悲劇の青春15
「悲劇の青春」

長春と西安炭鉱

長春の元三中井百貨店前にて山本弘之さん

 長春は、旧満州国時代に「国都・新京」と呼ばれた。関東軍司令部跡や新民大街には旧満州国時代の国務院跡や経済部跡など建物が残っている。緑の多い美しい街であった。

 長春には、偽皇宮陳列館がある。ラストエンペラ−である愛新覚羅溥儀の皇宮である。「勿忘9・18」展が開催されていた。

 長春の街を一巡り観光した後、ホテルに戻ろうとしている時、山本弘之さんが尋ねた。「三中井(ミナカイ)百貨店は、今でもありますか」

 「今は、百貨大楼として残っていますが」

 昭和25年5月皆木先生以下30名は、文官屯(瀋陽から1つ北の駅)の南満造兵廠に派遣された。山本さんらはここで、旋盤などたくさんの工作機械を使って兵器を造った。作業の合間には、地雷弾を両脇に抱え、戦車の下に飛び込む訓練もした。8月15日玉音放送を聞いた。終戦して1〜2週間後、工作機械を解体してソ連に運ぶ使役に使われた。

 事もあろうに、「勃利に向かって北上する」と言う命令が出た。しかし、新京(長春)駅で足止めになった。やむなく約1ヵ月滞在した。街の中に出て、着ている衣類をマントウと交換して空腹を満たす生活だった。その頃、三中井百貨店近くの白山小学校に住んでいた。勃利から逃避行して浅山次夫さんが新京に来ていたことは後で知った。

 9月末、「隊は解散か」、「生きるため四平省の西安炭鉱へ行くか」の岐路にたった。結局、本隊は西安炭鉱行きを選んだ。削岩機で孔をあけ、そこへダイナマイトをしかけ、発破をかけた。その後は、ツルハシで石炭を掘る生活が続いた。

 昭和20年の2月頃が、一番厳しい時期であった。勃利から同行していた幹部が事もあろうに隊員の給料を持ち逃げした事件もあった。炭坑内でガス爆発にも遭遇した。多数の死者が出たが、運よく脱出できたこともあった。

 半数以上の隊員が、厳寒と栄養失調の中アメ−バ赤痢や発疹チフスになった。松田君、竹本君が西安炭鉱の宿舎の中で、友人の介護もむなしく亡くなった。

 山本さんも、高熱・下痢が続き、発疹が体中にできた。意識不明が1週間も続いた。堅いアンペラの上に痩せた体、床づれは全身にできた。隊員の田辺君らの炊事当番が交代で不寝番をし、看病してくれた。「そのおかげで助かったようなものです」と、山本さんは九死に一生を得たことを思い出として語った。

 昭和21年7月に、日本人居留民団から引き揚げの話がでた。8月20日、山本さんらは、葫蘆島から帰国した。 


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