はじめに

 1993年6月30日,1本の電話が玉野光南高校にかかってきた。玉野市在住の三浦さんという高齢の人からだった。6月27日の山陽新聞に,「戦時中強制連行の2韓国人来玉」という見出しで,掲載された記事を見てかかってきたものだった。実はこの時,玉野光南高校社研部が,協和隊の崔鐘曄さん(69才)張聖圭さん(70才)を韓国から招待して,6月28日の岡山空襲を語る会主催のシンポジュウム「’93 6.29岡山市民平和祭−アジア・太平洋戦争と朝鮮人強制連行」という岡山シンフォーニホールで催されたことがきっかけであった。

 その企画は,岡山市民に広く朝鮮人の強制連行の実態を知ってもらおうということであり,NHKのニュースや地元の新聞の報道された。様々な反響があった。その1つが,6月30日にあった上記の電話である。三浦雄治(みうらゆうじ)さんという方だった。戦前・戦後三井造船に勤めていた方で,「戦時中,私は15才から18才の少年を朝鮮から連れてきて,働かせたんです。」という内容だった。私は「協和隊のことですかとたずねると,「いえ,協和隊とは別に72人,全羅南道の麗水というところにあった職業訓練所から連れてきたのです」ということだった。早速、7月3日にその電話をいただいた三浦さん宅にお伺いした。

<三井地下軍事工場と「蛟竜」>

 まず,その前に戦時下に玉野市であった強制連行の実態を,1990年・91年に発表した玉野光南高校社研部の『「史実」になれなかった「真実」』と,その後の研究成果を踏まえて概括的に説明をしておきたい。

 1989年秋,元玉野市役所勤務清水清さん(84才)から玉野市戦跡巡りをしませんか,という誘いが玉野光南高校社研部にあった。私たちは生徒達と戦跡フィールドワークの中で,三井造船前にある縦横4メートル長さ100メートルに及ぶ大防空壕の存在を教えられた。そこで,地元山陽新聞を通じて証言を求めた。

 「あれは,防空壕ではなく,昭和20年8月15日の終戦まで内部で工作機械を使用していた」という,三井造船の地下軍事工場で働いた人たちからの証言が届いた。(加門さん、成瀬さん、原さんからの証言)ここでは,特殊潜航艇「蛟竜」のディーゼル部門を製造しており,33隻建造予定であったが29隻完成したところで,終戦を迎えた。(『三井造船50年史』)特殊潜航艇「蛟竜」は「海の神風特攻隊」と恐れられ,小豆島の内海湾に配置され室戸沖に出撃したと言われている。

 しかし,この三井造船の地下軍事工場2ヵ所(もう一ヵ所は地蔵山の山裾,造船研究所裏手にあった)をだれがいつ掘ったものかは,当時を知る日本人でさえ知っている人はいなかった。証言者の一人原省三さん(65才)を訪ねたところ,大日本産業報国会機関紙「産報龍骨」を所有しておられ,協和隊が昭和19年に玉野に来た時の様子や,昭和20年3月1日付けの同紙に「松原豊成」という協和隊の副官なる人物が手記を寄せていることがわかった。日本名ながら協和隊員の人名がわかったことにより,韓国でこの「松原豊成」なる人物を捜そうと思い,韓国の4つの有力新聞社に資料を送ったところ,「東亜日報」が1990年2月13日の社会面に掲載してくれた。

<協和隊45年目の証言>

 意外にも,反響はアメリカのロサンゼルスに住む金龍玉(キム・ユンオク)さんから長文の詳細な手紙の形で表れた。金氏の手紙には当時の様子がきめ細かに書かれており,何度かの手紙のやり取りの中で,協和隊員の「松原豊成」は禹奎鎬(ウ・キュウホ)さんであることがわかった。

 1990年8月2日,私が訪韓し,禹奎鎬さん・崔鐘曄(チェ・ジョンヨプ)さんらに聞き取り調査することができた。「思い出したくもないことを話してどうなる」と言う意見がある中で,「私たちが知りたいのは真実です。若い人,特に高校生に,真実をかくしたままで真の日韓の友好はありません」と説得し,話しを聞くことができた。同じころ,アメリカのロサンゼルスへ学校からホームステイに行っていた社研部員の佐藤良子は金龍玉さんに会い証言を得ていた。この聞き取り調査は,韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領が訪日後ということもあって,東亜日報社会面の半面を占める記事として報道され大きな反響があった。続いて,玉野光南高校社研部では募金を集め,1990年9月に禹奎鎬さんを玉野に招待し,ともに玉野を歩き45年前の話しを聞いた。さらに,24日には玉野市民を対象にしたシンポジウムを玉野サンライフで開き,生々しい証言を得た。

 この時の成果は,この年11月の「NHK青春メッセージ」の岡山県予選会で,佐藤良子が「史実になれなかった真実」として発表し,最優秀賞を得た。翌年1月15日の「’91青春メッセージ」でも,全国にむけて玉野光南高校社研部の活動を発表し,特別賞の栄冠と多くの人の共感を得た。

