『悲劇の大地』 第8章


 規則正しく泥柳が揺れる河を渡った。バスの中から、茄子橋、茄子河という表示が見えた。七台河市と鶏西市を結ぶ主要道路だったが、凸凹道でぬかるみは変わらなかった。 「着きました」 と言う声で、バスを降りた。

 五百坪ぐらいはありそうな空地は、赤煉瓦の塀で覆われていた。

 「ここが、大茄子訓練所跡地ですか」 と、私に声かけたのは寺田さんだった。

 「この当たりは、一面の高梁畑でしてね。この空地のところに、私たち村山中隊をはじめ営舎が六棟と中隊本部がありましてね。こちらから、広島、長野、愛媛、岡山、山形、そして一年後に藤川中隊が入ってきました。道路を隔てて、野菜貯蔵庫、農機具庫、収穫処理場、大豆貯蔵塔、炊事場、風呂場、そして一番奥に廐舎がありました」

 その頃から、また雨が激しくなった。そばの錆びたトタン屋根に激しい雨音をたてた。私たちは、小さな売店で、雨宿りをした。

 外事弁公室の朱さんが、雨にずぶ濡れになりながら駆けてきた。

 「あの、煉瓦作りの塀の中が大茄子訓練所のあった場所の一部です。中の空き地には、日本人が作った井戸が二ヵ所あります。あの塀の外側にもう一ヵ所あります。あの塀の中に入りたいのですが、いま鍵をもった者が出かけていません。しばらくしたら帰って来るはずです。それまで、ちょっと待っていただけませんか」

 その言葉を聞いた山本さんが、雨の中合羽を着て歩き始めた。高木先生が、傘をさして朱さんに同行してもらって追いかけた。

 「どこにあるんです。塀の外の井戸は。進が、進が、二ヵ月間いた藤川中隊の井戸は、どこですか」

 赤い煉瓦の塀から一つ道を隔てた所に、石垣で囲まれた井戸があった。今は使われていないらしく、草に覆われ、釣瓶もなかった。 山本さんは、古井戸を見つけると、雨の中で法要を始めた。高木先生が、山本さんに傘をさした。私も、少し遅れてそこへ行った。、

 「進は、ここの水を飲んだんだろうね。お姉ちゃんが来ましたよ」 と,呟きながら、線香を焚き位牌を置き、「般若心経」を唱えた。

 「日本のお米ですよ、進が好きだったお煎餅ですよ」 と、言って袋の中から二度白い米を撒き、お煎餅を供えた。

 動こうとしない山本さんを、高木先生が促して、先ほどの売店に戻った。 泥濘の道を、貧弱な馬をひいて老人がゆっくり通りすぎた。雨が小振りになり、薄日が射してきた。約一時間ほど待っただろうか。「やっと帰ってきました。今から開けます」 と、外事弁公室の朱さんが、走って戻ってきた。

 空地は、瓦礫と草に覆われていた。水たまりと泥濘をさけ、井戸に近づいた。こちらの井戸は、コンクリ−トで修理されていた。 「ここに二ヵ所並んで井戸があるとすると、ここは、炊事場の井戸跡なのかな。すっかり変わっているので、わかりませんなあ」 と、寺田さんが言った。

 「皆さん、こちらに集まってください。法要を始めたいと思います。この井戸は、満蒙開拓青少年義勇軍村山中隊及び藤川中隊が使用したものであり、また昭和二十年八月十七日の夜半から十八日の未明にかけて大主上房開拓団の女性九名が井戸に飛び込み自決した場所であります。その前に、母親たちは、自分の子どもの首を絞め、その後自決しました。この付近に土葬された子どもは十七名です。これから、犠牲者の名前を読み上げます。横山健一(八才)、横山昭子(三才)、城山美子(一才)井川節子(二才)・・・・・・」 高木先生の、読み上げは続いた。 雨は上がっていた。

       ******

 私は、万竜開拓団にいたからこの大茄子訓練所の悲劇に居合わせなかった。帰国後、城山さんの奥さんの美恵子さんや、開拓団の藤原梅子さんなどに、当時の話を何度も聞いていた。

 八月十七日、万竜開拓団を出た後、ソ連軍の襲撃にあって、ソ連兵に捕まり連行された。生き残った大田さんら男性五人はソ連兵に連行されて勃利へ連れていかれた。生き残った約六十名の婦女子が、この大茄子訓練所の馬小屋に収容された。ところが十七日夜、ロシア風の黒パンとス−プを食べ、馬小屋に藁を敷き休んでいた。すると、ソ連兵がマッチをつけて、女性を捜し求めてきた。中にいた女性たちは子どもを抱き抱え、抵抗した。まず、入口近くにいて、顔立ちのいい藤下菊江さんと、黒川恒子さんが引っ張られた。菊江さんには子がいなかった。恒子さんには、乳のみ子がいた。嫌がる菊江さんを数名のソ連兵は力ずくで、外へ連れ出した後、銃声が聞こえた。菊江さんが抵抗したためなのか、撃たれたことはすぐわかた。馬小屋の中はパニックになった。しばらくして、恒子さんが、衣服を乱して戻ってきた。恒子さんは、戻った時明らかに精神の異常をきたしていた。恒子さんは、よだれをこぼし、君子ちゃんを逆さに抱き抱え外へ出た。「恒子さん」と、皆で叫んだが外へ出たまま帰ってこなかった。

