悲劇の青春19
「悲劇の青春」

瀋陽−その4

杉山勝己さんの家族と

 今年の5月末、オルガの調理室を借りて、餃子交流会を開いた。

 杉山勝己さん家族と交流することを目的とする会だった。村上中隊関係者や元開拓団の人、生協のお母さんなど15名集まって、餃子の皮作りから始まって、たくさん水餃子を作って楽しんだ。餃子作りの講師は、杉山さんや恵美さん(長男の嫁)や愛子さん(次男の嫁)であった。

 杉山さんは、昭和4年英田郡巨勢村で生まれた。巨勢国民学校高等科の時、「満州建国のために中国へ行ってくれ」と、担任の先生に強く勧められた。

 大茄子訓練所から満飛へ派遣された。玉音放送の後、中隊は解散となり、頼るあてもなく異国をさまよった。まず奉天市内から南へ向かって歩いたという。日本へ近づくと思ったからだ。夏服のまま冬が来た。お金も食べ物もなかった。へびを取って食べ、残飯をあさった。10月下旬「死」が近づいてきた。数日間食べ物を口にしていなかった。

 4歳の中国人の男の子が声をかけてきた。満飛の近くへ住んでいた子だった。その子と父親が、杉山さんを救ってくれた。

 養父である周慶福は、精米業を営んでいた。杉山さんに周連山という名前を付けてくれた。当時、中国人に助けられ、住み込みで働いた隊員も多い。なぜ、残留したのか。杉山さんは、「養父母に人間としての恩を感じて、帰りにくかった」と、言う。食べさせてくれただけでなく、3人の子がいたにもかかわらず杉山さんを実の子と同じように優しく接してくれた。「奉天」 は、瀋陽と代わっても、国民党軍と八路軍の内戦があった。昼間は、家族で逃げ、夜になると戻る生活が続いた。

 杉山さんは、中国では日本人であることをひたすら隠して生きてきた。しかし、1972年の日中国交回復を機に、望郷の念は益々深まった。故郷に手紙を書いた。一時帰国の時、35年ぶりに母と再会した。戸籍は抹消されて、墓石に自分の戒名があった。

 1986年、瀋陽の地で母の死亡を聞いた。1人で泣いた。子どもたちが独立したので、妻の李春菊(杉山春子)に帰国の決意を打ち明けた。1996年3月、次男家族5名と帰国した。親戚よりも、村上中隊の仲間が一番暖かく歓迎した。長男家族も、長女家族も、相次いで日本に来ることができた。

 現在、杉山さん一家は、岡山市長岡に住む。国策で「満州」へ渡り、事情あって50年後に帰国した人々に、日本人社会は冷たい。

 「悲劇の青春」は、過去の問題ではなく、21世紀の日本人の課題でもある。 


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