 1991年5月に金龍玉さんがロサンゼルスから韓国に戻る途中,玉野を訪問してくれた。この時点で社研部の調査で協和隊員で死亡した16人の氏名や住所が玉野市の火葬許可書から判明した。このことに心を痛めた金龍玉さんは韓国に戻ったあと遺族の捜索に精魂を傾けてくれた。16人の内3人が現在の韓国に本籍地があり,その内の2人の遺族が見つかったと連絡が来たのは,5月末だった。

 <協和隊の遺族を訪ねて訪韓>

 1991年8月14日,青木・三村・笹部(本校教員)香西(本校社研部卒業生)と渡部(本校社研部1年生)の5人で訪韓した。翌15日に春川市を訪問し協和隊員で構成されている岡山親睦会(会長朴建周さん,会員22名)14人と会えた。

 三井造船前の地下軍事工場を掘削中に,岩が腰に落ちて下半身が不自由になった金命俊(キム・ミョンジュン)氏を会長から紹介いただき,「彼は,九死に一生を得たが一生歩くのが不自由です。歩けないから働けない。働けないゆえに貧しい。彼を誰が補償するのか」と訴えられた。呉善福(ゴ・ソンボク)氏からは,「三井協和隊」とかかれた門の前で歩哨に立っている写真を提供していただいた。岡山親睦会の内7人は,「敵国だった日本人には会いたくない」といって欠席された。しかし,「今後も真実をありのままに研究してください。今後も韓日交流のために協力してやっていきましょう」といってくれ別れた。次に,原州市にある金文式(キム・ムンシク)氏の遺族を訪問した。金文式氏は,協和隊員で玉野市の火葬許可書によって,1945年1月16日に死亡したことが判明していた。

 金文式の兄である金東式氏によると,金文式氏は,1923年生まれで当時21才。19才のとき結婚しており一児の父親であった。身体が丈夫なこともあって,家の農業を一手に引き受けていた。「なぜ死亡したのか理由すらわからないのにどうして話し合えましょうか」といって,金東式氏は涙を流し怒りをあらわにした。ここでも「日本人は敵だから話したくない」と言われた。

 日本のことを,アジアの片隅でまだまだ「恨み」に思う人がいて,日本の戦後責任が終わっていないことを強く感じた。

 8月17日,鉄原郡葛末面文恵里に辛享牧氏の遺族訪問した。この地は,38度線を越えて軍事境界線手前8kmという戦場の最前線といったところだった。

 辛享牧氏も協和隊員で,1945年6月9日に死亡していることが判明していた。私たちが会うことのできた叔父辛敬承(シン・キョンソン)氏,甥辛基夏(シン・ギハ)氏は,「国民学校を出た後,農業をしていたら,辛享牧氏の国民徴用令が来た。結婚はしていない。背も高いし体格も大きい美男子で,穏健な性格であった。戦後,鉄原郡出身の協和隊員が遺骨の灰袋を持ってきた。その友人が,死亡理由として『船の上から落ちた』といっていました」と証言してくれた。しかし,死亡年月日や強制連行先の玉野での暮らしなど何も知らなかった。

 この時の遺族訪問記を渡部尚輝が「史実になれなかった真実−高校生が結ぶ日韓交流の輪−」と題して小論文にまとめ,高校生論文コンクールで朝日新聞社賞をいただいた。

 遺骨の件では,1993年1月協和隊員の死者16名のうち初の遺骨を大阪市天王寺統国寺で発見した。朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸州郡岐川堡出身の「金丸泰玉」氏の遺骨である。出身地,22才という享年,1945年11月2日の死亡年月日,いずれの条件もみたされる点で協和隊員であることは間違いない。日朝国交回復があるか,朝鮮半島の統一があれば,いつか遺骨送還したいと思っている。

<協和隊とは>

 日本の植民地であった朝鮮半島は,日本の労働不足を補うために国家総動員法・国民徴用令により1939年から募集・官斡旋方式で強制連行があった。

 さらに1943年9月30日,朝鮮総督府令第305号国民徴用令施行規則が改正し,国民徴用令は朝鮮の道知事の権限で実施を可能となった。また,1944年8月「半島人労務者の移入に関する件」閣議決定された。それをうけて,1944年8月28日,臨時道知事会議で阿部信行総督が訓示し,1944年9月「国民徴用令七条の二」により「一般徴用」を発令した。

玉野造船所は海軍の監督下にあり,協和隊3500人は,江原道・咸鏡南道・咸鏡北道出身者から,1922年12月2日〜1923年12月1日生まれを対象として,徴用発令された。1944年9月14日郡庁前集合に集合せよ,との命令を受けて,軍用列車に乗って行く宛も知らされる事なく,強制連行され,1944年9月22日玉野へ到着した。

 9月27日,第1次徴用1500人が三井グランドで入所式に臨んだ。加藤海軍大臣代理・村田県知事代理挨拶があいさつしている点からも,国や県の責任は逃れることはできない。1944年10月28日,第2次徴用2000人が強制徴用された。計3500名の協和隊は,現在の宇野中学校の建てられた協和寮で,1中隊250人ずづ14中隊からなるの軍隊組織によって運営された。堀川隊長(元中佐)−正畑副隊長(元中尉)−中隊長(日本人の予備役下士官)−副官(中学校出の朝鮮人各3名)−小隊長−隊員という構成であった。協和隊員は,三井造船各職場と地下軍事工場(特殊潜航艇製造)掘削などに従事した。多くの強制連行が炭坑や鉱山・地下軍事工場の掘削といった苛酷な強制労働であったのに比べて,リベット打ちなど一部を除き造船所の仕事は厳しいとはいえない。

