『悲劇の大地』 第1章


 今年も濃紺のナスが実っている。

 十一月中旬の外気は、すでに肌寒くなってきた。取り残した庭の柿木も朱色に色づいていた。しかし、ハウスの中は夏の残暑を思わすような湿気と温度が肌になすりつけるようにやってきて不快だった。ナスに肥料をやり、出荷を始めて一時間もすると、服に汗がしみわたっていた。八月末に植えつけをする。一ケ月もたたないうちにナスは、収穫できる。しかし、傷があったり形がそろわなかったら売り物にならない。そうしたナスは、二束三文でス−パ−などへ出荷される。「千両ナス」というブランド商品として京阪神に出回る箱物は、質や形が問われる。秋口の出荷額は一箱三百円ぐらいしかならないが、暮れには五百円ぐらいに値が上がる。都会ではその十倍の値で取引されていると聞いている。そのため、ハウスの中で育つ千六百本のナスの収穫には、神経を使う事が多い。

 お昼になって、今日の仕事は終わった。先週までは、稲刈りや出荷作業もあって、ナスの出荷後の、午後も忙しかった。もう歳だから、今週は午後ゆっくりすることにした。冷たい麦茶を一気に飲んだ。テレビニュ−スで、中国残留日本人孤児の訪日調査に参加する六十七人の肉親捜しの手がかりがうまくいかず、血液検査をしたうち、七名しか確認が出来なかったことを報道していた。

 「名乗りを上げたら、子や孫を含めた家族がそろうて日本に帰り、後の費用や世話が大変じゃから、なかなか名乗りがあげれんのかな」 私は、主人に尋ねた。 「一族全員が、日本へ行ったらお金持ちになれる夢をもってくるけいなあ。言葉や仕事のことを考えたら厳しいと思うがなあ」

 私たち夫婦は、運よく「満州」から生き延びて引き揚げてきた。中国残留日本人孤児の調査がニュ−スになるたびに、あの時のことを思い出し、私の胸をかきむしられる思いがする。

 「お父さん、今年は勝(まさる)の五十回忌になるね。あの混乱の中から生きて帰ってきて、夫婦そろってこうして元気で働けるのが不思議なくらいじゃね」

 「もうわしらが死んだら満州のことは誰も知らんことになる。わしは、今度地元の高校におる高木先生を訪ねて見ようと思っとる。高木先生はそういうことに関心を持っとると、新聞に出とったからな」

 「お父さん、ええ加減に知られ。だれが、そんな話をまともに聞いてくれると思うとん。お父さんは、酔うたら満州の時の話をするけど、親戚でも息子でもみんな嫌うとるのがわからんのかなあ」

 私は、午後農協への出荷を息子に任せて、居間で新聞を広げた。「旧満州逃避行で死んだ子どもを慰霊」するための、「まんしゅう地蔵」が完成した、と記事が載っていた。引き揚げ経験者の漫画家ちばてつや氏がデザインをしたものだった。東京あきる野市で開眼供養が営まれるとあった。

 その記事を読んで、私はまた胸が詰まる思いになった。


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