麗水の「職業訓練所」

 玉野造船少年隊は1945年4月に玉野へ連れてこられた。対象となる年齢は15〜18歳だったというから,いわゆる「徴用」ではない。1940年「朝鮮職業紹介所」令が公布され,紹介所が6ヵ所設置された。その朝鮮職業紹介所に属する「職業訓練所」が麗水にあった,と考えられる。この職業訓練所に全羅南道から集まった少年がいたのではないか。(麗水や木浦出身の隊員がいたことは確かである)

 玉野造船少年隊員は,日本に到着後,「なぜ日本に来たか」という感想文を書かされた。彼らは,日本語で「進んだ日本を知って,自分自身向上したい。帰ればリーダーになれる」と書いた。皇国臣民化教育が徹底されていた少年が多く希望していた,と三浦さんは語る。昭和20年3月ごろ,玉野造船(三井造船)教育部として,三浦さんは朝鮮半島に渡った。関釜フェリーに乗って,三浦さんら造船から4人で迎えに行った。釜山から蒸気船に乗って麗水に着いた一行は,海岸から5〜6分歩いた所にあった一流の日本式旅館に泊まった。そこから,歩いて10分ぐらいの所へ「職業訓練所」があった。

 麗水の「職業訓練所」は,高い塀に囲まれて,2階建の校舎があった。(その後,MBC放送の調査により,当時の麗水中央国民学校の地にあった事が判明した。)訓練生は全羅南道から集められ,教室のような所で寝泊まりをしていた。

 麗水に着いた一行は,地元の警察(日本人署長をはじめ日本人や朝鮮人の警察官幹部)や役場の人など地元有力者約20数名を旅館で接待した。「朝鮮が良くなったのは日本のおかげだ」というような会話がなされた,と三浦氏は語る。

 「職業訓練所」は,所長が日本人で職員には日本人も朝鮮人もいた。ここでは,訓練生に行進・体操・語学(日本語)・棒倒し・持久走などの教育がなされていた。三浦氏は,他の3人が連日観光や接待・あいさつをしている間,3泊4日間訓練生と生活を共にし,昼は訓練生と同じ朝鮮料理を食べて心をうちとけあったという。

 その後,麗水の職業訓練所にいた15〜18歳の訓練生72人を,麗水から下関までの

 直行便で一般の乗客と同じ船室に乗っていた。しかし,敵の潜水艦の攻撃や敵機の機銃掃射があるということで,夜だけの運行でしかも島影の多い閑麗水道を手探りのように進すんでいった。デッキの上で故郷に残った父母のことを思って涙する少年がいたと,三浦さは語る。その後下関から列車に乗り継ぎ,1945年4月初旬に玉野に到着した。 


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