 賃金は手取り40数円(一般隊員)副官は80円弱ではなかったかと考えられる。朝5時起床,6時出発,7時30分から午後6時まで勤務した。8月は結局賃金は未払い,退職金も一切支払われていない。

問題は,当時の日本人に「鮮人,鮮人」と朝鮮人を差別し,軽蔑の風潮があったことである。中隊長の一部・本部役員・特高・憲兵の中には何かにつけて民族差別やスパイ扱いをし,暴行を働いた者がいたと証言されている。「特高月報」には,協和隊員68名の脱走者(それも一部といわれる)が記録されている。また,玉野光南高校社研部の調査で,死者16名がでたことが玉野市の火葬許可書により判明した。8月9日には,協和隊員約200名がが憲兵によって予備拘束された。敗戦に伴う混乱や流言飛語を避けるためと言われる。8月の末から当てにできない帰国船を見限って,協和隊員3500名は玉港に停泊する漁船をチャターし,100名〜300名単位で帰国していった。一人当たり300円ぐらいが相場で帰国して家に着いたときは20〜30円ぐらいしか残ってなかったという協和隊員の証言は一致する。

2 玉野造船少年隊について

<三浦雄治さんについて>

 三浦雄治さん(みうらゆうじ),1913年(大正2年)8月12日生(現在81才)玉野市在住・略歴 1942年(昭和17年)8月 玉野造船所(現三井造船)に入社 造船検査部をへて,S18年教育部に配属,S19年研修を受け,保護司になる。

 1962年(昭和37年)三井造船退社後,東京で牛乳販売経営および会社役員。

 1993年4月玉野に住む長男と同居となる。

<強制連行の「法的」根拠>

 アジア・太平洋戦争が押し詰まって,戦地に徴兵される兵隊に変わって,軍需工場は労働力が不足した。1938年「国家総動員法」,1939年「国民徴用令」を始め,一般の職員・学徒動員・女子挺身隊・受刑者・少年院の子といったすべての日本人を結集したことはもちろん,植民地であった朝鮮においても根こそぎ労働力を集めた。協和隊は,前述したように徴兵にかからない21〜23歳の若者を「国民徴用令」に基づき1944年9月と10月に約3500名徴用したものである。玉野造船少年隊は1945年4月に徴用されたが,その「法的」根拠なるものは何か。一般に朝鮮人の強制連行は,「募集」方式・「官斡旋」方式・「徴用」方式と3つに分類することができる。

 歴史的な経緯を表にしたら,次のようになる。

1938年4月1日    国家総動員法公布     同5月5日施行

1939年7月8日    国民徴用令(勅令)公布  同7月15日施行

1939年〜1941年 「募集」方式の「労務動員計画」

1940年        「朝鮮職業紹介所」令公布 6ヵ所設置 「国民労務手帳法」適用

1940年10月16日   国民徴用令改正

1941年12月     「国民勤労報国協力令」

1942年〜1943年  「官斡旋」形式の「勤労報国隊」

1943年7月20日   勅令600号 国民徴用令改正1943年9月30日  朝鮮総督府令第305号 国民徴用令施行規則改正1944年8月    「半島人労務者の移入に関する件」閣議決定

1944年8月28日  訓示 臨時道知事会議 総督訓示

1944年〜1945年 「徴用」方式

1944年9月      「国民徴用令」改正による「一般徴用」発令

<麗水の「職業訓練所」>

 玉野造船少年隊は1945年4月に玉野へ連れてこられた。対象となる年齢は15〜18歳だったというから,いわゆる「徴用」ではない。1940年「朝鮮職業紹介所」令が公布され,紹介所が6ヵ所設置された。その朝鮮職業紹介所に属する「職業訓練所」が麗水にあった,と考えられる。この職業訓練所に全羅南道から集まった少年がいたのではないか。(麗水や木浦出身の隊員がいたことは確かである)

 玉野造船少年隊員は,日本に到着後,「なぜ日本に来たか」という感想文を書かされた。彼らは,日本語で「進んだ日本を知って,自分自身向上したい。帰ればリーダーになれる」と書いた。皇国臣民化教育が徹底されていた少年が多く希望していた,と三浦さんは語る。昭和20年3月ごろ,玉野造船(三井造船)教育部として,三浦さんは朝鮮半島に渡った。関釜フェリーに乗って,三浦さんら造船から4人で迎えに行った。釜山から蒸気船に乗って麗水に着いた一行は,海岸から5〜6分歩いた所にあった一流の日本式旅館に泊まった。そこから,歩いて10分ぐらいの所へ「職業訓練所」があった。

 麗水の「職業訓練所」は,高い塀に囲まれて,2階建の校舎があった。(その後,MBC放送の調査により,当時の麗水中央国民学校の地にあった事が判明した。)訓練生は全羅南道から集められ,教室のような所で寝泊まりをしていた。

