「岡山県龍爪開拓団」 |
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14 中国残留日本人孤児 |
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1977(昭和52)年暮、兄の進は奥さんや子ども3人と帰国して上房郡賀陽町(現加賀郡 吉備中央町)に定住した。一時的には歓迎され、町役場の支援もあったが、そこではアルバイトや 援助だけの生活だった。中国では精密機械の技術者であったが、日本に適職はなかった。 慣れない仕事とストレスの連続で目が不自由になってきた。自立した生活を望む進は、 山陽団地に移り、岡山県立盲学校に入学し、鍼灸師の資格を取って、その後岡山市の一宮地区に 鍼灸院を開設した。
日本で自立した生活をすることに苦労した進は、日本語をうまく話せない弟の英夫の 帰国に反対した。自分と同じく苦労をさせたくない気持からだったと推測される。兄も親戚も 英夫の保証人になってくれなかった。1982(昭和57)年、船越美智子が英夫の保証人となって、 6ヶ月間一時帰国した。中国に帰って帰国の話を持ち出すと、デパートへ勤めていて生活も 安定してきた奥さんの王桂琴は「日本語わからない。日本と中国は違う」と、反対した。
当時、3人の子どもたちもそれぞれ家庭生活を持っていた。1988(昭和63)年、船越美智子は、 瀋陽にいた英夫の家を訪問した。
1992(平成4)年12月、英夫は望郷の一念から長男と長女家族を連れて、7名で帰国した。 総社市に住むことになった。時に英夫、55歳だった。
「言葉もわからず、仕事場は日本人ばかり、中国では日本人(英夫)のことを『日本鬼子 (リーベン・クイズ)』と呼びましたが、日本では私のことを『中国人』と呼びました」(高見英夫「私の中国残留体験」)
日本での生活のストレスから英夫は、胃を切る手術をした。奥さんも次男も心配して 日本に来た。日本での再生活が始まった。
総社市の工場で5年間働き定年になった。必死で頼んで半年延長してもらった。退職金も 厚生年金もわずかだった。総社市では仕事がないので自転車で岡山市のハローワークに通った。 しかし、仕事をさがしても「日本語が話せない」ために仕事はなかった。
「日本では、普通の日本人が送るような生活ができると思っていました。だけど、その 現実は、日本人が最低でもしている生活もできないのです。何の自由もない感じで、息が 詰まりました。生活の余裕、そして自由がほしいのです。私たち一家が日本に帰国し、日本 政府に私たち残留孤児に向けての制度と法をつくってほしいのです。何の心配もない老後生活が 送れたらそれでいいのです。それが残留孤児の希望です。」(高見英夫著「私の中国残留体験」)
生活保護を申請すれば、中国へ自由に行き来できなかった。養父母のお見舞い、葬式、 墓参り、夫婦の里帰りすらできない。そこに「残留孤児の現実」があった。