岡山県龍爪開拓団1
論文「岡山県龍爪開拓団」

 この論文は岡山大安寺高校の『紀要』に掲載された。『紀要』に掲載された論文には 18枚の写真と5枚の地図・図表が掲載されていたが、今回は都合によりそれらを掲載せず 文章だけとした。そのため読みにくくなったことをお詫びしたい。なおそれらを含めてこの 論文の内容についてもっと知りたいとお考えの方はメールでその旨をお知らせくださいます ようにお願い申し上げます。

1 「はじめに」

 私が「開拓団・義勇軍」といった歴史に興味を持ち始めたきっかけは、1993(平成5)年 当時勤務していた玉野光南高校に老夫妻が史料や写真を持参して訪ねてきたことから始まった。 老夫婦は、大主上房開拓団(注①)出身であった。「私たちが体験した悲惨な歴史を若い先生や 生徒さんに知ってもらいたい」と、話し始めてくれた。玉野光南高校の近く灘崎町(現岡山市) 西七区は、戦後開拓団の人々が県と掛け合って入植した場所であった。開拓団を研究する際には、 戦後県の援護係が聴き取っていた資料と、当時の写真、本人からの聴き取りが歴史を再構成する すべてであった。1996(平成8)年、大主上房開拓団を訪ね『大地の悲劇』を出版した。

 岡山大安寺高校の『紀要』に「開拓団関係の原稿を」と依頼されて、かりにも歴史の論文に 耐えうるものが書けるかという疑念があった。歴史論文と言う場合、オーラル・ヒストリーと いう手法だけでない一次史料という実証できるものも必要だ。開拓団関係の一次史料は、 「旧満州国」に埋まっているか、送出関係や引揚げ関係を中心に県の援護係が所持している 史料がすべてである。先行研究としては、『岡山県史近代Ⅲ』や『岡山県郷土部隊史』に 概括的な内容と、あとは個人的体験をまとめた私家本、関係者による名簿などがある。 この「岡山県龍爪開拓団」を書くにあたっては、船越美智子(注②)がまとめた 『満州第六次龍爪開拓団の足跡』(1976年)を中心に多くの関係者から聴き取りをして歴史を 再構成した。

 オーラル・ヒストリーを試みるのに、直接入植した親の世代=90歳以上の年齢に聴き取る 事は無理になった。ただ、この世代は、70年代に名簿を作成し、毎年会合を重ねて記憶を すりあわせ、80年代には残留孤児を受け入れ、現地を再訪し、体験記を書いた。それと、 この世代と体験を共有しながらも、青年・成人に近い年齢層である子弟関係者がいる。 現在でも、80歳前後でまだ聴き取りは可能だ。昭和3年生まれの船越美智子や昭和6年生まれの 神原君恵(旧姓)である。

 龍爪開拓団の助役の立場にあり全体を把握している父の繁一の娘である美智子は、当時 龍爪開拓団に在村していて、ソ連参戦時に18歳ではっきりした「記憶」を持つ。船越美智子は、 1975(昭和50)年から岡山県の龍爪開拓団の名簿と体験記を作成した。さらに、戦前の 龍爪開拓団の写真を所持していて、提供してくれた。また、1980(昭和55)年岡山県代表と して龍爪開拓団の死者が出た関係地を訪ねた。(手記が『別冊一億人の昭和史続―満州』に 掲載されている)また、1988(昭和63)年に龍爪開拓団の「現場」を長い時間をかけて 再訪した。それ故に、船越美智子の証言は信憑性がある。

 それでも、船越美智子の証言や記憶がすべて正しいかを検証する文献史料が欲しかった。

 2008(平成20)年6月、知人のメールで「龍爪開拓団の役場資料がネットオークション されている」という情報を得て、早速購入した。『第六次龍爪開拓団施設要覧』 「昭和14年4月3日」と書かれた6枚の資料は、昭和14年に限定されたものの手書きで、村役場の 資料そのものであった。団組織、開拓団建設要旨、村の配置図、村の歴史、団員状況、耕地面積、 農産施設状況、学校児童数、施設費、家畜数、家畜配給標準、耕作予定面積一覧が 書かれている。

 1937(昭和12)年に先遣隊として訪満した父に続き、船越美智子は翌年12月に一家で 龍爪開拓団に移民した。1939(昭和14)年3月の「第六次龍爪開拓団施設要覧」に登場する 団員の名前や校長や先生の名前などが以前の聴き取りと一致し、その資料があるおかげで 船越美智子の記憶も蘇って来た。生徒人数80名、複式学級で尋常1年2年31名、尋常3年4年20名、 尋常5年6年17名、高等科1年2年12名は、ぴったり一致した。当時の教員の名前を西浦校長、 土井教員、加藤訓導、「吉藤訓導」と船越美智子からは聞いたが、『施設要覧』には、 「高野訓導」と違っていた。時期のずれだった。

