12 おわりに

 日中戦争・南京事件がおこって70周年を過ぎても、日中両国民の記憶の傷跡がいまだ 消えていないように見える。この第五師団第一建築輸卒隊の『陣中日誌』の中から見えてきた 日中戦争を総括しておきたい。

 第一点、戦争は、戦闘がすべてでない。兵站こそ、戦争そのものであると、『陣中日誌』は、 繰り返し語っているように思う。戦場の中では、歩兵による攻撃といった側面だけでなく、 食糧、医薬、建築、燃料、資材、輸送、衣料など後方支援のどれを欠いても戦争にはならない。 「現地調達」といった安易な発想や充分な補給なき戦線拡大が「悲劇」をうむ原因となる。 旧陸海軍では「輜重、輸卒が兵隊ならば、蝶もトンボも鳥のうち」と揶揄する考え方が背景に あったが、日本軍のそれが「弱点」「欠点」であったことはこの『陣中日誌』が繰り返し語って いる。

 第二点、「戦争」は、銃撃や砲撃といった戦闘で戦死するだけでなく、兵士の大半の死亡 原因が戦病死であることを知って欲しい。この『陣中日誌』のなかに出てくる多数の病気・ 疾病は、感冒・パラチブスやマラリアのように外地とはいえ流行性や不可抗力の面を持つ ものから、性病のように自業自得的な病気もある。さらに戦時性の精神疾患、胃腸病、下痢、 栄養失調につながるような病気もある。約300人の中隊規模としては多すぎる病気の実態が 書かれている。2年7ヶ月、外地への出陣中の死者総数は、16名であった。出陣した320名の約5%にあたる。

死者総数地雷空襲襲撃事故病気腸チフスパラチフス
16名3名1名2名4名2名2名2名

 第三点、慰安所に関しては、アメリカの下院やEU議会でも非難決議が出たが、この 『陣中日誌』を見る限り、軍が関与していることだけは確かである。広義・狭義と分けて 考えられる話ではない。渡部部隊が杭州につくった「憲兵慰安所」「吉原病院」。漢口の北に 位置する宋埠につくった「兵站慰安所」。大通分遣隊がつくった「兵站慰安所」と3カ所がある。 渡部部隊でも、総数34名の性病患者をだしている。場所も、杭州、上海、南京、安慶と5カ所に わたっており、広汎な兵士が利用したと考えられる。

 表にしてみたら次のようになった。
性病総数杭州上海漢口安慶南京
34名17名1名11名2名3名

 第五師団第一建築輸卒隊の『陣中日誌』から学ぶべきことは多かった。戦争体験者が 少なくなっている今日でも、戦争の真の姿を知る上で教訓は多いと思う。

 主な参考文献
  『陣中日誌』第五師団第一建築輸卒隊 渡部孫夫中隊長遺族所有
  『戦史叢書』東雲新聞社
  『日本外交年表竝主要文書』原書房
  『昭和戦前期の日本』百瀬孝著 吉川弘文館
  『近代日本総合年表』岩波書店
  「東京朝日新聞」「大阪毎日新聞」「読売新聞」昭和十四年
  『戦争と罪責』野田正彰著 岩波書店
  『兵士たちの陸軍史』伊藤圭一著 番町書房
  『図説 日中戦争』森山康平著 河出書房新社
  『日中戦争 哀しい兵士』加藤克子著 れんが書房新社
  『陣中日誌に書かれた慰安所と毒ガス』高崎隆二著 梨の木舎
  『日中戦争日記』村田和志郎著 鵬和出版
  『日中戦争と汪兆銘』小林英夫著 吉川弘文館
  『南京の日本軍』藤原彰著 大月書店
  『ノモンハンの夏』半藤一利著 文藝春秋社
  『従軍慰安婦』吉見義明著 岩波新書
  『慰安婦と戦場の性』 秦郁彦著 新潮社

  *人名に関しては、師団長その他一般的に本に出てくる名前や部隊名は本名をそのまま使った。
  しかし、『陣中日誌』に出てくる人名は、渡部孫夫中隊長以外は仮名とした。  


 
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