2 漢口から安慶へ 

 1939年(昭和14年)正月、第五師団第一建築輸卒隊の本隊は漢口の舎営地にいた。 第二分隊は安慶にいた。漢口では、隊員は新年の分配品(酒・タバコ・甘味品)をもらったり、 外出したり、武昌の戦跡を見学している。1月7日までは、中山公園で陸上競技会に出たり、 載家山に行軍にしたり、敵陣地跡を見学したり、「治安」は安定した状態でくつろいでいる。

 1月8日、「隊ハ明九日左記計画ニ依リ漢口出発安慶ニ前進セントス」という命令が出た。 9日、第一分隊77名を残して、輸送船第十福栄丸と荷物船桃丸に133名が乗船した。10日早朝 漢口を出発し、11日午後7時に安慶沖に到着した。

 漢口に77名を残して、入院など13名を除き、225名が安慶城外の知覧部隊東側舎営地に 滞在することになった。安慶の「治安」に関して、「当方面ノ敵情ハ概ネ平穏ニ推移シツツ アルモ城外七、八粁ノ地点ニハ便衣又ハ敵正規兵出没ス」とある。

 安慶では、城内外の病院棟建設に従事した。主食、甘味料、生野菜、生魚、生肉5日分が 配給されている。13日、第二分隊二班と佐藤班43名に大通へ出発の命令が来た。16日、第三 分隊第一班第二班41名に彭澤派遣命令が出た。大通も彭澤も長江(揚子江)上流沿岸都市で ある。彭澤へは、安慶から中国人大工と苦力30名を同行させている。彭澤へは、4月22日まで いて、安慶に戻った。『戦史叢書』の地図と当時の読売新聞紙上位置を確認してほしい。

 2月9日、漢口にいた第一分隊小川(仮名)軍曹以下51名に「二萇口への転進」命令が出た。 この分隊も、3月4日に漢口へ戻ってくる。

 5月2日、安慶本部と、大通にいた分隊にたいして、「第百十六師団ノ命令ニ依リ隊ハ 第一野戦建築部長ノ指揮下ニ入ラシム」と命令を受けて、漢口の第一分隊を残して、本隊は 5月10日に南京へと向かった。


 『戦史叢書』付録地図より
 第五師団第一建築輸卒隊関係地に〇印をつけた。



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