「緑の大地」 |
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満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊 |
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満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊 (内原訓練所) |
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満蒙開拓青少年義勇軍とは
1937(昭和12)年近衛内閣は閣議決定し、拓務省は、翌38年に「満蒙開拓青少年義勇軍募集要綱」を 発表した。『満州開拓史』によれば、数え歳16〜19歳が対象年齢だった。そこで尋常小学校 (昭和16年以後は国民学校)高等科か青年学校を卒業した生徒が対象となった。「義勇軍身上調査統計」に よれば、義勇軍応募の動機は、教師の勧めが78%である。その他、広い「満州」へのあこがれがあった。 そのため、教育の影響や教師の働きかけが大きかった。国から地域や学校にも割り当てがあったことが 拍車をかけた。茨城県の内原訓練所で約3ヵ月訓練後、「満州」の訓練所に送り出した。 『岡山県史』によれば、岡山県からは第8次に渡って、2703人(全国第10位)が派遣された。
満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊
1944(昭和19)年2月、内山下国民学校で壮行式があった。村上中隊は、岡山市を含む県東部 地域出身者で編成された。隊員は208人。昭和4年、5年生まれが中心で、国民学校高等科卒業前に 出発することになった。その後、内原訓練所(所長加藤完治)へと向かった。3ヵ月の内地訓練は、 日輪営舎の内原訓練所であった。5月20日、上野、新潟港、羅津経由で、勃利(ぼつり)の大茄子訓練所へと 向かった。
農作業としては、大豆、ジャガイモ、白菜、キャベツ、とうもろこしを植え、夏はその除草作業が 大変だった。秋は収穫作業やその貯蔵や羊草刈りと多忙な季節を送った。冬は雪山での木材の伐採と 運搬作業で凍傷になった者も多い。1年間の大茄子訓練所生活で、16人が死亡している。また重病と いうことで哈爾濱(ハルビン)義勇隊中央病院へ送られて死亡した隊員も4人もいる。あわせて20人が、 犠牲になったが、戦時下とはいえ尋常な数ではない。原因は、発疹チフス、アメーバ赤痢、凍傷、 屯墾病(ノイローゼ)、下痢、栄養不良の中での病気などであった。
1945(昭和20)年になると、関東軍から動員要請があった。主なところは、5月に関東軍南満造兵廠 (文官屯)へ31人。6月に満州飛行機製造会社(奉天)へ101人。大茄子訓練所には、残留部隊30人余と、 昭和20年5月に来た藤森中隊175人がいた。
ソ連参戦・敗戦をそれぞれの地で迎えている。残留部隊は、8月14日牡丹江へ向けて出発した。 勃利の街は、付近の開拓団の女性や子を含め1500人が集まっていた。出発後ソ連の飛行機による 機銃掃射を受けた。犠牲になった友人を、泣きながら置き去りにして、逃避行を続けざるをえなかった。 山中でさまよい、東京城で武装解除した。延吉(えんきち)で捕虜収容所生活を送り、越冬できず6人が 死亡した。満州飛行機製造会社(奉天)へ動員された者は、工場で働き、戦車壕を掘った。 そこで玉音放送を聞いた。賃金ももらえず、一文無しだった。村上中隊長は、「各自で生きていく道を 探せ」といって、中隊を解散した。奉天では越冬できなかった隊員の死亡者が9人もでた。 「奉天」で、九死に一生を得て、助けてもらった養父母のもとで、中国残留日本人孤児となった 片辺竹利さんと杉山勝己さんがいた。文官屯では、「奉天」の北に位置し、玉音放送を聞いた後、 勃利に戻ろうとして、長春についた。長春で1ヶ月滞在した後、生きるために西安炭坑へ移った。 ここで、空腹と下痢や発疹チフスなどで2人死亡した。
村上中隊の隊員が帰国したのは、1946(昭和21)年8月以後である。1年あまりのこうした艱難 辛苦の逃避行や厳しい越冬で、村上中隊の4分の1である51人が犠牲となった。翌年に来た藤森中隊では、 175人中帰国できたのは90人で約半分が死亡した。