 馬小屋の中では恐怖と絶望が渦巻まいた。外では、まだ大勢のソ連兵の声がした。

 美恵子さんや梅子さんは、決心した。
「生きていても仕方がない。日本人女性として、最後を立派に死のう」

 横山民子さんが、健一君と昭子ちゃんの首を絞めた。井川照子さんも節子ちゃんの首を絞めた。その様子を見た後、残りの者も、自分たちもという気持ちに変わった。

 美恵子さんも、美子ちゃんの首を絞めた。逃避行の中で元気のなかった美子ちゃんは、抵抗をしなかった。安心したようにぐったりした。「コッキという手の感触と音が忘れられない」と、美恵子さんは言っていた。その後梅子さんも、浩子ちゃんの首を絞めた。

 美恵子さんと梅子さんは、それぞれリュックの中から一番いい着物をだして美子ちゃんと浩子ちゃんを土葬した。

 美恵子さんと梅子さんが、土葬している時だった。横山民子さんや井川照子さんが、井戸に飛び込む姿を見た。続いて川田ハツさん石田澄江さんも、飛び込んだ。美恵子さんと梅子さんは、駆け寄った。
「民子さん、照子さん、ハツさん、澄江さん」 と、暗くて深い井戸に声かけた。
まっ逆さにおちて、もんぺと足の裏だけが、見えた。まだ生きているようだったが、助けるすべはなかった。

 都合九名の女たちが井戸に飛び込んだ。

 美恵子さんと梅子さんも後に続こうと思った。しかし、三ヵ所の井戸の内、一ヵ所に五名、隣の井戸に三名、いづれもいっぱいになり、外の井戸に一名が飛び込んだとき、ソ連兵が気がついてそれに続けなかった。

 美恵子さんと梅子さんは、馬小屋に戻り、窓に紐をかけ首を括った。

 日本人女性の異常な行動に気がついたソ連兵が間もなくして馬小屋に入ってきて、紐を切り、美恵子さんと梅子さんは、死に切れなかった。

 泣き乱れて、疲れて眠った。

 八月十九日早朝、気がつくと馬小屋にソ連兵はいなかった。美恵子さんは、側にいた水田タマさんと、七歳の咲子ちゃん、三歳の春江ちゃんを誘って、南に向かって逃げた。

 逃避行の中で、水田タマさんは、子連れでは逃げれないと思って、山中で春江ちゃんを絞め殺して土に埋めた。咲子ちゃんは、足が痛いというので、中国人の農家に預けた。咲子ちゃんを渡す代わりに、食料をもらった。「日本人の男だったら撃ち殺してやりたいが、女だから許してやる」と、中国人の農民に言われた。

 咲子ちゃんは、今も残留孤児となっている。 生きていたら今年還暦を迎える年になっているだろうが、その後の消息はつかめていない。結局、その後、美恵子さんは八月末鶏西市にたどり着き、日本人収容所に入った。しかし、ここでもソ連兵が日本人女性を襲って来るので、恵美子さんと、タマさんは別々の中国人農家に世話になることになった。半年間、たばこを巻いたり、編み物の仕事をして生きていた。

 昭和二十一年四月に、「日本人は今南下しないと帰国できない」という情報があって恵美子さんは、中国人の農家から引き揚げた。しかし、タマさんは哈爾濱で発疹チフスで亡くなった。

 梅子さんたちは、警察官の西山幸一の妻時枝さんと五歳の明彦ちゃんを誘って、西に向かって逃げた。

 時枝さんも、途中山中で明彦ちゃんを絞め殺して自害した。梅子さんも、続こうと思ったが、もう一度日本の地を踏みしめてから死にたい思いがあり、断念した。梅子さんは、義勇隊の人に助けられて林口まで逃げて、日本人収容所に入り、そこの世話で中国人農家に預けられ、翌年暮れに帰国した。

        **********

 高木先生が、犠牲になった子どもたち十七名と、集団自決した女性九名、射殺された三名、精神異常をきたした二名、行方不明二名の都合三十三名の名前を読み上げた。
「おい、美子。これでわしはもう来れんけど、成仏せいよ」
造花とお線香での法要中、呟いた城山さんの言葉が涙を誘った。
小雨になっていたけど、夏の冷たい雨は降り続いていた。

 バスに戻ったあと、鈴木玲子さんが、私に尋ねてきた。

 「安田さんに尋ねていいですか。同じ女性としてわかるような気持ちもするんですが、なぜ当時の女性は集団自決しようと思ったんでしょうか」
「当時の女性は、操をたてるという大和撫子という考え方を持っていました。戦前の教育で『生きて虜囚の辱めを受けず』という精神が徹底していましたからね。それと故郷のみんなに送られて出てきて、捕虜になったり、ソ連兵に凌辱されたのでは、生きておめおめ故郷に帰れない、と思ったから集団自決の道を選んだんよ」
「安田さんのように、生き残って帰国できた大主上房開拓団の女性や子どもは結局何人ですか」
「帰国して、連絡を取り合ったんですが、大主上房開拓団員百五十五名の内、帰国したのは五十三名、三人に一人です。でも、その内、現地召集された男が三十四名います。女は私や城山美恵子さんや藤原梅子さんら十三名と少年が三名しか帰国していません。でも、残留婦人として中国に残った人や残留孤児として中国人に預けられて、生死不明な人もいます」
「それが、戦争なんですね」

 玲子さんは、深いため息をして、席に戻った。

 気がつくと、昼過ぎだった。まだ、半日しかたっていないのに、半日がとても長く感じられた。

 寺田さんは、大茄子訓練所跡で小石を三十個ぐらい拾っていた。バスの中で、小石を一つ一つタオルで丁寧に拭いている寺田さんの姿があった。
「帰ったら、義勇隊の仲間に配ろう」と、言う声が聞こえた。

雨があがってきて、陽が差してきた。


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