各中隊に3名いた副官の任務は、協和寮から三井造船へ隊列を組んで行進し、各職場へ引率する 事であった。寮から造船所は約4キロあり、片道約1時間かかった。各職場の職長や組長と仕事の連絡や 指示を隊員に通訳した。職場でのトラブルなどにも対応した。寮に残留した副官は、手紙の代行や 検閲をしたり、病気や負傷で寝ている隊員の世話をしたり、三井病院へ連れて行った。中隊長は、 副官を通じて隊員を指導する間接統治で、副官はしばしば板ばさみに会って苦労したという。
第6中隊副官朴建周氏は次のように語った。「1944年9月三井協和隊として行った時は、鉄板は 山のようにあり戦時標準船や潜水艦をつくっていた。3500人の協和隊員はリベット打ち、溶接、運転、 電気など76種類の仕事に従事しました。」
当時一緒に働いた学徒動員の学生や女子挺身隊の女性も、「朝鮮半島から来た協和隊員は真面目に 働いていた」と証言する。1944年(昭和19)の12月26日付け合同新聞に加藤海軍技術大佐が「半島協和隊員は よく頑張っている。協和隊の働きは見事であった」と寄稿している。また、翌45年(昭和20)5月15日の 「巷」欄に、学徒動員の学生が「われわれと全く異ならない立派な青年方であった」とし、「半島に 対する認識の極めて浅かったことを痛感」と投稿している。学徒動員の学生や女子挺身隊の女性と 一緒に写っている記念写真も数多く存在する。
出勤率競争(昭和20年4月1日) |
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三井造船で働く協和隊員 |
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