「緑の大地」 |
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七虎力開拓団(ひちこりき) |
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七虎力開拓団 |
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七虎力開拓団は、「北満」にあった。牡丹江とチャムス間の鉄道沿線にある。最寄りの駅は、 閻家(えんじゃ)駅である。閻家駅から東に一つ山を越えると、大豆畑やとうもろこし畑の 「緑の大地」が広がる。六十年前と同じ黄色い道が続く。しかし、かってそうであったように、 ひとたび雨が降ると黒いぬかるみに変わり、道は大きな陥没をつくる。私たちの一行も、3日前の雨で あと4〜5qという地点で前に進めなかった。菊水郷(兵庫県出身)があった付近で立ち往生した。 遠方に本部跡だった二道溝中学校が見える。北に目を移すと、七虎力河も見える。七虎力河を越えた あたりが千振開拓団であった。
七虎力開拓団を紹介しておきたい。1938(昭和13)年、第7次七虎力開拓団として入植した。 当時は、謝文東を初めとする「反満抗日」闘争もあり、治安のよかった地域ではない。 武装開拓民として入植している。39年に、謝文東らが帰順して以降治安は落ち着いてきて、 40年には郷里から「大陸の花嫁」を呼び寄せた。
西崎忠雄著の『七虎力村』によれば、178戸626人が入植していた。兵庫・岡山・鳥取・島根・ 山口5県下出身者で村役場から国民学校・農協・病院・神社・郵便局もあった。岡山県出身者は、 本部から奥へ約10キロ近く離れたところに岡山郷・備前郷・吉備津郷・美作郷と郷土単位で居住して いた。
1945(昭和20)年4月から7月までに、七虎力開拓団の129名の45歳まの男性が現地召集された。 いわゆる「根こそぎ動員」である。ソ連参戦の知らせを聞いて、8月10日本部に全員集合して、 「現地を死守しよう」と決定した。各郷の空き家への襲撃が始まった。8月15日に、「依蘭方面に 一時退避せよ」という命令がきた。役員の年配男性と、若いお母さんと乳幼児の約500人の逃亡生活が 始まった。12日にまとまった雨が降っていて、閻家駅に続く道はぬかるんでいた。約80台の馬車を 連ねた逃避行が始まった。8月16日、閻家駅から西へ中川村開拓団を昼過ぎ通過した。張家屯と いうところにさしかかったところで襲撃にあった。
団長以下ここで襲撃にあって死亡した。ここには、母親が死亡しているのも知らないで泣いて いる赤ん坊がいた。母親とはぐれた小さな子がいた。四散した後に絶望した者の中に、集団自決が おこり、子に毒を含ませた母親もいた。三道崗でソ連軍の捕虜となった。依蘭組と伊漢通組に 分かれて開拓団跡に収容させられた。そこで、足止めにあった。帰国命令がでる8ヶ月あまりの 開拓団跡収容所が、また悲劇の場となった。
厳冬の季節がやってきた。栄養不良に、風邪、発疹チフスが蔓延した。ソ連兵が女性目当てに やってきた。そのため、女性は顔に墨を塗り、頭を丸めた。「子どもを預けないか。いい薬があるよ」 といって中国人がきた。子どもを助けるため、中国人の妻となった残留婦人も多く出た。毎日毎日 死体の山ができ、誰かが死ぬとその衣服を競って脱がせ奪い合った。
方正県という街がある。ハルビンとチャムスを結ぶ街道の街である。「ソ満国境」付近の 開拓団民はハルビンに向けて逃避行を続け、方正県で足止めにあって越冬した。寒さと飢えと病気で 死亡した日本人が4500人近くいた。方正県は、残留孤児と残留婦人が最も多いといわれる地域である。 『七虎力村』の記録によれば、七虎力開拓団の生還者は、207人、死者400人、行方不明38人、その他 63人とある。生還率は約30%であった。
七虎力開拓団員と苦力 |
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