11 死者十六名

 禹奎鎬氏が1990年(平成2)9月に来日されて、玉野市でシンポジュウムを開催した。その中で、 死者16人のことを話された。1945年(昭和20)3月になると、協和隊員の死亡者は関釜連絡船が米軍の 魚雷攻撃に遭う可能性が高くなったので、玉野で火葬され埋葬されたという。禹奎鎬氏は3500人の代表 副官だったから、すべての葬儀に出席したという。「中隊葬」には、堀川隊長、正畑副隊長ほか、 本部役員、所属する中隊の中隊長や副官、小隊長、同じ班にいたものが参列した。お寺から住職が きて「南無阿弥陀仏」と念仏が唱えられたという。

 私は市役所に行って、学術上の目的ということで法務省の許可を得て、火葬許可書を調べた。 江原道・咸鏡南北道出身者で、1922〜23年生まれの人、1944年10月から1945年までに死亡した人、 住所が玉野市田井(協和寮のあった所)という4つの条件に合致する人を調査した。禹奎鎬氏の記憶 通り、16人いた。

 江原道出身9人、咸鏡南道出身7人であった。玉野市の西谷火葬場で13人、大谷火葬場で3人であった。 1944年(昭和19)11月に2人、12月に3人。翌45年(昭和20)1月に3人、3月に1人、4月に2人、5月に3人、 6月に1人、11月に1人となっている。3月以降日本に遺骨を埋葬もしくは安置したとしたならば、8柱が 存在する。遺骨受取人は中隊長名が記されている。    

 禹奎鎬氏の記憶の中で海内氏(創氏改名)のことは同じ中隊出身だったこともあり、良く覚えて いるという。彼は、頭上から鉄板が落ちてきて死亡した。頭がぺシャンコになったという。西谷火葬場 の裏山にあった桜の木の下に遺骨の一部を埋めたという。西谷火葬場の跡は今お寺になっている。 周辺の不明の遺骨を集めた墓がある。協和隊員の人が訪日した折には、そこへ参られる。現在、お寺の 裏に桜の木がある。しかし、その木の下に埋めたかどうかはわからない。

 私たちは、1991年(平成3)に訪韓して、江原道原州市に住む金文式氏の遺族を訪ねた。兄の金東式氏が 怒りながら語ってくれた「弟は19歳の時結婚して、男の子が1人居た。息子が2歳のとき朝鮮総督府から 徴用令状がきて1944年9月第1次応徴士として、玉野へ行った。寧越の自動車隊だった。作業中車から 落ちて交通事故で亡くなったと同僚の友人が戦後伝えてくれたという。1945年1月のことで、遺骨は、 副官と警察が一緒に来た。遺族が泣きわめくので、遺骨を置いて死亡の理由すら説明することなくすぐ 帰ったという。働き者で一家の大黒柱であった弟を亡くして、妻・子を実家に返し、「みすぼらしい 生活」を余儀なくされたという。

 次に、軍事休戦ライン近くの鉄原郊外の文恵里に辛亨牧氏の遺族を訪ねた。辛亨牧氏は、1923年 (大正12)10月26日生まれ。第1次応徴士で、中隊名は不明。1945年6月9日に「船の上から落ちて死亡した」という。 友人が戦後遺骨の灰袋を持ってきてくれただけで、遺骨はなかった。死亡年月日すら、遺族は知らなかった。

 死者13名は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の戸籍のため調査は止まっている。ただ、大阪の 統国寺に金丸泰玉氏(創氏改名)の遺骨が安置されていた。出身地は、咸鏡南道咸州郡で、釈名 「釈泰法信士」であった。死亡年月日は、1945年(昭和20)11月2日、三井病院に入院していて病気で死亡した。


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