10 おわりに

 『陣中日誌』の研究その1で書いたように、中国の現地を尋ねて検証したい気持ちはあったが、SARSなどの騒ぎの中でそれは実現しなかった。しかし、日本の中で出来るだけのことを試みた。三点紹介する。

 第一に、夏に上京した機会に恵比寿駅近くの「防衛庁図書館史料閲覧室」に出向いた。係の司書(研究員)の人に協力を仰ぎながら、第五師団の第一建築輸卒隊の『陣中日誌』があるかどうか捜してもらったが、それはなかった。たぶん私の手元にある『陣中日誌』が唯一残存しているものと考えられる。次に1937(昭和12)年から1938(昭和13)年にかけて上海から南京へと攻略した類似部隊はないかを捜した。上海から嘉興―湖州―秣陵関から南京の中華門へと攻めあがった「輜重兵百十四聯隊第一中隊」の『陣中日誌』があった。飯島剛中尉が中隊長のものであった。

 第二に、第五師団第一建築輸卒隊の関係者をさがすことであった。『岡山の記憶』4の私の論文を持って広島の中国新聞を尋ねた。以前から「強制連行」などに関心を示していた編集局の岩崎記者に話を聞いてもらった。「広島は原爆には関心が高いのですが、戦時兵士のことには関心が薄いところがあります」といいながら取材していただいた。8月15日に紙面の三分の一を占めるスペースをとって、私の顔写真付きで『陣中日誌』の研究を紹介していただいた。

 反響は1通のみだった。「昭和14年4月8日、広島の輜重兵第五聯隊団補充隊現役兵として入隊、昭和16年12月まで在隊し、現役満期除隊して帰国しました」という内容の手紙が、8月17日広島県竹原市に住む渡橋さんという84才(大正8年生まれ)の人からあった。私が竹原市の安田病院を尋ねたのは、8月31日になっていた。息子さんが付き添いにおられて、「4〜5日前から調子が悪くなって」と言われた。脳梗塞で治療入院中であった。私と会話が出来る状態ではなかった。一方的な話しを断片的にしか出来なかった。「私は第2中隊で自動車部隊だった。渡部中尉は典型的な軍人として尊敬していた。私をかわいがってくれたので徐々に人間的な尊敬に変わっていった。」「渡部中尉とはどこであったのですか」という質問には、「漢口と上海であった」といった。

 『陣中日誌』の中に渡橋さんの名前は出てこない。第五師団第一建築輸卒隊の隊員ではない。そして、それ以上のことは聞き取りできなかった。

 今後も粘り強く関係者を捜していきたい。


 『戦史叢書』付録地図より
 第五師団第一建築輸卒隊関係地に〇印をつけた。



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