悲劇の大地12
「悲劇の大地」

「逃避行」

勃利収容所前で法要

 8月7日、われわれ一行は冷たい雨の中、2台のバスに分乗して、中国東北部(旧満州)の万竜開拓団から大主上房開拓団に近い宝清県の町へと向かった。昭和20年8月のソ連参戦で、同開拓団の人々が逃避行を行った道をちょうど逆にたどったわけだ。

 約120キロの道のり。全線舗装されてなく、デコボコ道に水が溜り、雨が降ると黄土色の「イエロー・ロ−ド」が黒い泥炭湿地に変わる。

 バスは、道路に大きくあいた水たまりの中を傾むきながら進み、泥炭湿地でたびたびスリップした。7時間半もかかった。途中、道路が「泥河」に寸断され、大きく迂回もした。

 しかし、51年前、この道を大主上房開拓団の女性たちは30キロ以上のリュックを背負い、乳飲み子を抱き、幼子の手を引き、7日間かけて、不眠不休で逃避行したのだった。

 51年前の8月8日「ソ連と戦争になった。荷物を持って、本部に集合!」という連絡が入って、梶田君子さん(73歳)ら大主上房開拓団員111名の逃避行が始まった。夫たち39名は現地召集されて、男性といえば、役員と老人がいるだけで、女性や子どもが大半だった。

 「目的地勃利へ避難せよ」という関東軍の命令を信じて8月10日に出発した。11日にはまとまった雨が降ってきた。敗走する関東軍は橋を爆破していた。雨で重くなった荷物を一つずつ落としていき、河を渡る際、大きな家財道具は捨てていった。君子さんは、生米を噛んで8ヵ月の貢ちゃんに与えた。貢ちゃんの下痢と発熱が続いていた。栄養失調で衰えていった。「野草を煎じて飲ますぐらいしかできませんでした」と言う。

 君子さんらは8月17日、万竜開拓団でソ連軍の攻撃を受けた。君子さんは草むらに隠れて助かったものの、その後万竜開拓団に戻って、ソ連軍に捕まった。勃利収容所は、捕まった日本人であふれていた。君子さんの背要 中が重く感じたとき、貢ちゃんは亡くなっていた。昭和20年9月1日のことであった。

 この逃避行で帰国できた大主上房開拓団員は111名中19名(17%)に過ぎなかった。われわれは、今も「勃利拘留所」としてそのまま残る元収容所も訪ねた。板塀で囲まれた空き地が隣接していた。

 「ここに、埋めました」と、君子さんは、言った。板塀の隙間から手を伸ばして、貢ちゃんの位牌を置いた。花輪とお線香を炊いて一年遅れの50回忌が営まれた。しかし、この法要に対して、見る見る内に中国の人々が100人ぐらい取り囲んだ。厳しい痛い視線を感じた。

山陽新聞夕刊 8月14日付に掲載

万竜開拓団跡地

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