協和隊の遺族を訪ねて訪韓

 1991年8月14日,青木・三村・笹部(本校教員)香西(本校社研部卒業生)と渡部(本校社研部1年生)の5人で訪韓した。翌15日に春川市を訪問し協和隊員で構成されている岡山親睦会(会長朴建周さん,会員22名)14人と会えた。

 三井造船前の地下軍事工場を掘削中に,岩が腰に落ちて下半身が不自由になった金命俊(キム・ミョンジュン)氏を会長から紹介いただき,「彼は,九死に一生を得たが一生歩くのが不自由です。歩けないから働けない。働けないゆえに貧しい。彼を誰が補償するのか」と訴えられた。呉善福(ゴ・ソンボク)氏からは,「三井協和隊」とかかれた門の前で歩哨に立っている写真を提供していただいた。岡山親睦会の内7人は,「敵国だった日本人には会いたくない」といって欠席された。しかし,「今後も真実をありのままに研究してください。今後も韓日交流のために協力してやっていきましょう」といってくれ別れた。次に,原州市にある金文式(キム・ムンシク)氏の遺族を訪問した。金文式氏は,協和隊員で玉野市の火葬許可書によって,1945年1月16日に死亡したことが判明していた。

 金文式の兄である金東式氏によると,金文式氏は,1923年生まれで当時21才。19才のとき結婚しており一児の父親であった。身体が丈夫なこともあって,家の農業を一手に引き受けていた。「なぜ死亡したのか理由すらわからないのにどうして話し合えましょうか」といって,金東式氏は涙を流し怒りをあらわにした。ここでも「日本人は敵だから話したくない」と言われた。

 日本のことを,アジアの片隅でまだまだ「恨み」に思う人がいて,日本の戦後責任が終わっていないことを強く感じた。

 8月17日,鉄原郡葛末面文恵里に辛享牧氏の遺族訪問した。この地は,38度線を越えて軍事境界線手前8kmという戦場の最前線といったところだった。

 辛享牧氏も協和隊員で,1945年6月9日に死亡していることが判明していた。私たちが会うことのできた叔父辛敬承(シン・キョンソン)氏,甥辛基夏(シン・ギハ)氏は,「国民学校を出た後,農業をしていたら,辛享牧氏の国民徴用令が来た。結婚はしていない。背も高いし体格も大きい美男子で,穏健な性格であった。戦後,鉄原郡出身の協和隊員が遺骨の灰袋を持ってきた。その友人が,死亡理由として『船の上から落ちた』といっていました」と証言してくれた。しかし,死亡年月日や強制連行先の玉野での暮らしなど何も知らなかった。

 この時の遺族訪問記を渡部尚輝が「史実になれなかった真実−高校生が結ぶ日韓交流の輪−」と題して小論文にまとめ,高校生論文コンクールで朝日新聞社賞をいただいた。

 遺骨の件では,1993年1月協和隊員の死者16名のうち初の遺骨を大阪市天王寺統国寺で発見した。朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸州郡岐川堡出身の「金丸泰玉」氏の遺骨である。出身地,22才という享年,1945年11月2日の死亡年月日,いずれの条件もみたされる点で協和隊員であることは間違いない。日朝国交回復があるか,朝鮮半島の統一があれば,いつか遺骨送還したいと思っている。 


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