悲劇の青春8
「悲劇の青春」

勃利空襲と逃避行

坪根さん(中央)を囲んで

 七台河市から、勃利駅まで約40キロ。有料高速道路をバスで約1時間走った。

 北満の大地と丘陵に、トウモロコシ畑や大豆畑やひまわり畑が美しい。遠く列車の窓から見た風景が、手の届くところにある。

 勃利駅前は、都会とは一味違う喧噪な庶民の町であった。勃利駅の裏を少し牡丹江側に走り、トウモロコシ畑の側でバスを止めて、 逃避行の中死亡した5名の慰霊を行った。

 今回の旅に参加予定であった坪根孝さんは、この4月に病気のため入院された。友人の慰霊のため、さぞ参加されたかったと思う。 昨年の暮れ、坪根さんに講演してもらった時の資料に添って当時を振り返ってみることにしたい。

 昭和20年8月10日早朝、ソ連の参戦を知り大茄子訓練所は騒然とした。村上中隊は残留部隊約30名。 この年5月、後輩の藤森中隊も175名が派遣されていた。

 中隊の残存物資を穴を堀り隠した後、雨の中を勃利の街をめざして歩いた。 駅前近くの広場には、兵隊数10人、義勇軍、開拓団の婦女子等約3000人位いた。義勇軍2人に1丁の銃と弾薬や2日分の乾パンが支給された。

 8月14日、牡丹江に向けて出発した。1時間後、振り返ると勃利の街は空襲にあっていた。 その後、山肌を縫うような道で、ソ連軍機による空襲と機銃掃射を受けた。阿鼻叫喚の地獄。蜘蛛の子を散らすように、山へ畑へと逃げる。 すぐ側で、立花君が撃たれて死亡した。ガクガクと震えが止まらなかった。また、春名君、花房君もここで死亡した。 3名を埋葬するどころか、遺品1つ持ち帰っていないことを坪根さんは今も後悔している。

 翌15日も亜河駅付近で、空爆及び機銃掃射にあった。パイロットの顔まで見えた。ロケット弾が機関車を直撃した。大豆畑や高梁畑を這いずり回って逃げた。

 食料が不足して、兵隊の命令で農家を襲撃した。初めて撃つ実弾射撃の怖さ。応戦してくる。耳元をかすめる弾に身を竦ませた。

 山の中で、開拓団の女性や子どもの集団自決に出くわす。死に切れない人が、「撃って下さい」というが、恐ろしさで逃げ出した。

 3回目の襲撃を受けた。1人になって山の中をさ迷っていたら、佐伯さんという開拓団の母子に出会った。子どもは、みな子ちゃん6歳。一緒に逃避行することになった。 しかし、9月初旬、坪根さんは、激流を先に渡った時、足を捕らわれて流されてしまい、佐伯さん親子と離れ離れになった。

 坪根さんは、今でも、立花君や佐伯さん親子の夢を見ると言う。  


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