「悲劇の青春」 |
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大茄子訓練所・その2 |
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大茄子訓練所村上中隊跡で「九六会」参加者 |
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大茄子の旧大隊道路はそのまま残っていた。供養した場所から、約1キロぐらい西に行った 所でバスを降りた。今は赤煉瓦の集落が立ち並ぶ。
約4〜5キロ離れた山へ、冬の暖房用の薪を取りに行った。秋から冬にかけて、時折り「ノロ鹿」が 出没し、撃ったこともあると言う。雪の曠野の薪運びで、凍傷にかかり手足を切断したり、 死亡した隊員もいた。
山と村上中隊営舎の間に、現在は高速道路が走っている。近くに巨大な火力発電所が風景を 遮断するようにそびえ建っている。
大茄子訓練所当時の生活を聞いたら、元隊員の人の話は尽きなくなる。 55年前にタイムスリップしたように、少年の瞳に戻る。
入営したその日の夕食が、「お祝いの赤飯」かと思ったら、赤い高梁飯であったこと。 右手先生の指導する軍事教練の厳しさ。肥沃で広大な大地での農場作業の厳しさ。 特に夏の除草や秋の収穫は、忙しかった。流れる汗。しかし、日本のように冷たい水は飲めなかった。 「故郷の冷たい水が恋しかった」と言う。
大茄子訓練所付近の冬の寒さは、氷点下40度にもなった。お風呂から上がってタオルを振ると、 そのまま凍って棒になる。一番困ったのが便所だった。大便が直ぐ凍ってしまう。 そこで、便所当番が、鋸とツルハシで岩石状態になった物を破砕し、モッコで運ぶ。 凍った物の飛沫が全身について、それがオンドルの暖かさに溶け始めたときの「匂い」の話。
そして、何よりも辛いのは、冬の不寝番。寒さや眠気との戦いもさる事ながら、狼との戦いと 恐怖が付きまとった。家畜を襲ってくる。屋根や人間を軽く飛び越えることは、よくあった。 「だから、頭上の狼を見ることは厳禁だった。上を見た瞬間、目に砂をかけて目つぶしをするんです」 「豚舎がやられたこともあった」(竹中福男さん談)
こうした、越冬生活に終止符が打たれた。昭和20年になると、関東軍は満蒙開拓青少年義勇軍の 少年を戦略と戦力に利用し始めた。
3月には、大連の関東軍380部隊へ軍馬の育成に3名が派遣された。5月には、皆木先生以下 31名が、関東軍第119部隊文官屯の南満造兵厰へ派遣された。6月には、村上中隊長 以下101名が、奉天(現瀋陽)の満州飛行機製造会社に派遣された。7月には、山崎先生 以下約30名が、関東軍第1397造船部隊として大連へ派遣された。 大茄子訓練所に残ったのは、幹部無き15歳の少年約30名のみだった。