14 任丘白洋淀地区粛正討伐作戦
1942年8月20日〜29日、この地区は見渡す限り河北平原が続く。とうもろこし畑と集落以外に高いものはない。ここでの作戦には常に毒ガスが使用された。
佐藤実元伍長は証言する。「みどり筒(催涙・鼻水・喉炎症)や赤筒(嘔吐・くしゃみ)を使用した。ほかに照明弾や発煙筒も使った。毒ガス弾は、円筒直径6cm、長さ20cmで、マッチのように点火した後地面に刺すと、約200メートル飛んだ。風向きだけはいつも気を使って考慮していた。
八路軍は、この地区を根拠地とし、地道戦で戦った。私たちは、保定から南に約50km離れた所にランチュアン(冉庄)地道戦記念館を訪れた。広い平原の地底に四方八方くもの巣のようにおびただしい地道を掘り、集落・家々をつないでいる。敵(日本軍)が来たら、八路軍は地道に潜り込み、また敵(日本軍)をゲリラ戦法で攻撃を仕掛けた。私たちも、実際に地道に潜り歩いた。
『岡山歩兵第110連隊史』頁392〜394には、中国の初等6年生の教科書に書かれていることを元兵士の白神春次氏が次のように紹介している。
*「家々をつなぎ、村々に通じている。敵(日本軍)が来たら、地道に潜った。敵に奇襲を与えた。地道の形式は100種類以上あった。任丘の地道は畑の下に掘り、高さ1.3m、深さ約1mだった。地道の中には大小の洞窟があった。洞窟の中は宿泊用・家畜用・物置・便所と用途別に分かれていた。洞窟の中に飲料水・乾燥食糧・蒲団・灯火が用意されていた。 空気孔があけられており、太陽光も差すようにできていた。入口・出口付近に落とし穴を作り、地雷を仕掛けていた。敵(日本軍)に発見され、侵入してきたら、「迷い道」を仕掛けそこには地雷を設置した。日本軍が火攻めをしてきた時には、洞窟の入口に土と砂を用意していた。水攻めの時には、枯れた井戸に流れるようにしていた。毒ガス攻撃の時は、狭い通路を作り、吊るし板を引き落とし、ガスが入らないようにした」
15 岡山歩兵第110連隊警備地を移動
1943年6月25日、岡山歩兵第110連隊は、警備地を移動した。第1大隊は、寧晋を大隊本部とし、夏太行山脈粛正作戦や冀西作戦に参加した。第2大隊内丘を本部として、夏太行山脈粛正作戦や冀西作戦に参加した。第3大隊は、南宮県王官荘を本部とし、冀西作戦に参加した。
第2大隊第8中隊大馬荘分遣隊が順徳地区へ移動のため、交代の北京部隊(田中部隊)に申し送りを完了して民船に乗った時の日本側と中国側の共通の記述と記録が在る。
『岡山歩兵110連隊史』の白神春次氏の手記と白洋淀雁翔隊記念館と展示を比較検討してみる。
「時は初夏、楊柳青く葦は伸び、青空にくっきりと浮かぶ望楼と、フラン教会の塔をあとにして一路平安、白洋淀北西水路を、第8中隊瑞村鎮分遣隊めざして移動。瑞村鎮にて集結すべく行動していました。ちょうどその頃、第8中隊大馬荘分遣隊も民船にて洲隊10名がやはり瑞村鎮をめざして移動し南2kmの葦と葦の狭まった水路に来た時、八路軍遊撃隊民兵多数の待ち伏せ攻撃により、全員戦死の報を自分たちは瑞村鎮到着と同時に知りました」(白神春次氏手記頁385〜386)
白洋淀雁翔隊記念館の展示
「1943年、白洋淀雁翔隊在王家塞、郭里口一帯的葦業蕩中布下埋伏、痛撃日軍保運船、打死日寇偽軍数人、激劇了大批武器弾薬、大長了抗日軍民的勢気」
上記パネル説明文にあるように、4名(実際には多数)の八路軍が葦の中に隠れていて日本軍の日の丸が二旗ある民船を待ち伏せし、襲撃して様子がロウ人形で展示されている。
16 おわりに
日本軍兵士の記憶と中国側の記録が一致する以上「史実」に近いものと判断できるだろろう。こうして、1938年から日本軍によって支配されてきた白洋淀地区は、1944年に八路軍によって「解放」された。岡山歩兵第110連隊は、1944年から覇王城から洛陽への京漢(河南)作戦という国民党軍との戦いになっていった。
日中戦争が終わって57年目の月日がたとうとしている。過去の真実の歴史を直視した上で、21世紀の日中友好と未来を拓く姿勢が日本人に求められている。中国側の展示記念館の展示が「おおげさ」でも「誇張」でもないことがわかった。「暗部」の記述を隠し削っている『岡山歩兵第110連隊史』にすら内容が一致するなら、これは、21世紀の「常識」になっていいと思う。
北京から高速道路を利用すれば、約2時間で白洋淀や安新に行くこともできる。100万都市保定には、北京より安くて立派なホテルも大規模なデパートもスーパーもそろっている。北京からの日帰りも可能圏である。日本人、とりわけ岡山県人に『岡山の郷土部隊は何をしたのか』を知った上で、白洋淀や安新をこれからも訪れてもらいたいと思う。