10 差別と暴行

 三井協和隊で、事件として記録に残っているものは8件ある。いずれも、朝鮮人に対する差別が 原因とおもわれる暴行や拘束である。

 @ 金龍玉氏の証言から簡単に記していきたい。
 「到着して2日目の日暮れだった。私の属した 中隊長は日本人で、竹刀または木刀を持って天下は俺のものとばかり横柄な態度で威張りまわった。 2階が騒がしいので駆けつけると、隊員を犬叩きするではないか。隊員は鼻血で顔は血に覆われている。 何の抵抗もするわけでないのに続け様殴打だ。とうとう隊員は気絶した。中隊長は気絶した隊員に 止めをさすがごとく今一度足で蹴飛ばし、肩をいからせて室を出て行った。最初から居合わせた隊員の 証言によれば、各地から呼び寄せ初顔あわせで、同じ村出身どうし話し合っただけであった。 彼は、学校の門をくぐったこともなければ日本語ももちろん話せなかった。片田舎出身、白紙一枚で 引っ張られ不具なった。鼓膜が破れ、背骨を傷つけられ、まもなく帰郷した。その後も、中隊長は気の 向くまま手当たり次第に、身近な隊員に暴力をふるった。」

 特高史料に次の2点が記述されている。
 A 「昭和19年10月21日。同造船所第12中隊所属移入労務者277名は当日内地人教官に引率され 帰寮途6隊員松山某が路傍の柿を窃取せるを教官に発見され帰寮後松山は其の不都合なるを諭旨されるも 肯せず反抗せる為殴打され守衛に引き渡されたり。之を聞知せる同僚鮮人276名は松山の解放を要求し 絶食同盟を敢行せり。同造船所において松山を解放せるより解決せり」

 B 「昭和20年11月2日。移入労務者辛島某が当日午後5時頃相番たる内地工員岡田某に対し小便を 訴えるに、岡田は『そう度々行っては相番のものが仕事が出来ぬ』と注意せるに辛島が反抗的態度に 出たるを以って岡田は『朝鮮人の癖に何を抜かすか』と之を殴打せる為付近作業中の同僚鮮人4名が 一斉に岡田に反撃を加えんとしたるため、内地人工員某が岡田に加勢し、両者対立せしも職場組長 (内地人)の制止により平静に帰したるも之を聞知せる小隊長2名は同月4日隊長堀川中佐に対し『内地人の 朝鮮人に対する差別感の是正、前記事件に付内地人殴打行為の謝罪を要求』を申込事態は再び紛糾せり。 所轄署の説得により解決せり」
 要するに、一部の日本人指導者のなかに朝鮮半島から来た若者を差別的な蔑視に基づく暴行が あった。これは、三井協和隊が帰国するまで続いた。

 C 1945年(昭和20)2月のお酒不正配給・土下座事件がおきている。これまでも、協和隊員には お正月など、お酒・タバコ・みかんなどの特配があった。2月に隊員1人当たり1合のお酒が特配される という事だった。洗濯もし、雑巾も洗うバケツにお酒を配給された。しかし、明らかに1人当たり6勺ぐらいしかない。 この配給も副官を通じて渡されるが、「お酒の特配はひとり1合ではないのか。分量が明らかに少ない。 これでは副官がくすねたと疑われる」と本部庶務主任に複数の副官が抗議した。本部の担当者は弁明に 終始したが市役所の証拠を突きつけて、なじり、その男に土下座を迫った。その結果庶務担当者は靴を 脱ぎ土下座をした。しかし、副官がその後宇野港にあった水上警察署に連行された。特高から約40日 取調べを受けた。「おまえは、独立を考えているのだろう」という容疑だった。不正があったとしても それを日本人に糾すことは許されなかった。

 D 宇野第1青年学校の遠藤教諭は、著書『戦争中に生きた女教師たち』の中で、次のように書いて いる。「当時私たちもみな空腹でしたが、隊員で病気や怪我で働きに出られず宿舎に残っている 人たちの食事はさらにひどいものでした。屑米にとうもろこしが混ざったボロボロご飯少量に、 海水を煮立てただけの汁に、乾燥野菜の葉っぱの小片をうかせたものでした。痩せた青白い顔。 背を曲げ前屈みで力なく歩く姿と、調理場で働く日本人の色艶のよく丸々と太った顔が対照的に 鮮やかに浮かんできます。当然のことながら、この人たちは調理場の裏側に置いてある上官や食堂 従業員の食べ残しを入れた4斗樽をねらっていました。腰板に添って這うように近づいて手掴みに 大急ぎで一口二口。それを待ち受けて飛び出し、袖首を掴み、頭といわず顔といわず自分の履いて いる高下駄を持っての乱打。流れる血。何の弁解も反抗もせず、すみません、もうしません、と 詫びる半島青年の姿。あまりの恐ろしさに立ちすくんだ事も何回となくありました」と回想している。

 E 1945年(昭和20)6月29日未明に岡山空襲があった。三井協和隊員は、その夜協和寮裏の防空壕 (現自転車道)に避難した。その後、玉野市内の警備は緩み、協和隊へ憲兵や宇野水上警察署の特高に よる管理も事実上無くなった。それどどころではなくなったのが実情だろう。特高史料の『移入並応 徴朝鮮人労務者逃走手配ニ関スル件』が7月20日付で、岡山県知事より内務大臣、厚生大臣、保安部長、 特高課長、関係庁府県長官、朝鮮総督府警務局長宛にでている。「各警察署長ハ厳重捜査発見ニ努ムベシ」 計68名の逃亡者が出てくる。逃走日付は、6月29日から7月8日までの期間である。本籍・住所が 書かれており、三井協和隊の中隊名もある。名前・生年月日、人相、身長、体格の特徴、服装、 持ち物、手持ち現金、「国語」を解するか否かなどが書かれている。内訳は、江原道51名、咸鏡南道12名、 平安道2名、慶尚道2名となっている。68名中「国語」を解するものは11名、全く「国語」を理解しない、 読み書き話せないものが10名いた。所持金は、ほとんど100円以下であるが、1人は400〜500円所持していた。

 F 「徴用延長動揺」事件。1945年(昭和20)年7月28日、この日新聞に「半島応徴士の徴用を一年延期する」 という記事が出た。そんな中で29日が仕事休みの日でお酒の特配があった。酒を飲む隊員もいれば、 飲まぬ隊員もいたが、空腹で飲み、しかも不満がたまっていた。金龍玉氏の証言によれば、「隊員間で 喧嘩になった。外から見れば暴動が起きたのではないかと思うほどであった」という。憲兵隊が来ておさまり、 副官や喧嘩当事者が水上警察署に連行された。

 G 予備拘束事件。1945年(昭和20)8月9日、副官や小隊長クラスの隊員指導層約200人が予備拘束された。 憲兵の分遣隊だけに入れなかったので、三井造船グランド側にあった武徳館にも収容された。 なぜ予備拘束されたか。日本敗戦に伴う混乱を避けるためか、流言飛語を避けるためかとにかく 理由なしの拘束であった。この予備拘束された協和隊員は8月20日前後に釈放された。


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