 麗水に着いた一行は,地元の警察(日本人署長をはじめ日本人や朝鮮人の警察官幹部)や役場の人など地元有力者約20数名を旅館で接待した。「朝鮮が良くなったのは日本のおかげだ」というような会話がなされた,と三浦氏は語る。

 「職業訓練所」は,所長が日本人で職員には日本人も朝鮮人もいた。ここでは,訓練生に行進・体操・語学(日本語)・棒倒し・持久走などの教育がなされていた。三浦氏は,他の3人が連日観光や接待・あいさつをしている間,3泊4日間訓練生と生活を共にし,昼は訓練生と同じ朝鮮料理を食べて心をうちとけあったという。

 その後,麗水の職業訓練所にいた15〜18歳の訓練生72人を,麗水から下関までの

直行便で一般の乗客と同じ船室に乗っていた。しかし,敵の潜水艦の攻撃や敵機の機銃掃射があるということで,夜だけの運行でしかも島影の多い閑麗水道を手探りのように進すんでいった。デッキの上で故郷に残った父母のことを思って涙する少年がいたと,三浦さは語る。その後下関から列車に乗り継ぎ,1945年4月初旬に玉野に到着した。

<玉野造船入所式>

 玉野に着いて,身元確認のため氏名・本籍などを調査後,「どうして日本に来たか」という感想文を書かせた。敗戦後,関係資料は本社からの命令で全部三浦さんの手で焼かれてしまったとのことだが,写真を3枚だけ残しており,三浦さんの証言で全貌が明らかになった。表紙にある1枚の写真が,入所式のもので勤労重役・江尻氏,勤労部長・戸田氏そして教育部・三浦さんと写っている。あどけない顔がすべてを物語っている。

<玉野造船少年隊>

 少年隊員が住むことになったのは,玉野市の造船所の1番奥にある深井というところで,大阪や広島から来た少年隊260人と一緒に住ませた。

 当初72人が入所したが,入所した翌日の夜,協和隊員が「親戚です。面会させてほしい」といって来て一人連れ出したまま帰ってこなかった。要するに逃亡したのである。また,少年隊員の中に38歳の者がいることが判明した。この隊員は,弟の身代わりということでどこかで入れ代わったのだろう。「言葉(日本語)も全く話せず,頭が弱く,入所式の行進すらできない状態だった」ので,あとで帰国させた。

 こうして,少年隊員は71人でスタートすることになった。

 71人の組織は,隊長三浦雄治−副官日本人2人(その内の一人坪井年志春氏はすでに死亡)−小隊長(朝鮮の少年5〜6名)−各班長11名(腕に腕章をしている朝鮮の少年)−班員6名という構成になっていた。

 組織図

大阪少年隊 隊長 三浦氏(31歳)
 江口隊長

(教育部課長)

         副官 赤木・早瀬・大山・坪井
 吉野副隊長(45歳)広島少年隊 隊長 中藤初男(26歳)
(牧師・事務担当)

    ↓

         副官 坂井
(「宗教教師勤労動員令」朝鮮少年隊 隊長 三浦氏

  19447 に基づいて)           副官 坪井氏(23歳)

 歓迎会では,食事を食べない。三浦氏が「なぜ食べないか」と聞くと,「唐辛子がない」というので,唐辛子は欠かせないものとして造船所から取り寄せた。

 写真もわかるように,あどけなさの残る15〜16歳の子供たちのことだから,異国の地の夜に泣く子もいて,三浦さんが添い寝をしてあげたという。

 その後も,ホームシックになったら三浦さんのところへやってきた。

 少年隊員達は,山登りをしたり,食糧不足を補うために漁業組合から網を借りて魚を捕ったり,貯木場の蟹を取ったりして遊んだという。昭和20年の4月以降は,グラマンによる空襲がたびたびあり,休みの日に防空壕を掘り,そこに逃げたという。

 少年隊の隊員達は,初日から錬成中に,朝鮮を出る時,母親が服の中にお金を縫いこんでいたお金を使用して博打をした。お金(賃金)を渡すことは,「逃亡につながる」また,「博打をやめさせる」ためということで,三浦さんのほうで,各自のお金(賃金)を預かった。

 昭和20年7月10日発行の「産報・神州」には,献金欄に「深井寮半島應徴士71名」が,6月分として献金している記事がある。(三浦さんが少年隊の同意を得て渡した) 村田かし子さん−玉野市日比在住・1925年7月1日生まれ(68歳)−は,当時深井寮で賄いをしていた。朝鮮から来た少年たちの印象を次のように語った。

 「寮の中でも,仲よく,素直な少年たちで,朗らかでした。中でも,小隊長の子は,しっかりしていて,賢かった。当時の食事のことですか?朝は,麦が入ったご飯に味噌汁・漬け物,昼は南京カボチャだけ,晩ご飯は麦ご飯に魚とか何かおかずをつけました。おなかはすいていたと思う。日本人も皆なそんな食事でしたからね。でも,私は少しでもお腹がふくれるように一杯ご飯を盛るなど配慮しました。」

 三浦雄治さんの奥さんも次のように語った。

 「礼儀正しい,教育の行き届いた子どもたちでした。結婚していた子も2〜3人いたようです。その子には,朝鮮の風習に従って赤いふとんを縫ってあげたところ,一人いた38歳の年長者にあげるといってきかなかった。また,行進のときその年長者が出来ないで殴られそうになったとき,みんなでかばいあうんです。そういった年上のものを大事にする気風がありました。」

