7 漢口の兵站部慰安所

 当時漢口には、有名な軍人慰安所が2カ所あった。積慶里と六合里である。積慶里は、日本人・朝鮮人慰安婦がいたところであり、六合里は中国人慰安婦がいた場所である。中央大学の吉見義明教授の『従軍慰安婦』(岩波新書)にも、日大教授の秦郁彦教授の『慰安婦と戦場の性』にも出てくる。後者には、特殊慰安所要図や概略や風景画も出てくる。担当の慰安係長だった山田清吉中尉と軍医の長沢健一軍医中尉、兵站司令官だった堀江貞雄大佐の回顧録が出典である。

 「1938年10月、占領直後の漢口に乗り込んだ兵站の設営隊は、300人ぐらいの慰安婦が入れる場所を確保せよという、兵站司令の命令を受けて、候補家屋を捜し、68軒の2階建て家屋が連なる積慶里という場所を確保した。まわりが塀で囲まれており、交通の便もよいことからここが軍慰安所となった」『従軍慰安婦』(P131)

 「漢口は中国本土のほぼ中央に位置する大都市で、隣接する武昌、漢陽とあわせ武漢三鎮とよばれた。激戦の後、中支那派遣軍(第二軍と第十一軍など)が占領したのは1938年10月26日だが、軍は南京事件の再発をおそれ、軍規の引き締めを強化するとともに、11月には早くも漢口中心部の積慶里に、慰安婦300人を収容できる軍専用慰安所を開設する。」『慰安婦と戦場の性』(P90)

 同書には、「漢口から少し離れた駐屯地には積慶里から輪番で出向させる方式も採用された」とあるが、第五師団第一建築輸卒隊第1分隊宋埠派遣隊の「兵站慰安所」の補修・設備作業は、「漢口から少し離れた駐屯地」のひとつと考えられる。「ふたつの軍直営の慰安所が開設されていた。そのひとつは『兵站の経営するもの』であり、もうひとつは『軍直轄部隊の経営するもの』だった。」『従軍慰安婦』(P25)

 第五師団第一建築輸卒隊が杭州で建設した「憲兵慰安所」というのが「軍直轄部隊の経営する」ものなら、漢口から少しはなれた宋埠の「兵站部慰安所」は「兵站の経営するもの」だった。

 宋埠は大別山地を越えて、第13師団と第16師団が10月26日に占領して、京漢線の通る花園駅へと向かった。宋埠はその兵站基地のひとつであった。その周辺に高度分散配置している部隊(分隊)が、兵站として戻ってくる場所である。そこの兵站部慰安所を補修したものと考えられる。

 第一分隊宋埠派遣隊山本軍曹以下20名は、12月1日自動車3台で向かった。宋埠の作業は、第13師団山本旅団司令部司令官室や高級副官室の整備や野戦病院の整備や兵站病馬廠の設置などであった。兵站部慰安所補修作業の記述が見られるのは、12月15日〜19日の5日間である。隊員は4名・9名・5名・5名・5名と作業に従事している。


 <陣中日誌より>

 第一分隊宋埠派遣隊は、12月25日に黄陂の第一分隊に戻り、26日に第一分隊全員が漢口の本隊に戻った。黄陂の作業は、第13師団の倉庫や野戦病院の病棟補修整備だった。ここには、兵站部慰安所の記述はない。漢口に約20キロと近いからであろう。



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