3 杭州から南京へ

 「渡部部隊ハ、一ケ分隊ヲ杭州ニ、江湾宿舎ニ約一ケ班ヲ残シ、主力ヲ持ツテ南京ニ至リ、南京支部・指揮ヲ受クベシ」と、8月4日に命令を受けた。第2分隊が残留したのは、8月2日に「海寧東方八キロの地点における堤防復旧工事」のためと思われる。

 第1分隊及び第3分隊は、上海江湾舎営地に到着した。ここへ8月8日まで滞在する。この間、「皇国日本精神発揚の地、廟行鎮爆弾三勇士の墓前を参拝」している。一部先遣隊が南京へ派遣されている。隊の現員表を見ると、総数301名、入院23名、杭州106名、南京先遣隊5名、内地出張1名、上海166名となっている。

 8月9日、南京に列車で移動した。南京中山北路外交部前宿営地である。南京の城内の中央部で玄武湖の玄武門に近い。ここで、南京野戦病院の設備作業や、自隊の炊事場や浴室を作っている。ところが、第3師団の宿舎係の箕島少尉から「現在の隊の舎営せる家屋付近に外国権益に関係する部分あり」という指摘を受ける。        

 <南京関係地図>

 中山北路の西側は確かに、「国際安全区」と当時の地図上にある。8月26日に、「南京警備司令部命令により隊は宿舎の移転」を受けている。旧外交部の近くで、中山北路と鉄道の間に位置する。この間、通常作業をしたり、21日に中山陵を見学したり、外出許可の休暇があったりしている点からも、南京の町は落ち着いている感じがする。

 甘味がほしいということで、現地でタバコ・菓子・サイダーを購入している。市場も動いており物資もあったことが感じられる。

 『戦史叢書』によれば、8月22日に、大陸命第百八十八号で、「中支那派遣軍ハ海軍ト協同シテ漢口付近ノ要地攻略占領スヘシ」と命令がでた。

 8月29日に第2分隊も杭州から合流し南京に到着した。

 9月7日に南京本部から「第五師団第一建築輸卒隊ハ速カニ其ノ一ケ分隊ヲ九江ニ推進セシメ中支那派遣軍戦闘司令場設営工事ヲ実施スヘシ」と命令がでた。

 9月7日といえば、第2軍が大別山地の富金山や固始付近で悪戦苦闘している。第11軍方面の九江は7月末には占領したものの、廬山・瑞昌・広済・田家鎮で激戦のさなかであった。「後方支援」とはいえ、長江(揚子江)には、機雷があり、両岸から攻撃してくる危険性があった。

経緯表
1938年(昭和13年)
8月5日杭州より、上海へ
第1・3分隊のみ、第2分隊杭州残留
8月9日上海より南京へ
8月29日第2分隊南京へ
9月7日第3分隊九江へ
9月18日9・18警戒体制へ
9月28日第2分隊安慶へ
9月30日渡部孫夫少尉は中尉に
10月26日漢口陥落
11月1日漢口へ先遣隊
11月12日第1分隊漢口へ
12月1日宋埠へ派遣隊
黄破へ派遣隊
1939年(昭和14年)
1月1日本隊は漢口、第2分隊安慶
1月9日本隊漢口を出発
1月11日本隊は安慶、第1分隊漢口
5月9日本隊は南京、第1分隊漢口



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