6 南京への進軍と食糧問題
最後にこの間の食糧補給について言及しておきたい。食糧が極端に不足して,「徴発」しながら 進軍したのかと思っていたら,12月4日泗州で「今夕明日三食分ノ飯盒炊事ヲナシ置クヘシ」, 12月8日「建平にて糧秣の支給を受け」とある。ここで,4食分の飯盒炊事を用意している。 9日の東覇では,「醤油味噌砂糖衛生材料煙草を受領」「隊全員に砂糖湯を戴く」とある。
12日初めて「徴発」の記載がある。りつ(さんずいに栗)水には6日間滞在する。「第一分隊第四班及第二分隊 第四班ハ昼間衛兵舎ヲ除キ各徴発任務ニ服ス」とある。後の記述でこれまでなかった「牛飼当番」と いうのが出てくるから,付近の村から牛を徴発したと思われる。
16日先遣隊が南京に出発する際も「携帯口糧ノ他二食分携行輸送ハ自動車輸送ニヨル」とある。 『陣中日誌』には,食糧については比較的詳しく記載があるが,この時点は記述は少なく,携行品・ 乾燥物が見られる。夜食として「乾麺麭各人一ヲ給ス」とあって,食糧事情が厳しくなってきている。
この時点で,食糧だけでなく道路破壊箇所修理作業にあたって「要スル材料ハ現在地ニ於テ 徴発」とあって,現地での徴発は食糧に限らなかった。
20日の南京の舎営地では,朝・昼・夕食の記載がある。「牛馬の飼養」との記述があるが, 行軍中村で徴発したのをそのまま連れてきたものと推定できる。
南京−蕪湖間の橋梁修理に行く部隊には、「昼食携行」の記述もある。南京での食糧事情は 詳細にはわからない。29日に「牛馬処分」とあるので,この日に処分するまで食糧が極端に不足 していたとは考えられない。
30日に南京を列車で離れるが,「汽車輸送間ノ糧食ノ受領」の記述もある。
残留部隊の長興にいた第二分隊の報告の中で,泗安にいた12月12日に「食料の徴発ヲナス」 という記述がある。