「悲劇の青春」 |
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牡丹江 |
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牡丹江にて当時を語る藤島武明さん |
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牡丹江は、緩やかに流れていた。江濱公園は、朝から市民の憩いの場として賑わっていた。大極拳をしているグル−プがいる。川で洗濯していたり、野菜を洗っている女性がいる。川で子どもは水遊びをしている。
その公園の中に八女投江記念碑がある。1938年10月、東北の抗日ゲリラの女性隊員8名が、弾が尽きるまで戦い、全員が捕虜になることを拒否し、牡丹江に身を投げ自ら命を絶った烈士の記念碑である。青年のグル−プが、ボランティア活動なのか教師に引率されて、記念碑を雑巾がけをしていた。町を清掃する人も各所で見た。
牡丹江の街は、陸軍病院跡や当時の銀座街、高屋百貨店跡も残っている。日本人に親しみのある街だった。
藤島武明さんは、勃利から逃避行を続けていた。彼は、常に先頭にいた。先遣部隊として、多くの義勇軍や開拓団の逃避行を引率していた。銃を持ち、先見しては戻り、前方の様子を報告しながら先導していた。
彼は、牡丹江市の向こう側の山裾を歩いていた。牡丹江市は既に空襲を受けていた。近くに空港があって、日本製の赤い練習機が1台壊れた状態であったのを見た。
この頃、ソ連軍の飛行機による偵察が続くので、昼間は山の中に隠れ、夜のみ移動していた。急な川を渡る際、開拓団の老人や女性や子どもは流されて多くが脱落していった。
義勇軍の仲間でも、負傷者や栄養失調や下痢による徒歩不可能なものは置いてきぼりになってしまった。「牡丹江は、もうだめじゃ。寧安に行こう」と言うことになった。
寧安には、満蒙開拓青少年義勇軍の勃利、嫩江、鉄驪、孫呉と並ぶ5つの大訓練所があるからだ。しかし、そこも国民党や現地人自警団によって占領されていた。東京城手前で、銃を捨て、とうとう白旗をあげた。義勇軍が大半で、約1000名ぐらいに減っていた。東京城のソ連軍屯所で捕虜となった。
ここの収容所では、高梁飯が1日2回出ただけの食事だった。空腹に耐えかねて、鉄条網を越えて、近くの農場にまくわ瓜やトウモロコシを盗みに行ったこともあった。東京城で約1ヵ月収容された。
「ここを出て、延吉まで歩いて行け」との命令がでた。少しでも日本に近づくと思って歩いた。東京城から延吉までは、約200キロ以上の距離がある。勃利残留部隊にとって、勃利から延べ約500キロにわたる逃避行の終着駅だった。