<仕事>

 少年隊は,玉野造船所の各職場に配属されて働いた。『三井造船75年史』によると,玉野造船所は「神州第8201工場」という秘匿名で呼称されていた。当時戦時標準船を建造しており,昭和20年は商船9隻,漁船45隻,艦艇4隻造り,また潜水艦の製造は中止し代わって3月以後は特殊潜航艇「蛟龍」を月産10台の目標で造り始めた。

 朝鮮から来た少年造船隊は木工(材料運び・運搬)など軽作業などにあたり死者は出なかった,といわれる。大阪の少年隊員は,鋲打ち工の重労働をする者もいた。鋲打ち工の重労働をする者は,むしろ大阪の少年隊の子ども達で裸で作業をしたところから「裸部隊」とも呼ばれた。

 1ヵ月ほど経過した後,少年隊の隊員は兵庫県高砂市の曽根造船所(ヘイ2031工場)に転勤した。この造船所は,『三井造船75年史』によると,「昭和19年3月造船用鋼材の欠乏に対する応急策として,当時の舞鶴海軍工廠の指導下にあった武智造船所で行っている鉄筋コンクリート船の建造を促進するため」に,昭和20年3月から三井造船が経営に当たっていたところである。「E型コンクリート船1隻」を建造した。

 しかし,使用価値のないものだったので,1ヵ月ほどして玉野造船所に戻ってきた。

 この写真は,曽根造船所の近くで撮ったものである。少年隊の隊員は,近くの映画館を宿泊所にしていた。正面,前列右から木浦出身の少年・「河本」・「金田」・「坪井副官」・「三浦隊長」・「河田」と言うところまでしか,三浦さんの記憶はない。女性は賄い婦の日本人である。

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<深井寮>

 『三井造船75年史』によれば,昭和19年,「岡山刑務所の受刑者150人を『奉公隊』と名づけて,深井地区に移し,鋲打ち工として養成した」とある。

 その後,大阪の少年隊は昭和19年春先発隊として和田に38名来た後,昭和19年夏大阪と広島から少年隊という名称で260人の子ども達も働きに来た。朝鮮から来た玉野造船少年隊は,「大阪少年隊」(200名)と「広島少年隊」(60名)と年齢的にも近いということもあって一緒に深井寮に入ることにした。

 深井の寮施設は,元々中国人捕虜収容所のために作られたものであった。中国人捕虜収容所というのは,中国の河北省から強制連行されてきた「捕虜」で,133人が玉野に来たが,玉野造船所は軍事秘密があるということで,数キロ離れている渋川海岸近くの玉野市の日比にある三井金属日比精錬所に配置された。(玉野光南高校社研部「わが町玉野を考える」として,全国教研レポ−ト1990年1月に報告)

 余談ながら,この度「外務省報告書」として,三井金属日比精錬所に強制連行された中国人34名の名前住所などが明らかになった。年齢も40〜50歳代が多く,死亡者26名も出た。内1人は確認できる。

 中国人捕虜収容所ということもあって,周囲は威圧感のする高い塀であった。それでは困るということで,塀の高さを半分に切り,迎え入れたという。

 大阪・広島の少年隊と玉野造船少年隊は,「仲良く喧嘩をすることもなく,相撲を取ったり,風呂で背中を流しあったり,食事も勉強もみんなで一緒に楽しく過ごした」と,三浦氏は語る。

 ただ一つ,こんなエピソ−ドがあると話してくれた。

 三浦氏は,病気で三井病院に入院していた。「赤木」という元曹長で34〜35歳の副官が,大阪少年隊出身の子どもを竹刀で殴った。三浦さんが入院していた三井病院へ小隊長の子がと訪れ「暴力に耐えかねて脱走を考えている」と打ち明けた。当時,玉野造船教育部教育課長江口氏と相談の上,三浦さん(隊長であるとともに保護司であった)は,タンカで運んでもらって帰って来て,「赤木」副官を罷免したという。その後「赤木」副官は,協和隊の中隊長になって,また暴力を振ったため協和隊員に袋叩きにあった,という噂を聞いたと三浦氏は語る。この「赤木」なる人物が,玉野光南高校社研部の調査した『史実になれなかった真実』P57に出てくる第11中隊の「赤沢」こと「赤パンツ」のことか。

 金龍玉さんの手紙より
 到着して2日目の夕暮れだった。私達は,軍隊組織で単位は中隊の上に本部があり,全体を統制,全部で十四中隊だった。中隊長は日本人である。私の属した中隊長の名は忘れた。アダ名は赤パンツ、はっきり覚えている。赤パンツのみで竹刀または木刀を引き携え一階から二階へと肩には力を入れ,正に時代劇にでる田舎武士,目玉をギョロリと光らせながら,天下は俺のものと,横柄な態度で威張り廻ったのである。最初のこと,何事かと訝しげに思ったのだが,あわや二階で騒がしいので,駆け上がって,駆け上がってみる。赤パンツは,隊員を犬だたきをするではないか。隊員は鼻血で顔は血に覆われている。何の抵抗もせぬのに,続け様に乱打だ。とうとう隊員は,ククッと息を呑むと同時に気絶したのである。赤パンツは気絶した隊員に止めを刺すが如く,今一度足で蹴飛ばし肩を張り室を出たのである。殴られた隊員は鼓膜が破裂,背骨を傷つけられまもなく帰郷した。(金龍玉氏の手紙から)

