4 南京から九江・安慶へ
渡部隊長及び第3分隊92名は、9月10日九江へ向けて「テームス丸」で出発した。「九江報告」が『陣中日誌』に挿入されている。揚子江を遡行するが「右岸敵兵アリテ危険ニ付キ成ル可ク上甲板ニ出デザルコトヲ要ス」命令がでている。
「テームス丸」が攻撃を受けたのは、9月12日であった。朝7時40分、「敵ノ砲弾船ノ前後左右ニ数十発落下セルモ命中弾一発モナシ」と記述がある。こうして、9月15日に九江に到着した。距離にして464キロの輸送船の旅であった。(上海―南京―安慶―九江―武漢の長江(揚子江)の水路の距離数は、加藤克子著『日中戦争・哀しき兵隊』(れんが書房新社)を参照した。)
九江では、周囲が民家というところに舎営地を持った。畑部隊本部兵站司令部の車庫・官舎設営などを作業としている。
渡部隊長は、2名の患者兵を連れて、9月21日に南京に向けて戻った。隊の主力は南京へ残留していた。南京の第1部隊は、そこで、南京税務署跡に田中部隊の施設を作ったり、金家荘鉄道警備隊兵舎を新築していた。渡部孫夫少尉は、9月30日付で中尉へと昇進した。
9月24日に、「第五師団第一建築輸卒隊ハ其ノ一ケ分隊ヲ速ニ安慶ニ至ラシメ第百十六師団(京都・福知山・津の歩兵連隊)ノ隷下ニ入ラシムヘシ」と、第一野戦建築水野部長から命令がでた。第2分隊81名が、「八海丸」で9月28日に出発した。安慶の地図上の位置は、九江の164キロ南京寄りの手前である。6月13日に安慶は、すでに占領していた。その安慶に到着前に、「八海丸」も攻撃を受けた。
「航行途中ニ於テ安慶下流四里ノ地区ニ於テ両岸ヨリ約二十分間ニ亘リ砲弾機関銃ノ発砲アリ其ノ為本船船首ノ船長室一部破壊、船腹ニ一弾貫通其他都合六発命中セシモ人馬無害ニテ危険地区ヲ通過スル」とあるように、長江(揚子江)の制河権を日本軍はまだ掌握していなかった。
9月30日に下船した。安慶の舎営地は、波止場から約1キロ離れた城外の安微大学校跡地にあった。ここでは清水部隊の野戦配給所・兵器庫自動車修理工場新築・遺骨箱製作などの作業と、野戦病院の浴場・炊事場・洗面所・洗濯場製作などの作業をしている。