3 彭澤での戦闘詳報

 雨宮(仮名)伍長以下彭澤分遣隊41名の『陣中日誌』には、1月17日から30日まで淡々と 作業内容が記述されているだけで、治安が不安などの記載はない。彭澤は、『戦史叢書』に よれば、中支派遣軍波田支隊は1938年6月13日に安慶を占領し、同29日に彭澤を占領した。 それから7ヶ月後の「戦略持久作戦」による治安地区であった。

 1939年(昭和14年)1月31日に事件はおこった。

 「馬當鎮坂口部隊泉隊ノ設営作業ヲ実施セントシ第二班長山河(仮名)伍長兵十五名木匠 十二名ヲ引率セシメ所要ノ材料武器器具糧秣ヲ携行二泊三日の予定ヲ以テ三澤部隊本部ヨリ 得タル軍用貨物自動車二台(運転兵二名警備兵四名ヲ付ス)二分乗九時彭澤出発馬當鎮ニ向ヒ 軍工路上テ東進」(『陣中日誌』)

 山河伍長が先頭車の助手席に乗っていた。青山油房付近の丘陵地にさしかかったところ だった。

 「突如約三十米前方草叢中ヨリ射撃ヲ受ケ運転台前硝子窓ニ命中セル数弾ノタメ硝子 飛散ス。此ノ時運転兵急停車セシムルヤ続イテ右側五米ノ草叢中ニ散開シアリタルト推測 セラルル。敵散兵ヨリ機関銃ヲモッテ集中射撃ヲ受ク」(『陣中日誌』)

 『陣中日誌』の中に戦闘詳細要図があるので参考にしてもらいたい。文末の要図では、 敵軍(中国軍)が赤で記入されているが、コピーにはでないので、筆者の方で敵軍に○印を つけた。

 9時40分、馬當鎮に向かっていたところであった。切取道路という両面が山あいの草叢に さしかかったところ、待ち伏せしていた敵軍から先頭車両が攻撃を受けた。2号車は約100m後方 を走っていた。先頭車両には兵10名と木匠3名が乗車していた。車を降りて、情勢不利なので 後方に下がって、要図イの地点まで退却した。

 敵軍・・「浅葱色ノ軍服ヲ着用シ帽子形機関銃三丁有ス」
 我軍・・「三八歩兵銃六、弾薬各三十、支那銃七、弾薬各三十、チェッコ軽機関銃一、 弾薬三二〇」(『陣中日誌』)

 40分にわたる交戦が続いた。後方の2号車からも応援に駆けつけた。この間に、村田 (仮名)一等兵が頭部貫通銃創によって戦死した。佐田(仮名)一等兵と木谷(仮名)一等兵も 負傷した。この間、兵2名が定家塚警備隊に伝令に走り、また他の兵2名が馬當鎮警備隊に伝令に 走った。日本の飛行機が高度500m上空を通過する際、射撃がやんだので、さらに後方ロの位置 まで退却した。「敵軍火力依然優勢ナリ」の状態だった。

 ここで、木匠であった汪少明(22歳)のエピソードが出てくる。
 「木匠汪少明(二十二歳)ハ足部貫通銃創ニ依リ歩行困難トナレル木谷一等兵ヲ保護シテ 草叢中ニ隠シ置くキ監視シアル所ヘ敵兵来リテ日本兵ハ居ルカト尋ネタルニ『先生無有』 ト答エテ手ヲ合セタルニ依リ敵兵去ル。後敵火ノ間隙ヲ利用シ木谷一等兵ヲ背負ヒ帰リ 来ル」(『陣中日誌』)

 約2時間後に三澤部隊、その後馬當鎮より増援隊が来た。雨宮伍長ら5名が彭澤分遣隊から 援護に駆けつけ到着したのは13時だった。

 この襲撃で戦死者1名が出た。村田(仮名)輜重兵特務一等兵は、頭部右大腿軟部貫通銃創 された。戦傷者は2名でている。佐田(仮名)輜重兵特務一等兵は、右膊部貫通銃創並右足部骨折 貫通銃創された。木谷輜重兵特務一等兵は、右下腿骨折貫通銃創された。村田一等兵の葬儀は その夜、20時30分に火葬された。戦傷者は、彭澤第十六師団第三野戦病院に入院した。木匠1名 負傷しているが、その者の名は記されていない。

 中隊長の渡部中尉は、戦闘所見を述べている。
 山河伍長に対して、敵の猛射撃を受けた時、「的確ナル情況判断ヲ以テ部下ヲ有利ナル 陣地」に誘導し、「我損害ヲ最小限ニ食止メ」たこと。彭澤及馬當鎮警備隊に連絡したことを 「功績偉大」と評価している。

 山田・秋川(仮名)一等兵に対しては、「増援隊ノ出動ヲ迅速適切ナラシメ本隊ノ危急ヲ 救」ったことを「絶大ニシテ責任観念ノ旺盛ナル行為ハ兵ノ亀鑑ナリ」と褒めている。

 佐田一等兵に対して、「一時後方高地迄後退ヲ命ジタル際モ最後迄単身敵前至近ノ地ニ 止マリテ全員後退ヲ掩護シテ後徐々ニ後退シ」たことを「兵ノ亀鑑ナリ」と評価している。

 ここ彭澤付近は、「准治安地区」より「危険地区」といった方がよい。その後、渡部部隊 彭澤分遣隊への攻撃や死傷者は出ていないが、3月22日に彭澤にいた三澤部隊の墓標を作成して いる。「将校墓標一柱、下士官墓標十一柱、兵十八柱」続く、3月29日には三澤部隊墓標作成 37柱、大島部隊墓標15柱を作成す」と、多くの死者が出ている。



目次へ戻る
次へ