 2007(平成19)年「岡山県龍爪開拓団跡地を訪ねる旅」(注③)を企画した。私自身05年 (注④)に続き龍爪開拓団は、二度目の訪問だった。中国残留日本人孤児であった高見英夫と 日本へ引揚げることのできた高見エミ子(旧姓)や小林軍治(元高校教師)に参加してもらう ことが大きな目的であった。しかし、当時高見英夫は8歳、高見エミ子は7歳、小林軍治は3歳で あった。はっきり「記憶」している年齢とはいいがたい。

 山陽新聞で2004(平成16)年の元旦からはじまった連載記事『落葉帰根』(注⑤)は、 中国残留日本人孤児高見英夫の体験を元にした現地を訪ねる旅と証言の記載であったが、 中国残留裁判の世論喚起には大きく貢献した。しかし、今度の旅は歴史を研究する私にとって、 高見英夫の証言を実証する旅として位置づけた。

 それ故、高見英夫は今でも「青木先生には信じてもらえないが・・・」と前置きして 個人体験を話す。私は高見英夫の「感情記憶」は大切にするが、あくまでも大切なのは 「歴史の真実」と言うのが歴史を研究する者のスタンスである。

 この稿は、多くの証言者からの聴き取り、写真、一次史料、関連本、現地を訪ねて見た 「現場主義」などを駆使して書いた。オーラル・ヒストリー(注⑥)の陥穽にはまりそうに なりながらも、あくまでも真実を求め、オーラル・ヒストリーの可能性を追求した。

 注① 1940(昭和15)年、第10次大主上房開拓団は、岡山県上房郡(旧高梁市・有漢町・ 北房町・賀陽町)出身者が移民した。まず、ソ満国境近く、宝清と東安(密山)の中間点に 先遣隊が入植した。付近に大主山、大主河がある。本部・恵比須郷・大黒郷・福禄寿郷・ 受徳郷があり、計157名が在団した。在籍者数157名のうち、現地で死亡したのは97人、 残留孤児7人、帰国できたのは53人という数字であった。詳しくは、拙著『悲劇の大地』で 報告集を出版した。
 注② 第6次龍爪開拓団に入植した船越美智子は、1928(昭和3)年2月早島町生まれ。 父繁一は、精米所で働いていたが、1937(昭和12)年先遣隊として入植した。翌年12月、 祖父母、母、姉2人、兄、妹の8人で入植した。美智子は、龍爪国民学校高等科を卒業後、 新京(長春)のタイピスト学校に入学、卒業後、満拓公社にタイピストとして入社、昭和20年 4月に龍爪開拓団に戻っていた。1953(昭和28)年日本へ引揚げた。
 注③ 2007(平成19)年、高見英夫・高見エミ子・小林軍治を中心として龍爪開拓団 関係地の足跡を訪ねた。大連・牡丹江・林口及び龍爪・頭道河子・拉古・長春・瀋陽などを 訪ねた。船越美智子に事前調査し、88年に美智子が辿った所を訪問し、また高見英夫の関係地を 訪問した。この度の記録は、『慟哭の大地』として報告集を出版した。
 注④ 2005(平成17)年、中国残留孤児裁判の岡山原告団長高杉久治の足跡を訪ねた。 弁護団長の奥津亘や事務局長の則武透弁護士をはじめ、裁判を支える16名で方正、七虎力開拓団、 張家屯襲撃された場所、大呉家村での養母墓参りなどを辿った。その帰り、龍爪開拓団も 訪ねた。拙著『緑の大地』で報告集を出版した。
 注⑤ 2003(平成15)年12月に、山陽新聞社では、高見英夫の足跡を訪ね、 山陽新聞社の記者と龍爪開拓団跡や、長春、瀋陽を訪ねた。2004年お正月特集で、龍爪開拓団を 取り上げ、また「落葉帰根」として英夫の証言に従って報道した。「落葉帰根」の連載は、 他の中国残留孤児の人生も紹介し、大きな反響を呼んだ。2004(平成16)年2月20日から2008 (平成20)年2月21日まで続いた裁判を「落葉帰根」の記事は強力な支援となった。
 注⑥ オーラル・ヒストリーとは、「歴史研究のために関係者から直接話を聞き取り、 記録としてまとめること」である。「特に近現代史の研究者の間で一九九○年代以降、 オーラル・ヒストリーが注目されるようになり、組織的な取り組みが行われている」と ウイキペディアに記載してある。日本オーラル・ヒストリー学会もあり、東京大学の御厨貴 教授は、オーラル・ヒストリーの第一人者と呼ばれている。


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