『悲劇の大地』 第6章


 七台河市は、ロシア風の町並みだった。広い道路に同じくらいの幅を持つ歩道と街路木が規則正しく並んでいた。白いビルが立ち並び、窓が二重になっていて、冬の寒さを感じさせた。八月上旬とはいえ、日中二十二度、夜になれば十七度まで下がる日本でいえば五月中旬の気候であった。だから長袖の上着を着ないと肌寒さを感じた。七台河市は、サハリン(樺太)のユジノサハリンクス市と同緯度にある。日本を経って四泊目であった。

 七台河市は、翌日からの夏祭りの準備をしていた。道路脇の花壇には、色とりどりの花が植えられていた。歩道に街灯が取りつけられ、夜店の準備も出来上がっていた。 私は、夕食後山本さんと散歩して、屋台で水餃子を食べた。暖かいス−プの中に浮かんだ白い餃子を口の中に入れると蕩けるようにおいしかった。 

 ロ−タリ−のある中心地には、架設舞台が設置されており、中国の音楽がけたたましく鳴っていた。ロシア人の観光客の一行が歩いていた。昼間の勃利県までは、中国の旅をしていたが、ここに来て何かロシアの街ではないか、という錯覚さえ覚えた。

 五十年前の七台河は、小さな街だった。勃利県がこのあたりの中心だった。哈爾濱から牡丹江をへて勃利、そして佳木斯までの鉄道の沿線から七台河は外れていたからだ。

 しかし、一九五八年からこの七台河市は、良質の石炭やコ−クスが大量に採掘されるようになった。勃利県から鉄道は七台河市まで延び、高速道路や空港も建設中であった。人口八十二万人の中心都市になっていた。

 食後の散歩を終え、ホテルのロビ−に戻ったら、高木先生が教え子さんたちと楽しげに話をしていた。
「安田さん、ちょっとこちらへ来て下さい。この子たちに、七台河の思い出を話してくれませんか」
「はい、昔のことで忘れてしもうとりますが。私は、勃利の収容所からしばらくして、当時の七台河部落という田舎に割り当てられて住むことになったんです。当時ここは本当に何もない寒村じゃったんよ。この付近にゃあ、飛行場があったような気がするんです。勃利を支配していた満州国の日本人役人や関東軍の将校などはいち早く八月八日以後、関東軍の飛行機で逃げたと聞いとんよ。満州国を『日本の生命線』といって、五族協和・王道楽土と旗を振った者が、百五十五万人いた在満日本人を見捨てて一番に逃げとんじゃからなあ。満蒙開拓団の女や子ども、満蒙開拓青少年義勇軍の少年の人たちが、ソ連軍や満軍や荷物を襲う匪賊の人の攻撃を直接受けて大きな被害にあい、たくさん死亡しとりますけえねえ。七台河では、私たちは、魯利さんという部落長から、それぞれ割り当てがわれ、私は黄周さんという七人家族の家に預けられましてなあ。そこで、私は、赤ちゃんのおしめを換えたり、子守りなどをしとったんよ。それと、私は手芸が出来たので、羊の毛を編み、みんなのセ−タ−を作ってあげて喜ばれてなあ。当時私は、二十一歳じゃろ。毎日家族と同じものを食べさせてくれ、同じ部屋に寝たり起きたりさせてもらったが、言い争いも喧嘩もなく、私に対しても変な事は一度もありませなんだよ。今でも不思議に思うとるんよ。中国人の人間性じゃろうか、国民性なんかなあ、日本人にはできんことです。この時親切にされた恩は生涯忘れることができません。魯利さんは、『日本人の指導者は悪いが、日本人の心はよい』と言ってくれたんよ」

 私は、また思い出し涙ぐんで言葉がつまり、手で顔を覆った。気持ちが高ぶっていた。

 「万竜開拓団で襲撃を受けた後、出産した森下春江さんは一緒だったんですか」 鈴木玲子さんが質問をした。

 「ええ、勃利の収容所に行った後、少し病院に入院して、その後七台河の部落に遅れて来たんよ。私とは違う家じゃったが、隣の部落に春江さんがいるということを魯利さんから聞いて、時々会いに行ったんよ」

 私は、一息ついてから話した。 「じゃけど、春江さんは、結局七台河の部落で亡うなったんです。気が触れたというじゃろうか、ノイロ−ゼのような感じで亡くなったんよ。九月の末頃だったような気がするわあ。春江さんは、夫俊一さんの召集、逃避行、義弟雅晴さんの目の前での射殺、異常な中での出産、良子ちゃんの絞首と精神を圧迫するような出来事の連続だったでしょう。かわいそうじゃった。私は、特に恵比須郷で五十町歩を三軒で耕作する隣組でしたから、悲しみは一塩じゃあなかったわ・・・」

 「結局、この七台河の部落には、いつまでいたのですか」 「ひと冬をここで越させてもらったんよ。哈爾濱への移動命令が出たのは、昭和二十一年の春、三月末だったような気がするわ」

