「絶対記憶」である。しかし、その際の「感情記憶」は、子どもの 視点と大人の視点では思い違いがおこることがある。

 船越美智子さんは、「当時18歳の自己体験」だけを信じている人ではない。彼女は、龍爪開拓団の 関係者を訪ね、引揚げた人から聴き取り、複数の関係者の証言を付き合わせ、役場で戸籍まで確認した。 それを『第六次龍爪開拓団の足跡』としてまとめられた。龍爪開拓団跡にも訪問調査をした。 『一億人の昭和史―続満州』にも紀行文も書かれている。

 80歳という年齢ながら、美智子さんは現在に至るまでその流暢な中国語を使い、中国残留孤児の 自立支援ボランティアや身元引受人、さらにニューカマーの中国人の世話などの幅広い支援活動を されている。船越美智子さんの調査や当時14歳だった神原君恵さんの証言をふまえて、「史実」に迫った 報告集『慟哭の大地』になった。

 たとえば、高見英夫さんは母のコメさんの亡くなった場所を長春(新京)の勝利公園という。 その感情記憶は、大切にしたいとは思うが、「史実」としては、怪しい。君恵さんは、高見敬市、コメ、 進、英夫さんの4人と瀋陽(奉天)の春日小学校で再会したという。

 「お姉さん(コメ)は、春日小学校に来てすぐ亡くなりました。昭和20年の11月初めでした。 すごく痩せていて栄養失調でした。春日小学校の校庭で血を吐いて倒れました。 結核になっていたのでしょうか。近くの防空壕へ埋葬しました」と、君恵さんは語った。

 龍爪開拓団の記録にも、コメさんの死亡場所は春日小学校となっている。

 「長春(新京)では、妹さんが亡くなったのではないでしょうか。当時8歳の英夫さんにとって お母さんをはじめ相次いで弟や妹が亡くなったショックがあまりにも大きかったのではないでしょうか。 残留孤児の人たちに、すべて正確な時間や地理的なことまでを求めることは無理でしょう。」

 「でも、高見英夫さんは、その記憶を信じているのでそっとしてあげておいて下さい。」と、 記録を書いた船越美智子はいう。

 94歳の姉きしのさんにも尋ねてみた。
 「妹のコメさんが亡くなった所はどこ?」
 「春日小学校」と、はっきり答えた。

 高見英夫さんの「母の死の感情記憶」があって、それは「事実」であるが、「勝利公園での死亡場所」は、 「史実」とは限らないということを理解してほしい。

 今回の旅に、高見英夫さんや織田エミ子さんが参加していただけたのは、この旅を成功させるのに 必要だった。あとは、高見英夫さんの旅費の工面だけだった。幸いにも、岡山高教組からこの企画を 「教研活動」としての取り組みにしてもらい、多額の援助を頂きました。また、岡山十五年戦争資料 センターからも援助を頂いた。後の不足分は、私の方で補った。

 今回の旅は、日中友好をはかる目的があるのでその趣旨を理解してもらい、参加者からは5,000円 ずつカンパしてもらった。アジア・コミュニュケーションズからも寄付を頂いた。龍報希望小学校へ21世紀の 日中友好の架け橋を期待して教育上の寄付を申し出た。2年前のスポーツ道具は今も使ってくれていたが、 傷みが激しく、古くなってきていたので、新しいサッカーボールやバスケ・バレーボール、バトミントンなど 寄贈したところ大変喜んでくれた。

 岡山弁護団の奥津弁護士や則武弁護士や秋山弁護士をはじめ、多くの弁護士にお世話になった。 また、山陽新聞社の瀬尾由紀子記者にも織田エミ子さんを紹介していただくなど、精神的にも色々 お世話になった。心から、お礼を申します。

 最後に、アジア・コミュニュケーションズの松井三平社長、今回添乗してくれて流暢な中国語を 駆使して、私たちの無理難題要求に応じてくれた西上普美さん、ありがとうございました。 西上普美さんは、女性らしいきめ細やかな配慮で、八名の女性参加者から喜んでいただいた。 お世話になりました。


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