1 はじめに

 2003年の6月6日に有事法制が成立し、7月26日にイラク特借法が成立した。

 日本国憲法制定56年目にして「憲法の理想」とは遠く隔たる「有事立法」や「イラク特措法」が国会を次々と通過した。日本の政府は対米戦争協力を打ち出したが、日中戦争という「歴史の教訓」から何を学んでいるのだろうか。「首都」を占領後でも安全な「後方支援」が存在すると思っているのだろうか。「暴戻支那の膺徴」という「大義」なき戦争が、中国民衆の抵抗を招いた歴史を忘れたのであろうか。

 イラク特措法の骨子は、「自衛隊は、戦闘がおこなわれておらず、活動期間中もその見込みがない『非戦闘地域』で活動する」「自衛隊の活動は、イラク国民への人道・復興支援と、治安維持にあたる米英軍への後方支援の2分野」となっている。

 第五師団第一建築輸卒隊の任務や役割や活動を分析していく中で、戦争を知らない世代に、「後方支援」の実態を知ってほしいと思う。

 『陣中日誌』の研究その1では、1937(昭和12)年広島県中心に召集された第五師団の渡部中隊の軍編成から、上海から南京攻略前後の様子と、杭州での1938(昭和13)年7月までの約半年間の滞在中の任務や、兵士の病気などの視点から分析した。

 『陣中日誌』の研究その2では、1938年8月から12月までの武漢攻略の「後方支援」と、その間の兵士の様子を多方面から分析してみたい。

 長江(揚子江)沿岸の安慶を占領したのが6月13日、漢口が陥落したのが10月26日。渡部部隊に「九江に推進せしめ」と中支派遣軍から命令がでたのは9月7日であるから、前線で戦っていない。武漢作戦は、第2軍の第3師団、第10師団、第13師団、第16師団と第11軍の第6師団、第9師団、第27師団、第101師団、第106師団など、総兵力約50万人で攻略した。この戦いで、戦病死者約7,100名、負傷者約25,000名もでた。『戦史叢書』によれば、多くの兵がマラリアにかかり、コレラも発生した。

 第2軍の大別山脈の戦いや、第11軍の長江(揚子江)にそった廬山会戦や田家鎮の戦いなど、悪戦苦闘している。

 第五師団第一建築輸卒隊が、3ヶ月遅れで「後方支援」に出かけることは、上記の師団からすれば、「輜重、輸卒が兵隊ならば、蝶やトンボも鳥のうち」と揶揄されるゆえんである。しかし、この「後方支援」の実態があきらかにされないまま日中戦争を語っても、それは戦いの意義は語れても、戦いの全体像が明らかになったわけではない。

 第五師団第一建築輸卒隊が、武漢攻略の「後方支援」でたどった日々を『陣中日誌』の中から分析していきたい。


 
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