<現在の三井造船の工場配置図>

 <1945年当時の玉野造船深井地区>

 職員宿舎  受刑者の寮
坪井氏の部屋・事務室
  150
 本部事務室
蛸崎鼻
板間 倉庫
   娯楽室  勉強室 寮母室 吉野副隊長の部屋
野菜 炊事の人
大阪少年隊の寮 100 の部屋
便所 守衛室
大阪少年隊の寮   100
野菜 便所  貯木場
倉庫
朝鮮の少年隊の寮  72(70)
便所 炊事場
野菜
広島少年隊の寮   60 風呂
 深井町
犬戻鼻

<深井寮拡大図>

朝鮮の少年隊の寮  72(70)
便所
5号室4号室3号室 2号室1号室

6人部屋

三浦氏

隊長の部

 2階建
 机・長椅子 ここで食事・点呼
 6畳 6畳 6畳  6畳 6畳事務室

副官坪井

氏の部屋

  便所

<終戦から帰国へ>

 朝鮮から来た少年造船隊は,1945年8月15日を,玉野で迎え「戦争がすんだ,帰国できる。」と喜びあった。

 『三井造船75年史』によると,9月末までの臨時休業が決まっている。「新規応徴士の解雇,半島応徴士の本国送還など終戦処理業務を進めた」とある。

 仕事は無くなったが,毎日点呼の時,「今帰国の交渉をしているから,心配しないように」といって三浦さんは励ました。10月上旬に帰国船が出ることに決まり,「預かっていた給与,お米,おにぎり・軍服2枚・毛布1枚を渡した上,少年たちが使用していたふとんの生地をきっと役に立つといっておみやげに持たせたあげた」と三浦さんはいう。一番印象に残った少年として,入所式の写真で一番上の列の右から4番目の小隊長の少年のことを,三浦さんは指さした。木浦(モッポ)出身の少年で「この子は日本語がわからなかったし,反抗的で,扱いにくい少年だった。しかし,別れのとき1番大粒の涙を流して泣いたのを昨日のことのように思い出す」と,三浦さんは語る。

 また,「帰国後は,日本と仲良くするために一生を生きたい」といっていた少年もいたそうだ。

 三井造船で当時建造された戦時標準船「栄豊丸」という船が送還船として使用されることとなり,10月8日に乗船し,10日に玉港を出航したのであるが,栄豊丸は運悪く故障して玉港に引き返した 『玉野市史』P764

 この栄豊丸には,中国人強制連行者・協和隊員・全国各地から帰国を望む朝鮮人強制連行者約3500人が乗船していた。もちろん玉野造船少年隊の70人も乗っていた。

 「栄豊丸が韓国に着いたら,船が接収されることはもちろん,私自身の生命も危ないことはわかっていたが,連れてきた以上送っていくという決意であった」と,三浦さんは語る。玉野造船側としても送っていく人の希望者を募ったところ,三浦さんと勤労課長の後藤氏と兵庫県から強制連行の朝鮮人を引率していた播磨造船の係長水野氏が名乗りを上げた。余談だが,禹奎鎬さんも協和隊員の一人として乗船していた。禹さんの証言と三浦さんの証言で一致することは多い。

 船の中で持っていたお米を賭けての博打がもとで朝鮮人同士の喧嘩があったりした。出港後,伊予灘あたりの来島海峡の潮の流れは早く,この船のエンジンの調子では座礁するしかない状態で,玉港に引き返した。

 この時,せっかく帰国できると思っていたのに,出発した後引き返すことになった栄豊丸に怒った朝鮮人強制連行者の間で責任を追求する声が上がって,多くの朝鮮人に日本側の代表者三浦さんが担ぎあげられ海へ放り投げられそうになった。その時,玉野造船少年隊が「隊長を殺すな!」といって助けに来てくれた。このことは,7ヵ月間で少年たちと三浦さんとの間で心が通い合っていたことを示すエピソードの一つであろう。

 玉野造船少年隊は玉野市深井寮に入って待っていたが,10月20日頃エンジンを直した栄豊丸に2度目の乗船となった。乗船後,アンカーをあげて汽笛が鳴りいざ出港ということになって,進駐軍が乗り込んできた。玉港からは出発できなかった。外国にむけて出航できる港は日本で6ヵ所のみとなったという。この時のことを,村田かし子さんは「朝鮮の少年たちが帰国するというので2度も3度もたくさんご飯を炊いておにぎりをいっぱい作った」と,懐かしげに語ってくれた。

 三浦さんは,この時のエピソードを2つ語ってくれた。

 2度目に乗船した栄豊丸の中で換気のためデッキの蓋が開いていた。「金田」という少年が,ハッチの縁を歩いていて約30メートル下へ落下した。「もう助かっていないだろう」と思いながらも三浦さんは無我夢中でロープに伝って降りていくと,下にシートカバーがありそこへ落ちて助かっていた。九死に一生を得て,「ホット」したのと同時に抱き合って泣いたと言う。

