悲劇の青春3
「悲劇の青春」

村上中隊

合同新聞 昭和19年5月3日付

 昭和19年2月20日、内山下国民学校で壮行式があった。村上中隊は、岡山市を含む県東部地域出身者で編成され、幹部5名、夫人2名、隊員208名。昭和4年、5年生まれが中心で、国民学校高等科卒業前に出発することになった。

 中隊長は、村上九六。幹部に山崎孝志先生(教務)。右手延夫先生(軍事)。高田恵人先生(農事)皆木衛先生(語学)の五名。

 壮行式後、後楽園で昼食、岡山神社参拝後、駅まで市中行進し、内原訓練所へと向かった。

 3ヵ月の内地訓練が、内原訓練所であった。所長は加藤完治であった。村上中隊は第25中隊として日輪営舎に入所し、そこでは「弥栄三唱」「やまとばたらき(日本体操)」や農耕・軍事教練・行軍訓練など精神・規律を徹底的に教えられた。

 5月20日、渡満壮行式後、東京(宮城遥拝)、新潟港、羅津経由で、勃利へと向かった。5月下旬、勃利大茄子訓練所に、第2大隊第4中隊として、先輩 長野中隊後の営舎に入所した。

 農作業としては、大豆、ジャガイモ、白菜、キャベツ、トマトを植え、その除草作業が大変だった。収穫作業やその貯蔵と多忙な季節を送った。秋は、羊草(ヤンソウ)を刈った。零下20〜30度にも下がる冬は、山への伐採作業とその運搬作業があった。また、苛酷な軍事教練は、厳冬下でも昼夜おこなわれた。 こうした1年間の訓練生活で、大茄子訓練所で16名が、また重症ということで哈爾濱義勇隊中央病院へ送られて死亡した隊員3名。都合19名が、犠牲になっている。原因は、発疹チフス、アメ−バ赤痢、凍傷、屯墾病、下痢、栄養失調などであった。

 昭和20年になると、関東軍から動員要請があった。3月に、関東軍第380部隊・軍馬育成所(大連周水子)に3名。5月に、関東軍第119部隊・南満造兵廠(文官屯)へ31名。6月に満州飛行機製造会社(奉天)へ101名。大茄子訓練所には、残留部隊が30名残っただけである。

 分散した村上中隊は、ソ連参戦・敗戦をそれぞれの地で迎えた。残留部隊は、ソ連の攻撃を受け、仲間犠牲者を涙の置き去りにして、逃避行を続け、東京城で武装解除し、延吉で捕虜収容所生活を余儀なくされた。満州飛行機製造会社(奉天)へ動員された者は、現地中隊解散になり、越冬できず死亡した者6名、残留孤児となった者も多くいる。その中で、片辺竹利さんは昭和53年、杉山勝己さんは、平成3年にやっとの思いで永住帰国された。

 こうして、艱難辛苦の中、村上中隊の4分の1である、51名が犠牲となった。


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