深井寮

 『三井造船75年史』によれば,昭和19年,「岡山刑務所の受刑者150人を『奉公隊』と名づけて,深井地区に移し,鋲打ち工として養成した」とある。

 その後,大阪の少年隊は昭和19年春先発隊として和田に38名来た後,昭和19年夏大阪と広島から少年隊という名称で260人の子ども達も働きに来た。朝鮮から来た玉野造船少年隊は,「大阪少年隊」(200名)と「広島少年隊」(60名)と年齢的にも近いということもあって一緒に深井寮に入ることにした。

 深井の寮施設は,元々中国人捕虜収容所のために作られたものであった。中国人捕虜収容所というのは,中国の河北省から強制連行されてきた「捕虜」で,133人が玉野に来たが,玉野造船所は軍事秘密があるということで,数キロ離れている渋川海岸近くの玉野市の日比にある三井金属日比精錬所に配置された。(玉野光南高校社研部「わが町玉野を考える」として,全国教研レポ−ト1990年1月に報告)

 余談ながら,この度「外務省報告書」として,三井金属日比精錬所に強制連行された中国人34名の名前住所などが明らかになった。年齢も40〜50歳代が多く,死亡者26名も出た。内1人は確認できる。

 中国人捕虜収容所ということもあって,周囲は威圧感のする高い塀であった。それでは困るということで,塀の高さを半分に切り,迎え入れたという。

 大阪・広島の少年隊と玉野造船少年隊は,「仲良く喧嘩をすることもなく,相撲を取ったり,風呂で背中を流しあったり,食事も勉強もみんなで一緒に楽しく過ごした」と,三浦氏は語る。

 ただ一つ,こんなエピソ−ドがあると話してくれた。

 三浦氏は,病気で三井病院に入院していた。「赤木」という元曹長で34〜35歳の副官が,大阪少年隊出身の子どもを竹刀で殴った。三浦さんが入院していた三井病院へ小隊長の子がと訪れ「暴力に耐えかねて脱走を考えている」と打ち明けた。当時,玉野造船教育部教育課長江口氏と相談の上,三浦さん(隊長であるとともに保護司であった)は,タンカで運んでもらって帰って来て,「赤木」副官を罷免したという。その後「赤木」副官は,協和隊の中隊長になって,また暴力を振ったため協和隊員に袋叩きにあった,という噂を聞いたと三浦氏は語る。この「赤木」なる人物が,玉野光南高校社研部の調査した『史実になれなかった真実』P57に出てくる第11中隊の「赤沢」こと「赤パンツ」のことか。

 金龍玉さんの手紙より
 到着して2日目の夕暮れだった。私達は軍隊組織で単位は中隊の上に本部があり全体を統制,全部で十四中隊だった。中隊長は日本人である。私の属した中隊長の名は忘れた。アダ名は赤パンツ、はっきり覚えている。赤パンツのみで竹刀または木刀を引き携え一階から二階へと肩には力を入れ正に時代劇にでる田舎武士。目玉をギョロリと光らせながら天下は俺のものと横柄な態度で威張り廻ったのである。最初のこと,何事かと訝しげに思ったのだが,あわや二階で騒がしいので駆け上がってみる。赤パンツは隊員を犬だたきをするではないか。隊員は鼻血で顔は血に覆われている。何の抵抗もせぬのに続け様に乱打だ。とうとう隊員はククッと息を呑むと同時に気絶したのである。赤パンツは気絶した隊員に止めを刺すが如く今一度足で蹴飛ばし肩を張り室を出たのである。殴られた隊員は鼓膜が破裂,背骨を傷つけられまもなく帰郷した。(金龍玉氏の手紙から)


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