「岡山県龍爪開拓団」 |
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4 龍爪開拓団八幡郷 |
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どんなに文献を読んでも、その「現場」に立った体感を共有しないと歴史は実感出来ないと 感じることがある。大地、風、大空、空気、山、河川、現地の人々、農産物などを全身で 感じないと書けないことがある。2007(平成19)年夏、私たちは牡丹江のホテルを出て、 バスは、北に向かって高速道路を走った。北緯45度、日本で言えば稚内あたりの緯度にあたる。 龍爪開拓団がある林口駅まで約120km。なだらかな丘に一面のトウモロコシ、大豆、ひまわりが パッチワークのように続く。時に地平線まで続く緑の大地がきれいだった。林口駅から約2〜3km 南地点に、八幡郷があった。昭和20年の龍爪開拓団の地図に記入されている炭鉱(ボタ山)が 今でも近くにあった。それが場所を特定する決め手となった。ここは、高見エミ子の住んで いた開拓団跡地である。
父の高見慎と敬市が兄弟なら、母きしのとコメも姉妹という関係だった。先遣隊できて いた弟夫婦の敬市・コメが誘った。上房郡の賀陽町にいた慎は、「ここで百姓するよりは・・」 といって、開拓団に加わったという。1939(昭和14)年秋に龍爪開拓団にきていた。父の 高見慎、母きしのの長女であったエミ子は、1938(昭和13)年に生誕した。次女の弓子、 三女の雪子、長男の幸成と4人の子どもが次々と産まれた。そして、きしのの一番下の妹である 神原君恵(昭和6年生まれ)も同居していた。
当時の様子を母から聞いた話として、エミ子は次のように語った。
「父は、商売もうまかったから、ここで収穫したコメや穀物、野菜、蜂蜜といったものを 海のものと物々交換してきました。だから、食べるものに苦労したことはありませんでした。 井戸の水もきれいでそのまま飲めたし、牛や豚や鶏も飼っていました。共同の風呂、ランプ 生活、井戸の水くみ、冬のトイレなど困難なことも確かにありました。私は、龍爪国民学校の 林口分校に通っていました。残留孤児で岡山地裁の原告団に加わる今岡泰子さんと同級生でした。 私が小学校1年生の夏、そんな生活は一変しました。昭和20年7月に父親に現地召集が来て、 それからまもなくしてソ連が参戦しました。東寧に向かった父親の慎は、出征したまま二度と 帰ってきませんでした。」