 夜,栄豊丸に乗船した三浦さんらは朝鮮人強制連行代表者12〜13名を玉野市の西本町にある料亭「吉野屋」で接待した。この時,協和隊員もいたように思う,という。

 結局,関釜連絡船と接続している特別列車が10月末に神戸から出るという話があって三浦さんは送っていった。三浦さんは神戸で玉野造船少年隊と別れて,50年間別れたままだ。列車で下関に行き関釜連絡船で帰ったのではなかろうか。帰国できたのは,中国人強制連行者が送還船の中で11月3日に一人死亡したことが「外務省報告」の中にあることから,帰国したのは11月上旬と見てよい。

<三浦雄治さんの手記>1994年7月2日

 二十年住み慣れた玉野市を離れて,東京で暮らし,東京が終焉の地と決めていたが,昨年四月長男夫婦と同居して老後の余生を送るために再び帰ってきました。

 在京中も韓国の問題について色々な報道がある毎に特別な関心を持ち,いつも韓国から連行した少年隊員の当時を偲び,永い歳月を経た今も如何に過していることかと,懐かしさと幾百里の波濤を越えて唯素直に勇々しく行動した姿を思い浮かべて心を痛めていました。

 玉野市に定住して間もなく山陽新聞で,玉野光南高校の青木先生が戦時中朝鮮から連行されて産業戦士として耐え難い苦難の大きな犠牲をされた人たちのために,色々調査されたり日韓の悠久融和のために御献身されておられる事を知り,常に同じ願望を持っている者として感謝の一言を申し上げたく,尚少年隊員の消息が知りたく青木先生に連絡して所持していた写真を提出して少年隊員の実態をお話しました。

 その後先生の御熱意,各報道機関の御協力と,特に協和隊員として戦時下の三井造船所に勤務されていた禹奎鎬さんの温い御厚情により嬉しい情勢に感激と感謝をいたしておりました。

 来たる7月27日青木先生御一行に老骨ながら同伴して渡韓し,一人の隊員とでも面会したい。それが果たせなくとも,帰国者の消息を知ることができればと一時決心しましたが,やはり八十一歳の老体のため断念しました。青木先生を始め多くの方々に御迷惑をおかけいたしましたが皆様の成果を只管祈るのみであります。

 ことに禹奎鎬さんとは終戦後輸送船栄豊丸で色々深いご縁があったと思われ,お会いして当時を語ることができればそれのみであっても渡韓の意義はあると思います。今後のこともお願いしたく考えていましたが,今はお帰りを待ち皆様の成果を待つばかりであります。

 やがて,五十年を迎えようとする過ぎた想い出でありますが,昭和二十年四月頃少年たちを迎えに行く頃は,朝鮮海峡ではアメリカ潜水艦が軍輸送船・商船はもとより病院船まで撃沈している状況でありました。渡韓にもまた少年たちを引率して日本に到着するときも不安な航海でした。夜のみの航海であり,薄暗い船室の中で輪になって朝鮮の舞や歌で眠れぬ夜を過ごしました。私は不安な気持ちをなくするためにと考えたことであっても,朝鮮民謡の哀調と父母に別離して行く少年の心情に流れる涙をみせないように私が甲板にでると,幾人かの少年隊員が暗闇の中で故国との別れを惜しむ姿を見て,またたまらぬ不憫になって夢中で抱き合って涙を流しながら時を過ごしたことを忘れません。

 日本に到着した少年たちの行動力は素直で礼儀正しく,日々の行動にも遠く離れてきた故郷や両親・家族を思慕の悲しみを少しも見せないで,戦争に勝つ事のみの決意と優秀な技術修得を果たす目的達成の心情は私たち関係者一同常に感動させられていました。

 七十名の少年一同の作業態度・寮での一手一足他の隊員の模範となる行動のため寮生活で何の不安もありませんでした。暑い夏の季節ながら,環境に恵まれた事も幸いであったことが不憫な少年たちと日々を過ごす私にとってせめてもの慰めでありました。

 夜の空襲の時や艦載機の機銃掃射の時の少年たちの敏感な行動は,職員一同いつも感動しておりました。たびたびの空襲にも1名の被害者がでなかった事が幸いであったと,今もまぶたの裏に当時のことが鮮明に蘇ってくるなかで,心をなでおろしています。

 曽根造船所に勤務中,軍の要請により鉄道の荷物の積み降ろしに幾日か行ったこともあります。隊員が一生懸命作業に勤め予定より早く完了したので,軍より砂糖やその他当時民間で手に入らぬ品物を特別支給されて宿舎に帰り,大騒ぎして慰労会の演芸会をして,懐かしい故郷の舞に歌も出て楽しい一時を過ごした事もあります。

今,当時の少年たちの上に想いをよせる時,戦争とはいえ少年たちが優秀な技術修得と発展した日本の現状を知りたいと念願する気持ちがあって,来日を希望した少年であっても,一言の愚痴も言わず,淋しさ悲しさの表情も見せないで,ただひたすら尽くしてくれた心情に感謝の気持ちを捧げ,なに一つ報ゆる事も出来なかったことを悔いるのみです。

