「悲劇の青春」 |
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瀋陽−その1 |
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瀋陽にて当時を語る小椋暢昭さん |
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瀋陽は、2つの顔を持つ。故宮博物館や北陵公園に代表される歴史の街。現代中国の東北の重工業都市で、遼寧省の省都の街。かって旧満州国時代は、「奉天」と呼び、日本人が多く住み、日本人街を形成していた。
昭和20年6月、村上中隊の半数にあたる100名に、村上九六中隊長引率のもと「奉天」に派遣命令が出た。満州飛行機製造会社(通称・満飛)の工員不足補充ということで派遣され、見習工として、熟練工を手伝った。
宿舎は、当時の日本人住宅地区の花園街区にある大和寮だった。満飛まで4〜5キロぐらいの距離がある。隊員はそこに住み込んだ。
今回の「悲劇の青春を訪ねる旅」実行委員長の団長に、小椋暢昭さんになってもらった。
小椋さんは、昭和2年4月生まれである。阿波村出身で、4人兄弟の長男。阿波村国民学校高等科を卒業した後、青年学校に進んでいた。村上中隊内では、数少ない2歳年上である。
「誰に勧められたんですか」
「国民学校の校長と村長に勧められたんじゃ」
「どういう風に勧められましたか」
「満蒙開拓青少年義勇軍に行くと10町歩の土地がもらえると言われたんじゃ。ただ、自分としては、少年飛行兵とか軍需工場の徴用か義勇軍かという選択の中で選んだんじゃ。わしは背も低かったし、走るのも遅かったし、軍隊は行きとうなかった。義勇軍へ行けば、食料には不足しないと思っとった。それは、あとで裏切られたけどな」
小椋さんは、内原訓練所で選ばれて、針灸学校に入れた。お灸や解剖学を学んだ。大茄子訓練所では、本部勤務となった。だから、彼は嫌いな軍事訓練も農作業もしていない。 元隊員は、『残影』の中で、「小椋さんのお灸は、熱かった」と、回顧している。
旧「奉天」の満飛では、花園地区の大和寮から隊員を引率する副官だった 隊員が働く職場を巡回した。彼は、常に村上中隊のエリ−ト(?)であった。
昭和20年8月6日、村上中隊で2歳年上であった小椋・竹中・菱川の3名に現地召集令状が来た。
「10日までに、新京(長春)へ集合せよ」
しかし、交通は混乱しており、旧奉天南駅から新京(長春)行きの列車は出ていなかった。8月15日、玉音放送を聞いて、村上中隊長は中隊を解散した。「各自で生きていく道をさがせ」と、言われた。小椋さんは、青葉町に住む西岡さん(広島県出身)の本屋さんに住み込み越冬した。帰国できたのは、昭和21年8月、葫蘆島からだった。