8 杭州での戦闘状況

 渡部隊長の地図がある。確かに杭州周辺と主要都市・鉄道・主要道路などは赤鉛筆で塗られて いるが,その周りは青鉛筆で塗られている。青鉛筆は敵(国民党軍)の勢力範囲と思われる。 中でも,杭州の銭塘江対岸は青鉛筆一色である。

 『戦史叢書』によれば,「第18師団は杭州周辺,第114師団は湖州周辺,第6師団は蕪湖地区」 「第1後備歩兵団は上海南部地区」「第2後備歩兵団は平房鎮部地区」を占拠し,それぞれ警備に あたっていた状態であった。

 杭州7ヵ月の滞在期間に,空襲や一斉攻撃を受けたのは『陣中日誌』でみる限り6回である。 内訳は,飛行機による空襲は4回。一斉射撃による攻撃は2回。

 1938年1月26日
 「午後四時四十五分湖辺公園高射砲陣地より砲撃,殷々として響き渡る遥か上空に敵飛行機 一機を認む。約二十分間位にして之を撃退尚友軍飛行機之を追撃す」

 2月14日
 「午後三時十分杭州停車場所要材料集積作業中午後三時十分第一分隊第四班宗美重人舊杭州 南停車場跡プラットホ−ム倉庫出入口付近に於て警戒兵として勤務中銭塘江対岸敵陣地より一斉 射撃を受け戦友に大聲注意を與へ自ら應戦射撃を行ひ附近の煉瓦塀掩体によらんとしたる刹那敵 小銃弾右手内指を砕き続いて右下腹部に命中せる盲貫銃創を負へり直に第十軍野戦豫備病院丙班に 運び治療を受けたるも重傷のため,午後六時に絶命す」

 2月18日
 「午後五時前後敵飛行機の空襲あり」

 2月21日
 「午前十時敵飛行機の空襲ありて,第二第三班に避難處置を命じ続いて第一作業班に至るべく、 飛行機前三又路付近道路上を駆足行進中の分隊長牧本伍長は左下顎部受傷」
 「第一班谷川上等兵は,(中略)大格納庫東北方四十米対空機関銃附近に落下せる敵爆弾の 犠牲になりて壮烈なる戦死を遂げ,又特務二等兵井上秀雄・村上義夫両名は避難途中右足部破片 命中受傷す」

 3月16日
 「午后二時敵飛行機空襲あり。湖畔高射砲隊よりの砲聲殷々と響く」
 1938年3月までは,杭州を占領しても制空権は中国側にあったと思われるし,対岸からの 反撃もあった。中でも2月21日の空襲は,杭州の筧飛行場で出くわした。死者1名,負傷3名は, 前年11月30日の金山での炊事中の地雷か、爆発物の事故的な死者とは明らかに違う衝撃が, 『陣中日誌』の中からも伺われる。
 しかし,その後戦局は落ち着きをもたらしている。

 5月1日
 「午前五時頃より小銃機関銃砲聲殷々と響渡る八時に止む。師団司令部に連絡を取りて銭塘江 対岸の敵の蠢動なるを知る」

 8月1日
 「午後十一時四十分海寧附近敗残兵の堤防決壊並破壊橋梁の修理作業を援助すべき命を受け」 と,2ヵ所にしか戦闘の記述はない。しかし,日本軍の占領は,点(都市)と線(鉄道・道路)で あったことがわかる。



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