 帰国出発時に軍装一切総べて新品を支給したりこれまで使っていたふとん一揃いと新しい正絹で金糸銀糸の入った夜具一揃いを御両親のお土産にと支給したことのみ心の慰めです。

 終戦後,いろいろ話し合った時「復興して国交がひらかれた機会には再び日本に来て初期の目的を果たしたい」と,堅く手を握りあった事も儚く五十年を迎えようとしています。少年たちに対しせめてもの気持ちを押さえがたく,栄豊丸で朝鮮の人たち三千有余名と一緒に送還するため二度乗船したが出発を果たせず,最後神戸駅から特別列車で見送った時の心情は終生忘れることはありません。

 二十年振りに玉野市に帰省して,少年たちの過ぎた日の想い出に触れ合う機会をお作りくださった青木先生お始め多くの方々に心から感謝します。八十一歳の翁,余命いくばくもない身でありますが,青木先生一行が再度訪韓されて少年たちの近況を知り得ることが出来ればこの上の嬉しさはありません。

 日本人で戦死された人や韓国の人たちで大きな犠牲をされた方たちについて,慰謝の不十分な対策処置に今なお問題を残している事を残念に思います。

 日本が現在の発展と安定して幸せな日々を過ごすことのできるのは,多くの尊い犠牲の

結果である事を想い忘却せず,日本と韓国が真の融和が達成して共存共栄の祝福される日をひたすら祈りつつ,少年隊員が幸福な日々を過ごしていることを祈念しながら愚筆を止めます。(三浦雄治)

<青木康嘉の感想>

 玉野造船少年隊について語るには,三浦雄治さん抜きには語れない。写真も証言も大半が三浦さんの記憶によるものである。

 全南日報に,1993年8月28日社会面の4分の3を占める記事に掲載された。続報が10月4日,私が訪韓した12月28日の記事と3度に渡って記事になったが,玉野造船少年隊からの申し出は現在のところない。

 高齢のため結局は断念されたが,一時三浦さん自身が「この夏に私たちと訪韓して,麗水の地に立ちたい,今は65〜68歳になっているだろう元の少年たちに会いたい」といわれた。

私は,はたして三浦さんが韓国の社会の中で受け入れられるだろうか,を考えてみた。

 たぶん,「謝罪に来たのか」というのが一般的な韓国人の受け止めかただろう。しかし,三浦さんに後ろめたさはない。それは,当時の職業訓練所にいた少年たちは「希望して来られた」のであり,「私自身誠心誠意,少年たちの世話をした」「一人の死者や怪我人も出ず,もちろん暴行もふるうことがなかった」という少年隊たちとの信頼関係が心の底に確信としてあるからであろう。

 三浦さんの持つ感情と今は65〜68歳になる元少年隊の50年後の感情はすれ違う可能性も高い。もし再会したとしても,ドラマのように抱き合って再会を喜び会うよりは,むしろその逆もありうると思う。15〜18歳の少年が,当時の雰囲気で仮に「希望して日本にいった」としても,その「親日派」的な態度が素直に表現できるほど韓国社会は甘くないし,隊長・三浦さんの見えない日本での苦労があったことは想像できるからだ。

 しかし,もし少年隊の一人でも日本に来て三浦さんに会いたいといったら,招待したい気持ちを持っている。

 さらに,このレポートを韓国の人に読んでもらいたい気持ちがある。禹奎鎬さんに翻訳してもらって,「強制連行」についてこんな話もあったのだということを韓国の人にも知ってもらいたい。

 今年映画部門でアカデミー賞をとったスピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』が話題になった。主人公オスカー・シンドラーはナチの党員で,実業家で,最初は安いユダヤ人強制収容者を利用してお金儲けをしたかっただけかもしれないが,結果的に1200人のユダヤ人を救い,ユダヤ人との心と心の交流まで発展し,戦後50年たった今もその時のユダヤ人や子孫がオスカー・シンドラーの墓参りを続けるところで終わり,多くの観客から感銘を受けた。

 三浦さんとオスカー・シンドラーは立場が違う。しかし,韓国でも今の若い人は「強制連行」というと,テレビや本・教科書で学ぶ限り,日本人はすべて悪者に描かれているのではなかろうか。実際,「悪い」・「ひどい扱い」をした日本人が多かった真実は消えない。しかし,韓国の人が,15〜18歳の少年を日本に「強制連行」したという事実だけ知って,「日本人はひどい!」という感情的な糾弾をして,日本人に謝罪を求めるだけで金永三大統領がいうところの「未来志向の日韓関係」が構築できるだろうか。

 「強制連行」した事実は事実として謝罪しなければならない。しかし,例外かもしれないが,三浦さんのように朝鮮から「強制連行」して来た少年たちを誠心誠意お世話をして心と心が通い合った日本人がいたことも韓国の人に是非知ってもらいたい。いつまでも,日本と韓国との関係がこの問題になると糾弾⇔謝罪の構図が続いていたら,本当の意味で「未来志向の日韓関係」は産まれないと思う。

 そんな気持ちでこのレポートを作った。理解されるかどうか,自信はないが,これから

の日韓交流の問題提起としたい。(青木康嘉)