悲劇の青春22
「悲劇の青春」

元村上中隊(九六会)参加者代表 御礼の挨拶

義勇隊に入る前の山本弘之さん(当時14歳)

  御礼の挨拶 山 本 弘 之

「53年ぶり、旧満州は厳然としていました」
「心に、大きな安らぎを、得る事ができました」

 今回の訪中旅行につきまして、身に余るご協力頂きました皆さんに、心より厚く御礼申し上げます。本当に有り難う御座いました。

 お陰様にて友の眠る「幾つかの地」を訪ね、ささやかながら『供養』もでき、現地の子供たちとも平和を願う『友好の交流』もできました。 私たち九六会会員はすでに古希を迎えた高齢です。どちらかと言えば遅すぎた訪中でしたが、悲願を果たし、 心に大きな安らぎを得ることができました。

「純粋な少年の気持ちを、
  国・学校が駆り立てた義勇軍募集でした」

 私たちは現在、小さな親睦会ですが『九六会』として、相互に連絡の出来る者約30名を中心に全部で約70人の友が県内外に点在し、 年に1度の集まりを最低の楽しみに交流しています。

 私たちが初めて会ったのは、なにぶん今を溯ること54年前の昭和19年2月の事でした。 県内各地の小学校より応募させられた14〜15歳の少年を中心に「満蒙開拓青少年義勇軍・村上中隊が結成された」のです。 参加人数はまちまちで、多い学校では5名も10名も揃って応募した学校もありました。 私の通っていた飯岡小学校での応募者は、前にも後にも昭和17年に2級上の「松原英雄さん」がおられただけで、 昭和19年の小生と2人しか参加していません。

 私が生まれたのは昭和5年、それは大変な不況のドン底で、農村は疲弊し街には失業者が溢れ、 労働争議は各地に起こり暗い社会面でした。国民の声は思想弾圧で押さえられた。 そんな世の中を嘆く意で「やじゃありませんか・・・」という「ざれ言葉」が流行った程です。 その行き着く先は柳条湖に端を発する満州事変、そして盧溝橋事件から日中戦争・太平洋戦争でした。 このように私たちの少年時代は全て戦争に埋めつくされていました。

 「行け青少年、北満の沃野へ」「五族協和、王道楽土建設」の大義名文のもと、 国・県教育機関から末端役場や学校が競って「青少年の義勇軍送出」を国策協力の成績として 青少年を駆り立てたのです。その勧めに本人はもとより、親すらお断わりする術はなかったのです。

「義勇軍は社会からも離されていた   
 病気、飢餓、ドン底、やっとの帰国」

 ともあれ昭和19年2月、まだ霜柱の立つ故郷を後にした。基礎訓練は、茨城県内原訓練所での徹底した 「お国の為の精神教育と軍事教練」による身体鍛練でした。そこでの3カ月間の訓練は、親元離れ・ 故郷離れに加え一般社会との決別でもありました。そして、更に昭和19年5月の渡満、日本からも 遠く引き離されました。

 「東洋平和の為ならば」「撃ちてし止まむ」の国策スロ−ガンに少年の心はいやが上にも 鼓舞され勃利訓練所に入った。私の所属した村上中隊全員が曲がりなりにも苦楽を共にできたのは、 渡満から1年に満たない昭和20年3月頃迄でした。それからの隊員は、若干の勃利残留者を残し大半の 人数が軍の命令で大連、文官屯、奉天等に派遣され、それぞれの場所で敗戦を知らされた。 それから、昭和21年の引き揚げまで殆どの友がバラバラで越冬、生死のドン底をさまよったのです。 勿論、不幸にして亡くなられた友が50余名もいる事を知ったのは、戦後数10年経った後のことでした。

