1 はじめに

 2001年8月7日から12日まで、「岡山と保定を結ぶ平和の旅」の企画に参加した私は、中国河北省保定市を中心に岡山歩兵第110連隊の戦った跡地を訪問した。そこで、当時の被害者から聞き取りをしながら、日本軍の戦跡を訪ねた。(『岡山郷土部隊は何をしたのか』参照。2001年10月25日発行)

 この稿は、1999年毎日新聞に掲載された佐藤実元伍長(仮名・86歳)の証言を基に、日中戦争における1942〜43年頃の岡山歩兵第110連隊第2大隊が安新や白洋淀付近で何をしたのかを、佐藤実氏の証言や『戦史叢書』や『岡山歩兵第110連隊史』などの史料や私が現地を訪問して学んだことを中心にまとめたものである。

 5年前の岡山県議会は、中学の歴史教科書から「従軍慰安婦」と「三光作戦」の記述削除を求める陳情書を採択した。しかし、岡山の郷土部隊の「治安粛正」は何だったか明らかにしたい。「前事不忘、後事之師」とし、歴史から学ばなければ、また人間は同じことを繰り返すであろう。「歴史」を「未来」へとつなげるためにも、多くの人が事実を知り、共有の知識としていく必要を感じて書いた。

2 盧溝橋事件以後

 1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。7月11日には近衛内閣は五相会議を開き、「北支事変」と呼び戦線を拡大した。

 8月14日第二次上海事変へと飛び火すると、近衛内閣は「帝国の隠忍が限界に達したので、今後は支那軍と南京政府に対して反省を促すために断固たる処置をとる」という「帝国声明」を出した。

 8月31日北支那派遣軍(寺内寿一大将)は、京漢線に沿って攻撃を加えた。そして9月19日易県占領、9月24日保定占領、10月10日石家荘と占領した。

 岡山の郷土部隊の関係で言えば、1937年7月27日には、第10師団の歩兵第10連隊(通称赤柴部隊)に動員命令が下り、7月に中国へ上陸した。翌年第110師団が編成され晋察冀辺区粛正作戦や太行山脈粛正作戦に参戦した。

 第110師団は、岡山歩兵第110連隊、姫路歩兵第139連隊、松江歩兵第163連隊、鳥取歩兵第140連隊で編成された。第110師団司令部は石家荘に、第133旅団本部は保定に、第110連隊本部は易県にそれぞれ置かれた。


目次へ戻る
次へ