差別と暴行を働く日本人もいたが、一方で心温まる協和隊員との交流も記録に残っている。 一部を紹介したい。
@ 中隊長との交流
証言をしてくれたのは第8中隊の森中隊長である。「私の仕事は隊員の送迎で、時には隊員の
先頭に立って工場入口まで行き、又帰る時もそうしました。昼間には、学徒動員の3年生の軍事教練を
受け持ち、また寮で休んでいる隊員10人ぐらい海岸に連れて行き、海水を煮詰め、天候のいいときには
5キロぐらいの塩をつくりました。ただ、食糧事情が悪かったのは事実で、これは協和隊員だけでなく
日本全体がそうでした。酒やタバコの配給も副官を中隊長室に呼び、彼等に任せました。なにやら
喧しい事を言った中隊長もいたと聞きますが、人間は心から付き合えば分かり合えるものと確信して
います。このタバコ盆は、第八中隊の隊員がお餞別にくれたものです」
その他、内海第6中隊長の父親が亡くなった時の香典帳が存在している。副官をはじめ第6中隊隊員が お供えをしている。また内海中隊長と隊員が一緒に金毘羅に参詣している写真も現存している。
第3中隊の松岡中隊長は、副官の金龍玉氏をお正月に自宅に招きお酒やおせち料理をご馳走になった。 一緒にアリランを歌ったと金龍玉氏は懐かしそうに話してくれた。
A 宇野第一青年学校遠藤教諭との交流
遠藤先生は、生徒と一緒に造船所や協和寮に出入りしていた。協和寮では、休んでいた者に
情け容赦のない日本人の仕打ちを証言された。そうして、2枚のはがきを見せてくれた。「国家のために
召されて、国家に尽くすことのできない小生に、小生としては国家のためならば喜んで命を捧げるつもりで
ありますけど、意のままにならず、中隊長並びに副官様に毎日の如く出勤を申し出ても許して下さらないので、
これが小生としても遺憾に思う点であります。たとえ一日働き機械に噛まれ死んでも恨みもなければ、
世間に未練もありません。小生は無学の者にして心にあることを言い尽くせず、お礼を申し上げたくとも
方法を知らず、ただ感謝の涙に咽ぶばかりです。先生さようなら。昭和20年4月2日第6中隊西原濛拝」
遠藤先生は、朝鮮から来た若者にここまで忠君愛国精神を持たせるまでにいたった教育の恐ろしさを危惧する。
また、遠藤先生に、本部付副官張本聖圭氏(創氏改名)は書物を手紙と一緒に贈っている。 「先生と交わること数月よく心の師として颯刺的で愉快な人生の深みを感銘せり。われ産業戦士として 当地に参りたるは感無量なり。(中略)我等に対する先生の懇切な洞察と深き愛情の下る。われ又純真な 道徳者たらん覚悟」文末に皇紀2605年7月19日、贈畏敬の師遠藤先生殿とある。
B 日本人との交流
学徒動員できていた旧制中学生との交流では、一緒の現場で働いた者同志の親しみのある肩を
寄せ合った写真がある。合同新聞昭和19年12月26日付には、岡山海軍監督長加藤恭亮技術大佐が
「頑張る協和隊員」「協和隊の働き振りは見事であった」と高い評価文章を寄稿している。
また昭和20年5月15日付「巷」に、一学徒も前述のような投稿している。宇野商店街にマルトミという
呉服屋があった。父が朝鮮半島へ行っていた事もあり言葉が話せたことや、母が畑の作物を工夫して
協和隊員に食べさせたこともあり、よく出入していたと、当時中学生だった福原氏は語ってくれた。
協和寮には、医務室があり石田先生と三井病院から派遣されていた看護婦の木村(水畑)礼子さんがいた。
石田先生はすでに亡くなられていたが、木村さんは当時の様子を話してくれた。「てんかん」という
病気が多かったことや皮膚病にかかっている協和隊員が多かったという。家も協和寮に近く、塩が
欲しいといってこられた事もあったという。木村さんは、当時16歳で隊員のアイドル的存在だった。
それゆえ、多くの隊員は彼女をよく覚えている。彼女を10年前に韓国へ連れて行き、協和隊副官に
会わせた時、「あんたの注射はへただった」と笑って話しあった。本部副官の禹奎鎬氏や第11中隊
副官の申鉉溌氏は、日本人の女子挺身隊員の交際をしていたという。