「九六会と一緒に
 参加して下さった方々に感謝」

 一昨年の懇親会で中国旅行の話が出た。「折角行くなら単なる観光ではなく、慰霊を兼ねた 内容にしよう」というのが総意であった。しかし、具体的な計画をどうするか事務局としても 悩んだところであった。そんな折、3年前に、勃利やその周辺の開拓団跡を訪ねた経験をお持ちの 青木先生の来訪を得、その後湯原「真賀温泉」の役員会、昨年10月の「足温泉」での懇親会に出席を 頂き実施の大筋が確認できた。それから出発までの約1年間、肝心の参加者・友好費募金等固めなければ ならない問題に日時はあっという間に経過した。それと言うのも私たち「九六会」のメンバ−は、 一番若くて古希に達する年齢であってみれば、参加支障に事欠かなかった。参加を決めた人の中にも 病気で断念せざるを得ない者もあり、誠に残念ながら結局代表6名の参加となってしまった。

 中核となる私たちの参加人数がこのようでは、無責任ではあっても「中止止むなし」と思う中、 青木先生より、知り合いで「趣旨に共鳴して参加を希望する方がご自身を含めて7名おられる」との 連絡を受けた。計13名は、旅行社「アジア・コミュニュケ−ションズ」としても団体が維持できる 最低限の人数で、これ以上の減員は許されないこと。ここで、我が参加者6名は心身共に出発に向け、 最終的なホゾを固めた次第であった。

 それに、現地2ヵ所の学校に対する「友好の教育基金援助」のための募金もお陰様で、 当初の目標額を達成することができた。

 そして、協力参加者ともいえる方々は多彩というか大変真面目な方々でした。 終戦直前の8月10日、北朝鮮で現地召集を受け「延吉」の病院でお父さんを亡くされたという 立石直美さんと一緒に、慰霊のご冥福をお祈りできたこと。高校教諭のOB・現職の3名の先生は、 かっての日本と旧満州の歴史を体で勉強しようと参加され、今回は「満蒙開拓青少年義勇軍」の 事柄も付加して頂いた。それに、商店社長で日頃から日中友好に造詣のあるお2人を含む、 心強い9日間の旅でした。

「旅行成功は 皆さんご協力の賜物です」

 また、この村上中隊「悲劇の青春を訪ねる旅」の募金にご協力を頂いた「遺族の方、友人の方、 関係者ご家族の方、九六会」の皆様、それにこの細事を報道記事として取り上げて下さった山陽新聞、 テレビOHKに対しまして、誌上からでは御座いますが厚く御礼申し上げます。

 旅を終えて思うことですが、正直申し上げて私たちにとって年齢的にも遅すぎた訪中旅行でした。 この様な旅行が、一人私たちの力だけで成功するものでないことを痛感すると共に、 参加者全員が無事初期の目的を達成できましたことをお礼と共に報告させて頂き、 あいさつと致します。

  <大地を訪ねて>
   私たちが
  どう思おうとて
   それはそれ
  五十四年経つこの大地に
   今訪ね来て立つ。

   「あなた達は
  何処に訪ねて来たのか
   何処に来たのか」と
  大地に問はれなば
   正直に答えるしかない。

   此処は厳然とした
  中国の民の地
   あなたが知っている
  かっての戦争の前も後もだ。

   そうです
  歴史の上では
   過去の「一時期」に
  なるやも知れません。
   然し五族協和・王道楽土
  振り返れば余りにも
   身勝手な言い分であった。

   私たち日本中の少年は
  長い間戦争を
   教え込まれていた
  何の疑念すら抱かずに
   我もまた戦争の
  犠牲にとなりぬ
   加害者意識のないままに。

   しかし許されよ
  今この地に立ちて
   手を合わすことを。

  戦争が終わった事すら
   知らずに逝った友に
  帰国できるを
   知らずに逝った友に
  少年のままの
   心で眠る友に
  呼びかけた声が
   涙と一緒に大地に沁みた。

   そして変わらぬ
  大地の大らかさに謝す
   歴史をしっかり
  学んでいるであろう子等の
   明るかった瞳にふれ
  真の平和と友好の道の
   ますます広がるを願う。  


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