 「他に質問はないか」 高木先生が、学生さんたちに尋ねた。

 「僕たちが一般的に学校で学ぶ日本史なんかで戦争と言えば原爆とか空襲とか沖縄戦とか被害の面ばかり習うけど加害の面を教えてもらっていないと思わないか。例えば、哈爾濱で行った七三一部隊跡なんか、戦争という極限状態な場面とはいえ、どうしてこんなに人間は残酷になれるのかと思ったよ。考えてみい。たかが五十年前の祖父の世代の人たちだと思うと愕然とするよな。僕たちも、その場にいたら同じ残虐な行為をするのかと思ったらやりきれない思いがするがあ。今僕たちにできることは、五十年前の日本軍が行った過去の戦争の数々を、しっかり見つめる目を持たなきゃいけんと思う。過去を正しく見つめる目を持てん人に現在や未来を語る資格はないと思うなあ・・・」

 熱っぽく語ったのは横田君という目のクルとした学生さんだった。ためらう私を熱心に誘ってくれた学生さんだ。こんなしっかりした学生さんがいる限りこれからの日本も大丈夫、と思った。

 「僕は、満蒙開拓団の人々は、いったいどんな気持ちで満州に渡っていったのだろうか、と考えた。今回の旅は改めてそう思わされる事が多いんじゃ。始めて見る中国という国の広大さ、言葉、習慣、すべてが日本とは大きく違うがあ。そして、中国の人々の気持ちを考えさせられたなあ。今日、勃利で安田さんの五十回忌の法要の時、中国の人に囲まれて、厳しい視線を感じたがあ。それだけでなく、僕は一般の中国の人々には執拗な視線を何度となく向けられる気がする。それは、日本人旅行者に対する珍しさというより、『日本人がここで何をしょんなら』という気持ちが含まれているような気がしてならないなあ」

 そう言ったのは、正田君といういつもおとなしいが芯のしっかりした学生さんだった。「今日の夕方、七台河市のホテルに戻る前に佐渡開拓団跡という所へ寄りましたね。だけど何もなくバスを降りただけで帰ったけど何だったんですか。あそこへ行った意味は、ようわからなかったなあ」

 吉本君という、東京の大学へ行っている学生さんである。

 「佐渡開拓団ですか。・・・・・・・・」 私はしばらく黙ってしまった。頭の中でうまく整理がつかず、どう言っていいかわからなかった。

 「では、安田さんに代わって僕の方から答えましょう」 高木先生が、代わって答えてくれた。

 「予定には入っていなかった佐渡開拓団のことだが、君たちは高校時代に『蒼い記憶』というアニメ映画を学校で見たよな。それから『大地の子』という本を読んだだろう」

 「『大地の子』は、テレビで見ました」 と、吉本君が答えた。

 「そう、テレビでも話題になったね。あの中で、長野県の開拓団の人たちが逃避行の時逃げ込んだのが佐渡開拓団だった。そこで、ソ連軍の偵察機を撃ち落としたという理由で、ソ連軍が戦車などで総攻撃をかけてきた。その中で集団自決した人が、五一四名。ソ連軍の攻撃で死亡した人、約九五O名といわれる全満蒙開拓団の逃避行の歴史の中で最大の悲劇がおきた場所だったんだ。安田さんの話によれば、大主上房開拓団の四名が途中別れて佐渡開拓団へ合流したと言う。そんなこともあって、立ち寄ったんだけど、慰霊碑もなければ、外事弁公室の李さんですら、この当たりだと思うという程度しか知らなかった。今日行って見たようにあの当たりは一面の大豆畑ばかりで、何も当時のことを振り返る痕跡がないので、結局バスを降りただけで、詳しい説明もなくホテルへ帰ったんだよ。夕方になってきたし、皆んな疲れてきていたからね」「そうだったのか、日本人が一五OO名近くも亡くなっているのに、日本の政府は何もしないんかな。冷てえよなあ」 と、吉本君が淋しそうに言った。

 「さあ、明日も、早いぞ。六時半起床、七時朝食、八時出発するぞ。明日の行程は厳しいから、よく寝ておきなさいよ。みんなの体調はどうかな」 高木先生が、教員らしい口調で学生さんに注意を与えていた。
 「先生、僕は、昨日から下痢がひどくて、調子悪いんですよ」
 「薬を飲んだか」
 「ええ、飲みました」

 「正田君、私が下痢なら一発で治るいい薬をもってきたから部屋に戻ったらあげるわ。買い薬と違ってお医者で貰った良く効く薬だから、大丈夫。あとで取りに来て」 高木先生と正田君のやり取りを聞いて、山本さんが口をはさんだ。

 そうして、七台河市の夜が過ぎた。ホテルの一角で歌舞庁というダンスホ−ルのネオンが派手に輝いていた。そこから、耳慣れない音楽が聞こえてきた。「カラOK」という看板も見えた。 日本を出て四日目の夜だった。


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