三浦雄治さんの手記

 二十年住み慣れた玉野市を離れて,東京で暮らし,東京が終焉の地と決めていたが,昨年四月長男夫婦と同居して老後の余生を送るために再び帰ってきました。

 在京中も韓国の問題について色々な報道がある毎に特別な関心を持ち,いつも韓国から連行した少年隊員の当時を偲び,永い歳月を経た今も如何に過していることかと,懐かしさと幾百里の波濤を越えて唯素直に勇々しく行動した姿を思い浮かべて心を痛めていました。

 玉野市に定住して間もなく山陽新聞で,玉野光南高校の青木先生が戦時中朝鮮から連行されて産業戦士として耐え難い苦難の大きな犠牲をされた人たちのために,色々調査されたり日韓の悠久融和のために御献身されておられる事を知り,常に同じ願望を持っている者として感謝の一言を申し上げたく,尚少年隊員の消息が知りたく青木先生に連絡して所持していた写真を提出して少年隊員の実態をお話しました。

 その後先生の御熱意,各報道機関の御協力と,特に協和隊員として戦時下の三井造船所に勤務されていた禹奎鎬さんの温い御厚情により嬉しい情勢に感激と感謝をいたしておりました。

 来たる7月27日青木先生御一行に老骨ながら同伴して渡韓し,一人の隊員とでも面会したい。それが果たせなくとも,帰国者の消息を知ることができればと一時決心しましたが,やはり八十一歳の老体のため断念しました。青木先生を始め多くの方々に御迷惑をおかけいたしましたが皆様の成果を只管祈るのみであります。

 ことに禹奎鎬さんとは終戦後輸送船栄豊丸で色々深いご縁があったと思われ,お会いして当時を語ることができればそれのみであっても渡韓の意義はあると思います。今後のこともお願いしたく考えていましたが,今はお帰りを待ち皆様の成果を待つばかりであります。

 やがて,五十年を迎えようとする過ぎた想い出でありますが,昭和二十年四月頃少年たちを迎えに行く頃は,朝鮮海峡ではアメリカ潜水艦が軍輸送船・商船はもとより病院船まで撃沈している状況でありました。渡韓にもまた少年たちを引率して日本に到着するときも不安な航海でした。夜のみの航海であり,薄暗い船室の中で輪になって朝鮮の舞や歌で眠れぬ夜を過ごしました。私は不安な気持ちをなくするためにと考えたことであっても,朝鮮民謡の哀調と父母に別離して行く少年の心情に流れる涙をみせないように私が甲板にでると,幾人かの少年隊員が暗闇の中で故国との別れを惜しむ姿を見て,またたまらぬ不憫になって夢中で抱き合って涙を流しながら時を過ごしたことを忘れません。

 日本に到着した少年たちの行動力は素直で礼儀正しく,日々の行動にも遠く離れてきた故郷や両親・家族を思慕の悲しみを少しも見せないで,戦争に勝つ事のみの決意と優秀な技術修得を果たす目的達成の心情は私たち関係者一同常に感動させられていました。

 七十名の少年一同の作業態度・寮での一手一足他の隊員の模範となる行動のため寮生活で何の不安もありませんでした。暑い夏の季節ながら,環境に恵まれた事も幸いであったことが不憫な少年たちと日々を過ごす私にとってせめてもの慰めでありました。

 夜の空襲の時や艦載機の機銃掃射の時の少年たちの敏感な行動は,職員一同いつも感動しておりました。たびたびの空襲にも1名の被害者がでなかった事が幸いであったと,今もまぶたの裏に当時のことが鮮明に蘇ってくるなかで,心をなでおろしています。

 曽根造船所に勤務中,軍の要請により鉄道の荷物の積み降ろしに幾日か行ったこともあります。隊員が一生懸命作業に勤め予定より早く完了したので,軍より砂糖やその他当時民間で手に入らぬ品物を特別支給されて宿舎に帰り,大騒ぎして慰労会の演芸会をして,懐かしい故郷の舞に歌も出て楽しい一時を過ごした事もあります。

今,当時の少年たちの上に想いをよせる時,戦争とはいえ少年たちが優秀な技術修得と発展した日本の現状を知りたいと念願する気持ちがあって,来日を希望した少年であっても,一言の愚痴も言わず,淋しさ悲しさの表情も見せないで,ただひたすら尽くしてくれた心情に感謝の気持ちを捧げ,なに一つ報ゆる事も出来なかったことを悔いるのみです。

 帰国出発時に軍装一切総べて新品を支給したりこれまで使っていたふとん一揃いと新しい正絹で金糸銀糸の入った夜具一揃いを御両親のお土産にと支給したことのみ心の慰めです。

 終戦後,いろいろ話し合った時「復興して国交がひらかれた機会には再び日本に来て初期の目的を果たしたい」と,堅く手を握りあった事も儚く五十年を迎えようとしています。少年たちに対しせめてもの気持ちを押さえがたく,栄豊丸で朝鮮の人たち三千有余名と一緒に送還するため二度乗船したが出発を果たせず,最後神戸駅から特別列車で見送った時の心情は終生忘れることはありません。

 二十年振りに玉野市に帰省して,少年たちの過ぎた日の想い出に触れ合う機会をお作りくださった青木先生お始め多くの方々に心から感謝します。八十一歳の翁,余命いくばくもない身でありますが,青木先生一行が再度訪韓されて少年たちの近況を知り得ることが出来ればこの上の嬉しさはありません。

 日本人で戦死された人や韓国の人たちで大きな犠牲をされた方たちについて,慰謝の不十分な対策処置に今なお問題を残している事を残念に思います。

 日本が現在の発展と安定して幸せな日々を過ごすことのできるのは,多くの尊い犠牲の結果である事を想い忘却せず,日本と韓国が真の融和が達成して共存共栄の祝福される日をひたすら祈りつつ,少年隊員が幸福な日々を過ごしていることを祈念しながら愚筆を止めます。(三浦雄治)


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